未来へ/灰島サンド


結婚式を三日後に控えた私は、知らない部屋で目を覚ました。
異常に重たい体を起こして、周囲を確認する。まず、窓に近付くのだが、不愉快なことに窓の外側に鉄格子が付いている。牢屋のようでムカつくが、外は確認できる。私の勤務先である、灰島の本社ビルが見えるから、部屋はともかく、外に出れば家に帰ることはできそうだった。勝手知ったる土地ではあるが、ここはビルか、マンションなのだろうか。どの建物にあたるのかはわからない。
次に扉に手をかけるが、がちゃがちゃと言うばかりで開きそうにない。鍵穴が一つある。これを開ければ外に出られそうである。物は試しだと壁に手を付いて一つずつ確認していく。シンクはキレイにしてあって、水も出る。収納スペースを確認していみると、料理に必要なモノが、ーーそれなりに揃っているが、包丁やナイフ、先の尖ったものは見当たらない。ミネラルウォーターだけが入った冷蔵庫、空の炊飯器、真新しい電子レンジ。白いカーテンにはなにも引っ掛かっていない。エアコンは休まず稼働している。他には空気清浄機と、丸い絨毯とベッド。掛布団をひっくり返したり、枕の中身を確認したりしたが、鍵らしきものは見当たらない。クローゼットも開けてみるけれど、掃除機や、毛布、服などが入っているだけだ。一応一枚一枚確認したが、何も変わったところはない。
私は絨毯の上にぺたりと座って、ようやく「なにこれ」と呟いた。

「なにこれ?」

夢だろうか。と頬を抓るが自分の頬の感触も冷たさも、力を込めるとじりじりと広がる痛みも、現実としか思えない。夢であればそろそろ覚めても良い頃だと思うのだが。私は手触りのイイ絨毯の上で丸くなって目を閉じた。ここは一体。私は何故。問い質す相手もいないので、眠ってしまうことにした。次に目を開けた時にはきっと、元の生活に戻っているにちがいない。
三日後に控えた結婚式について考えながらゆっくり呼吸を整えた。

「!」

がちゃ、と鍵が開く音がした。
咄嗟に顔をあげられなかったのは、怖かったからだ。誰もいない内はいい。しかし、こんな密室で、誰か知らない人間に会ってしまったら、私はきっと固まってなにもできなくなってしまう。眠ったフリか、跳び起きて突進してでも外に飛び出すか。

「起きたのか? しかしそんなところで寝ていると風邪を引くぞ?」
「やっぱり、ベッドが好みじゃないんですよ」
「そんなことあるわけないだろう。なあ?」
「……」

聞いたことのある声だった。起き上がって扉の方を見ると、まさしく想像した通りの人がそこに居た。

「大黒部長、黒野主任……?」

何故。いや、考えるべきなのはそんなことか? 私はぎゅっと拳を握って体に力が入ることを確認する。これは直感だが。

「部長だなんて他人行儀だな。これから一緒に暮らすんだから、ダーリンとかあなたとか、もっと気安く呼んでくれ」
「俺のことも、名前を呼び捨てとか、もっと愛情をこめて呼んでくれないか」

逃げるのならば、今しかないのではないか。決断する。彼らを突き飛ばしてでも外に出ようと思い切り床を蹴る。
身体が、心が、逃げろと叫んでいる。できるだけ姿勢を低くして、捕まらないように突進した。黒野主任よりは大黒部長の方が可能性がある。なんとか廊下に出ることには成功したのだが「黒野」「わかってますよ」すぐに、黒野主任の黒煙に掴まった。
熱い。息がしづらい。
私は部屋に放り込まれて、思い切り咳をする。昨夜私は何をしていたか。別段特別なことはしていない。いつも通りに家に帰って寝ただけだ。そして起きたらここだった。明らかにおかしい。そして現れた二人組。無関係であるはずがない。しかし、と私は改めて二人を見上げる。

「オイ、黒野。あまり乱暴するんじゃないぞ?」
「すまない、なまえ。お前がまた俺の前からいなくなってしまうんじゃないかと思うと加減が出来なかった」
「なまえ? 平気か?」

組み合わせが最悪だ。今、彼らが何をしたいのか定かではないが、私だとか、あるいは私の上司や、その息子、つまり私の婚約者のことだが、そのあたりの人間に何かをしたいのだとしたら、充分すぎる面子である。
面倒な手続きや隠ぺいは大黒部長の得意分野であろうし、それを実行に移す為の駒として、黒野主任は申し分ない。今だって、大黒部長だけだったら逃げられたかもしれない。黒野主任だけだったら力押しは無理でも(彼はなんだかんだ抜けているので)逃げられる隙は見つけられるだろう。
それがどうだ。

「……」
「なまえ? さっきからどうして黙っているんだ」
「部長の顔が怖いんでしょう」
「お前が顔のことを言うのか? 子どもたちに怖がられているんだろう?」

私は溜息を吐いた。会話ができるか自信はないが、一応聞いておかなければいけないことがある。逃げるのに失敗した私は二人の顔を交互に見た。どっちの顔だって普通に怖いが。

「私は、どうして、ここにいるんですか?」

「そんなことは決まっている」と二人は揃って私の前に座り込んで、同じくらいの力で私の体を抱き寄せた。灰のにおいと、香水の匂いが混ざり合って不愉快だった。



「すきだ」

私の生活は一変した。
このワンルームに閉じ込められてから一か月が経過した。
「結婚式があったんですけど」と一度だけ言ってみたのだが「俺は招待されていないな」と言われた。当然である。黒野主任も大黒部長も私の上司ではないのだから。その後なにを聞いても私の婚約者と結婚式については何も話してくれなかった。

「すきだ、なまえ」

そして、私が逃げないようにであろう。四六時中、ではないが、この部屋には黒野主任か、大黒部長か、その両方がやって来て、ひとしきり私を構って帰っていく。灰島の本社ビルから近いから、さぞ通いやすいことだろう。確か、能力開発の研究所も今はこの近くのはずである。

「なまえ。こっちを見てくれ」

食事は彼らがこの場で作ったり、持って来たり様々だ。飲み物だけは常に置いてあるし、希望を聞かれることもあるが、基本的には水やお茶、どちらが置いて行ったかわからないがビールが常に入っている。シャワールームもあるのだけれど、これは私が勝手に死ねないようにであろうか、浴槽は存在しない。シャワーも固定されていて、これを使って首を吊るというのも難しそうだ。
現状、死にたくはなるが死ぬ気はないので、ただ迷惑なだけの気使いだった。

「なまえ。なまえ? 聞こえていないのか?」

隣ですきだのなんだのと鳴いている黒野主任は、今日私の為にとケーキを買ってきて何かを期待する目で私をじっと見つめていた。「なあ、なまえ」一か月も一緒に居れば、それぞれなにがしたいのか、私に何を求めているのかわかってくる。
黒野主任は私をこんなところに閉じ込めておいて、私に好きになってもらいたいらしい。私がこうして反応を返さないでいると擦り寄ってきて、私と無理矢理目を合わせて「すきだ」と繰り返す。だからなんだと、私は心の中で思うのだが、反応することは逆効果であると思うので、何も言わない。ただ、命を繋ぐために、ご飯や水は貰うし、ベッドで眠るし、誰もいない時は部屋の中をぐるぐる歩いていたりする。暴れてみたりもするのだが、苦情が来ることもなければ、隣や上、下の階から人の気配が全くしない。
きっと、人は住んでいないのだろう。大きめのマンションに見えるのに、下手をしたらこの部屋に私が一人だけという可能性もある。

「なまえ」

私がそこに居ることを確認するみたいに抱きしめて、触れるだけのキスをしてきた。一度、睨み付けてしまったのだが、そうするとなぜか嬉しいようなので、徹底して無反応を貫くことにしている。反応しない。反応しない様にと躍起にもならない。反応しないことを考えないくらいに、ないものとして扱う。大変に寂しそうにされるが、知った事ではない。ざまあみろと思う。
会話をして情報を聞きだすべきだろうか、とも思うのだが、有力な情報が出て来るのならば大黒部長の方からだろうと思う。黒野主任とは会話を成立させるのも難しい。灰島で働いていた時にはそうでもなかったが、ここに閉じ込められてから、ニ、三言葉を交わしたけれど、とにかく私の言葉が届くのに時間がかかる。
視線を合わせれば恍惚とされるし、言葉を放てばそれがどんな言葉であれ「もう一度言ってくれ」と強請られ、名前を呼ぼうものならそのままベッドに縫い付けられる。結論、何もしないのが一番彼にダメージを与えられる。

「……大黒部長とは話をしているだろう? 俺ともしよう。なあ、なまえ」

「なにが気に入らないんだ」「言ってくれなきゃわからない」「こっちを」なにもかも気に入らないし、言ったってわかってもらえないし、私は「こっちを見てくれ」お前の顔など見たくない。



「たまには、黒野にも構ってやってくれないか?」

「徹底的に無視したそうじゃないか。その後会社で散々だったぞ? 目につくもの全てに八つ当たりしている、と言う感じだった」何故無視されないと思うのか、それが疑問である。
黒野主任の話はともかく、この人、大黒部長は、黒野主任とは違って、私がこの人を好きであるかどうかは然程問題ではないようだ。最初の内は、黒野主任の反応を見て面白がっているだけかとも思ったが、最近ようやく、そうではないと気が付いた。

「あの人構うと、面倒なので」
「はっはっは」

大黒部長は私を無理矢理自分の方に引き寄せて肩を抱いている。そして先ほど彼が手入れをした私の髪を指で引っ掛けて遊びながら、ずっと私になんでもないようなことを話しかけ続けている。「今朝、君の上司だった男が」「君のよく行っていたパン屋の新作が」「新しく部下になった奴が」「今日、ここへ来る途中」と言った具合に思いついたことを適当に話しているという風だが、黒野主任の鳴き声よりはやや耳触りが良い。「なまえ」

「……」
「なんだ、今日はもう話をしてくれないのか? ……そうか。それならそれでいい。少し眠るか? 膝枕をしてやろう。君は特別だからな」

してやろう、と言いながら、人形かなにかにするように私の頭を無理矢理自分の膝に押し付けて、私の頭を撫で始める。「よしよし、君は本当に頭が良くてかわいいな」寒気がした。
大黒部長は道楽でここまでする人間ではない。だから、目的はある。ただそれは、黒野主任とは違って私に好きになってもらうことではなさそうだ。おそらくこの人は、私に何かを求めているわけではない。いや、こんなところに閉じ込める時点で閉じ込められていることは求められているわけだが、肉体の所在ではなく、これは、私と言う存在そのものについての話だ。

「ふふ。今日も顔色がいいな。昼ご飯もしっかり食べていたし、最近はちゃんと眠ってもいるようだしな。健康なのはいいことだ」

この男は、私に好かれることは期待していない。その代わりに。

「ただ、俺はやはり一つ不安なことがあってな」

短い膝枕だった。大黒部長は私をベッドに転がして、その上にのしかかるようにして向かい合う。真っ黒な瞳の底を窺うように睨み付けた。「その目だ」

「こんな状況だっていうのに、君は、一体なにを考えているんだ?」

私の腹の上に馬乗りになって、私を見下ろす。
何を考えているかと言われれば、常に情報を整理している。黒野主任について、大黒部長について、最新の情報にアップデートして、どうしたら私はここから出られるのかを考えている。「強い目だな。君は折れるということを知らないのか」どの口が。

「さっさと、生きる気力もなくなって、逃げることも諦めて、されるがままになってしまえばいいのにな」

それはもう私ではないだろうが。
思い切り悪態を吐きたくなるが耐える。
つまり、大黒部長は私がここに存在してさえいればいいわけだ。



三か月が経過したが、状況的には何の変化もない。
ただ、二か月目に突入した時、死ぬ気で壁を殴り続ければ穴くらい空くのではと蹴ったり殴ったり、ぶつかったりしていたら、三十分も経たない内に黒野主任が駆け込んで来たので、私は一人きりの時間も監視されていることがわかった。それからしばらく、絶対安静にするようにと食事になにか盛られ、ほとんどベッドから動けない生活が一月続いた。
ようやく薬が抜けて、部屋の中を自由に動き回れるようになった。中途半端な行動は自分の首を絞めるだけだ。やるならば、もっと確実な方法でなければならない。
黒野主任は相変わらずに煩いし、大黒部長は私をただただかわいがっている。

「やあ、なまえ。寂しかったか?」
「なまえ、会いたかった」

今日は、仕事は定時で終わったのだろうか、どこぞでテイクアウトしてきたらしいお弁当となにやらでかい荷物を持って二人揃って部屋にやってきた。私はもう黒野主任とも大黒部長とも話をしなくなっている。何か良い案が出るまではこちらからはなにもしない。話さない、という選択肢が最適解かどうかはわからないが、私の直感がこれでいいというので、きっといい。私の勘は割合にあてになる。というか、こんな状況である。自分以外の誰もあてにはならない。
「なまえ、これ、美味いぞ」「なまえ、海老は好きか? こっちを向け。食べさせてやる」どちらもいらない。私は自分で黙々と食事をしているが、二人はしばらく揉めていた。
基本的には彼らのことはいないものと扱っている私は、彼らがなにをしていようが決まった時間にシャワーを浴びて、決まった時間にベッドに入る。だから今日も「飲もう」と勧められる酒を断ってベッドに入る。

「なまえ」

黒野主任が私の隣にやってきて「すきだ」と鳴く。これはもう鳴き声みたいなものだと思っている、猫がにゃあと言うのと同じである。意味はない。「もう寝るのか。折角俺が来ているのに」肩を揺すられようがシャツのボタンを数個外されようが反応はしない。慣れたものだ。人間は成長するものである。「なまえ」名前を呼ばれるが、反応していやる道理がない。

「よせ、黒野。なまえは気分じゃないんだろう」
「なまえは、いつもこうですよ」
「まあそうだけどな」

こちらの気分など考えるような殊勝な連中ならば、私を監禁したりはしない。正直かける言葉がない。ベッドの中で目を閉じていると、ふ、と電気を消された気配があった。「今日は三人で寝るか」大黒部長が言った。
これは、と思う。
二人の犯罪者は「黒野、お前もっと小さくなれ」「部長が小さくなって下さい」「能力査定に響くなこれは」「なんでですか」などとまるで普通の会社員のようなやりとりをしている。私はどくどくと鼓動が早くなるのを感じる。
今まで、二人で来て私を好き勝手して帰っていくことはあっても、ここで眠って行ったことはない。当然である。ここに入る為には鍵が必要で、出て行くのにも鍵が必要だ。それを、寝ている間に私に取られたなんてことがあってはならない。万が一すらない為には、そもそも、ここで寝ないという風にするのが正しく安全だ。
それが、今日は、二人揃ってここで寝ていくらしい。このチャンスを生かせなければ嘘である。二人が完全に眠ったタイミングで鍵を盗んで逃げられないだろうか。

「なまえ」
「んぐ!?」

目を閉じて、じっとこれからの行動予定を組んでいたのに、口の中に何かを突っ込まれた。ごく、と飲み込んでしまうと、急激に意識を保つのが難しくなる。この野郎、何か盛りやがった。なんとか、おきて、いなければ。

「おやすみ、また、夢で会おう」



起きると二人揃って朝食を作っているところだった。二人が眠っている時に起きられたらと思ったのに。全く徹底している。作戦は大黒部長だろうから、当然と言えば当然だ。そう簡単に抜け道を作られたら、それこそ警戒するべきである。

「なまえ、何が食べたい?」

あるものでいい。当然のように無視をして、身支度をする。身支度をするのは人間でいる為だ。このあたりのことを怠ると、ここを絶対に逃げ出してやるという気持ちまで減衰しそうで毎日欠かさずやっている。戻ってくると、黒野主任と大黒部長の間に座らせられて「口をあけろ」と左右から違うものを差し出される。この鬱陶しさにもすっかり慣れたが、私はふと、二人の顔を交互に見た。
黒野主任は私が見た、とその一点について異常に興奮して鼻息を荒くしていたが、大黒部長は何かを警戒するように眉間に皺を寄せていた。
いつもと違う私の行動に、二人が状況分析を済ませる前に次の行動をする。と言っても大したことはできない。私は、大黒部長が私に差し出すスープを貰った。かぷ、とスプーンを口に入れて綺麗に舐める。コーンスープだ。なかなかに美味しい。「な、」

「なまえ、こっちのも食べてくれ」
「大黒部長」
「――ああ。どうした?」
「もう一口下さい」

絶句する黒野主任を、大黒部長は一度だけ見たが、私がかぱりと口を開けるので手を動かした。黒野主任はじっと黙って、大黒部長を睨み付けていた。それこそ、今にも殴り掛かって首を絞めて、彼を焼き殺さんばかりの殺意で見つめている。
よし。
これだ。



二人である、ということは弱点になり得る。つまり、衝突させるわけだ。その方法については割合に初期から考えていたが、具体的な作戦は思いつかなかった。
だが、先日、一つ閃いた。
実行に移してみればこれは大変に効果のある作戦であると気付く。私はこの部屋にやってきた人間が大黒部長であるとわかるや否や「部長」と呼びかけ、にっこり笑顔を作って彼の胸に飛び込んだ。この部屋の様子は監視されているから、運が良ければ、いいや、黒野主任にとっては悪ければ、この光景を目にすることになるだろう。

「……」
「どうかしましたか」
「いいや、なにもないさ」
「キス、しましょうよ。寂しかったんです。ここ、やることないし、一人だと音がなさすぎて怖いんですから」
「そうか。それは、悪かった」

歯切れが悪い。歯切れは悪いが、私を突き放すようなことはせずに、私の体をぎゅっと抱きしめてからキスをした。大黒部長は私の狙いに気付いているだろう。
私の言葉が全て偽りであることも、私がこうすることにより期待している展開も。気付いているが、彼にはどうすることもできない。できることがあるとしたら、黒野主任によく言い含ませることくらいだろう。
すなわち『あいつのアレはお前を暴走させるためにわざとやっていることだ』『冷静になれ』と。
監視カメラの映像は切られているかもと思ったが、黒野主任は私が大黒部長にしたことを知っているので、切れば余計に不満を煽ると判断したのだろう。そうなるともう、本当に、大黒部長にできることは黒野主任に『落ち着け』と言い続けることしかない。
あと、実はもう一つあるが、これは出来ない、と私は推測している。
大黒部長がここに来なればいい。
だが、大前提として大黒部長と黒野主任は、結婚式を直前に控えた私を捕らえて、監禁しておくほど私に執着している。黒野が暴れるかもしないから、という理由で会わないでおくことができる程度の気持ちならば、理性的に動くことができるなら、こんなことにはなっていない。
私は、彼らの私への気持ちを信用した。
まったく意味がわからないが、自分の勘と同じくらいに信じられるものだと思っている。

「大黒部長」
「大黒部長」
「ねえ、大黒部長」

黒野主任がいようがいまいが関係ない。大黒部長が居る時にはぴたりと隣にくっついて、極上の笑顔で彼を見上げる。

「今日も楽しみにしてました。水曜日はいつも早い時間に会いに来てくれますよね」

大黒部長は笑顔を引きつらせながらも、私を拒絶することはしない。
ふわりと胸に飛び込んで、大黒部長の匂いを思い切り吸い込む。

「これ、すごく良いにおいですよね。私、好きです」

黒野主任は、そういう私の姿を見れば見る程、私が黒野主任を全く相手にしなければしないだけ、どんどん、どんどん憔悴していった。



そして監禁生活も半年が経過した時、大黒部長はとうとう、こんなことを口にした。私の隣に座り、頭を抱えて言うのである。

「黒野も構ってやってくれ」

それはつまり、もうそろそろ黒野主任は限界というわけだ。会社でも相当参っているに違いない。私はにこりと微笑んだ。誰が構うか。折角掴んだ勝ち筋なのだ。振り落とされないように必死にしがみ付いて、なにがなんでも成功させる。観察して、記憶して、必ず、こいつらに「さよなら」と言ってやるのだ。

「嫌です。私は大黒部長さえいてくれたらいい」
「その天に登りそうになる嘘もやめてくれ」
「大黒部長が大好きですよ」
「流石にわざとらしすぎる。そんな調子だと黒野も君の狙いに気付くぞ」
「それは問題にならない、と判断しています。それにたぶん、あの人は私の事をそんなにしっかり見てませんよ」

盗撮に盗聴もされているから、私はわざわざ最後の言葉は大黒部長の耳元で、彼にだけ聞こえる音量で言った。大黒部長の額から汗が落ちる。
私は大黒部長の膝の上に乗って、肩に両腕を置いて鼻の頭にキスをした。顔を傾けて、ジャケットのボタンをはずして、ネクタイを緩める。大黒部長は私の手を止めようとしない。私の手のひらが部長の胸をすっと撫でる。

「世界で一番大好きですよ。大黒部長」

やめておけばいいのに、やってはいけないとわかっているはずなのに、今、黒野主任が監視映像で見ているかもしれないのに、大黒部長は「俺も、大好きだ」と私の誘いに乗った。
かわいそうな人たちだ。



私の目から見ても、黒野主任は限界だった。
私はもう、足音で誰が近付いているかわかる。黒野主任とわかればベッドに寝転がって目を閉じる。何を言われても何をされても動かないし反応もしない。「なまえ、なまえ」と鳴き声をあげながら、私からの愛を求めている。嘘でもなんでも構わないのだろう。とにかく、私からの反応を求めて必死になっている。

「すきだ。俺はこんなにもお前のことがすきなのに」

手に入らなかったからと監禁する程度の好意がなんだと言うのか。私は鼻で笑ってしまいそうになるのを必死に耐えた。

「……何故、俺じゃないんだ」

大黒部長は暴走しないからだ。貴方の方が弱いからだ。だから、黒野主任ではいけない。もちろん私は何も答えず、何の反応もせずに、されるがままになっている。最近だと体から力を抜いてぼんやりとしていることも簡単にできるようになった。
「すきだ」「すきなんだ」と擦り寄られるが、私の欲しい言葉はそれではない。黒野主任だって優秀な人だ。きっとわかっている。私が黒野主任に求めていることが一つだけあって、それをしてくれるのならば、私はどんな反応だって返すだろう。
黒野主任は泣きそうな顔で言った。

「どうしたら、俺をすきになってくれるんだ」

ここまで来たら、もういつでもこの作戦は実行に移すことができるだろう。実際、黒野主任は私に会いに来る度に「教えてくれ」「どうしたら」と繰り返すようになっていた。「すきだ」「他にはなにもいらないのに」「大黒部長ばかりずるいだろう」「何故」「どうして」「どうしたら」そしてある日、黒野主任は言った。

「なんでもするから、俺ともう少し仲良くなろう」

私は、その言葉が聞きたかった。
ゆっくり体を起こして、黒野主任へ振り返る。

「なんでも、ですか」
「! ああ、なんでもだ。お前に好かれるなら、俺はなんだって」
「じゃあ、デートに行きませんか」

躊躇うのは当然だ。しかし、ここで私のお願いを断れば、私は忽ち黒野主任に興味を失う。断られたら私も困る。「ねえ」と袖を引く。「優一郎さん」貴方はこういうのが欲しいんでしょう?

「優一郎さんと、出かけたい」

これが私の勝ち筋だ。
黒野主任は私の体を抱きしめて、感極まったせいか一度だけ体を重ねた後に、一緒にシャワーを浴びながら返事をした。

「わかった。行こう。なあ、デートというくらいなんだ。俺のことを、もっとちゃんと構ってくれるよな?」
「もちろんです」

たったそれだけ言うのにどれだけ時間がかかってるんだ。とバレないように腰を擦った。痛ェ。



私は大きなコートをがばりと着込んで、ニット帽で顔を隠した。私が世間でどういう扱いになっているのかわからないが、黒野主任が顔を隠せというので帽子を被って来た。
黒野主任に適当に付き合うべきかとも思ったが、大黒部長に気付かれては困る。私は私が確認したかったことを二つ、確認しに来た。
目の前には売地の看板の刺さった、ただの更地。

「こんなことだろうと思いました」

実家はあったが、婚約者の家があった場所には何もなくなっている。あーあ。生きてはいないだろうなあ。泣きそうになったが、それは後だと考える。
実家はあったのだ。考え得る最悪の展開ではない。実家があるということは、私は灰島の敷地内で焔ビトになったとか、事故で死んだとか、そういう処理になっているのだろうか。そして、婚約者一家は皆殺し? 全く乱暴な話である。

「気は済んだか?」
「ねえ、優一郎さん」
「どうした? なまえ」
「折角なので遠回りをして帰りましょう」
「そうだな。そうしよう」

私はひょいと黒野主任と腕を組んで歩き出す。忌々しいあのマンションへの道はわかった。元々会社の近くだから土地勘はある。私は色々と声をかけてくる黒野主任に適当に返事をしながら歩く。灰島の本社ビルに近付くと、スーツを着た男女とよく擦れ違うようになる。近付けば近付く程に、人の量は多くなる。私はわざと一番人通りの多い道を選んで、マンションへ帰るフリをしながら。
けれど、これでは弱い。
黒野主任から逃げるにはもう一手欲しい。「あ」今日は水曜日だ。人混みの中に大黒部長を見つけると、私はわかりやすく声を漏らし、顔をあげて手を振った。
大黒部長と黒野主任がぴたり目を合わせる。

「黒野、お前」
「大黒部長」

今。
二人とも私から完全に意識が外れた。加えてこの人混みならば、黒野主任も思い切り黒煙を使うわけにはいかないだろう。
するりと黒野主任の手から抜けて、人混みの方へ走る。捕まったら死ぬと思え、と自分の体に言い聞かせて走る。ここから先のことは決まっていない。いや、決めようとしたのだけれど、どこもぱっとしないのだ。状況が状況だけに半端な場所に逃げ込めば死体をいくつか増やすことになってしまう。大黒部長が叫ぶ声が聞こえる。

「戻って来い! お前にはもう、俺達の傍しか居場所はない!!」

誰が戻るものか。居場所くらいどれだけだって作れる。
震えそうになる足に、ネガティブなことを考えそうになる頭に暗示をかける。そんなはずはない。そんなはずはない。そんなはずはない。そんなはずは、ない。諦めてはいけない。考えろ。どうするべきか、もっと必死になれ。
私は全速力で走りながら保護してくれそうな場所を考える。実家。候補地にすらならない。下手をすれば今度は家族が皆殺しだ。警察。いいや弱い。二人を、特に黒野主任を止める為にはもっと強い場所でなければ。となると、軍? いいや、駆け込んだって相当運が良くなければ門前払いだ。特殊消防隊はどうだろう。第八なんかは灰島色は薄いと聞くが。ここからは遠いか。いや、灰島は大きいし影響力もある。半端な場所ではだめだ。もっと、私が存在ごと曖昧になれるような退避先はないか。
走って、走って、走っていると。

「うっ」
「おっと」

遂に足がもつれて転びそうになった。
しかし、私はそのまま真っすぐ走っていた。隣を並走するこの人がうまく引き上げてくれたようだ。器用なものだと、こんな時だというのに感心した。「ありがとう」でも、隣で走られると目立つからやめてほしい。

「なァ」

知らない男の人に助けられた。一度の判断ミスで私はあの生活に逆戻りだ。どうするか。私は早速考える。真っすぐ前を見て走りながら、どうしたらいいのか、考える。

「お前、なんであんなヤバそうな奴らに追われてんだ?」

その人からは煙草のにおいがした。
この状況で私に話し掛けてくるということは、少しは腕に覚えがあるのかもしれない。そして、少なからず私か、私を追ってくる二人に興味があるのだろう。ならば、縋ってみる価値はある。
信用できるかどうか? わからない。そんなものわかるわけがない。何をしている人なのか? 今考えるべきなのはそんなことではない。私がどうしたいか、それだけだ。

「一晩でいい! たすけてください!」

私はまだ、負けていない。


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20201012:あめさんとプロット交換させてもらいました…。ありがとうございます!!!

 

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