その気持ちを恋/愛と呼ぶ/大黒、黒野


一、一生一緒がいい
 
 二人で季節を二巡して、三回目の春を越えた頃だった。
 コース料理の最後の一品、デザートのすもものシャーベットを食べ終えた直後のことである。
 大黒部長は大きくて艶のある、黒い布で作ったような笑顔で切り出した。
「俺達は、もうそろそろこの関係をやめてもいいんじゃないかと思うんだが、君はどう思う?」
 私はかちゃりとスプーンを置いて、何を言われたのか考えた。
 ああ、と思う。
 それでも少し動揺した。取り乱してしまわない様に、何度飲ませて貰ってもいちいち感動する高いシャンパンに口を付ける。終わりはこんな風に訪れるのだと、グラスの中身を飲み干した。
「はい」
 はじめから、終わりがくることはわかっていた。いいや、そもそも、恋人関係というものは終わりを前提としたものである。「私はいつでも大丈夫です」鬼だの悪魔だのと言われている大黒部長であるが、私に無理を言ったことは一度もないし、常に優しくしてくれていた。ここで関係が終了したとしても、家までのタクシーを手配してくれるに違いないし、最後の最後で私がつらくなるようなことは言わないだろうという確信があった。
 大黒部長は頷く私を確認するとほっと息を吐き出した。
「そうか」
 会社に居る時よりも数段柔らかく笑っている。「よかった」私が怒って暴れるとでも思っていたのだろうか。そうだとしたら心外だが、そう思わせたとしたのならそのあたりが理由なのだろう。
 そして次の女の人は、きっと私よりもはるかに落ち着いていて、大人の女性に違いない。高いものが高い理由を、きちんと理解できるような女性は素敵だと、私は一人でうっとりした。私の中の価値基準では、美味しいかそうでないかくらいしかない。
 次はどんな人なんですか、聞いてみようか少し迷ってやめておいた。折角穏やかなお別れの時間が、台無しになってしまうかもしれない。
 部長は私の方へ手を差し出して言った。
「左手をこっちに貸してくれ」
「え? 最後になにかくれるんですか?」
 至れり尽くせりである。この上手切れの品まで貰えるとは。はじめての恋人がこの人でよかったと、私は感心しきりであった。
 なにをくれるのだろうとわくわくしていると、大黒部長は手際よく私の左手をとり、薬指に指輪をはめた。シンプルなデザインだが、どことなく高級感のある指輪だ。私のような庶民がはめても、このくらいのさりげなさなら嫌な感じがしなくていい。
「えっと」
 部長の手が離れていく。
 左手の薬指に指輪。
 あれ。
「断られたらどうしようかと思っていた」
「断る?」
 私はようやく、話がわからなくなってきた。
「いえ、あの、え?」
 一体今、何が起こっているのだろう。
 私と部長は上司と部下であり、二年前から恋人関係にある。今、もう恋人はやめようと言われたのだと思っていたが、ひょっとして大黒部長はそんなつもりで言った訳ではないのではないか。
 上司と部下の関係を解消するなら会社で言えばいいのだし、ここには恋人として、月に何度かのデートとして来たのだから、普通に考えれば『この関係』は恋人関係のことでしかないはずだ。
 私は部長の恋人ではなくなって、今、なにになったのだろう。
 ふと、周囲の視線がどこか祝うような、あたたかいものに変わっていることに気付く。
 薬指に指輪をはめられるような関係は、恋人以外に、愛人でもあり得るのか。わからないが、他には、ああそうだあれがある、夫婦だ。
「えっ?」
 私は急いでそんなつもりはなかったと否定しようとしたのだが、大黒部長の方が早い。この人はいつも私よりも前にいるのだ。「もし」部長は私の左手を愛おしそうに握って言う。
「もし、断られるようなことがあれば、そうだな、ついうっかりそこから飛び降りていたかもしれない」
 そんなばかな。
 私程度にプロポーズを断られたくらいで死んでしまうような人ではない。そもそも、大黒部長が死ぬだなんて全く想像できない。地獄に行けば鬼すら従えてなり上がって、そこに城の一つでも築きそうな人なのに。
 この人が死ぬ、いや怪我をして入院、となっただけで灰島はきっと大変だ。好かれてはいないが彼に期待している部下は多く居るし、幼馴染もその一人だ。
 そんな彼が、女一人にフラれたからと言って、飛び降りなんて。でも万が一があったら私では助けられない。私の幼馴染がここにいたら何の問題もなく助けられるのだろうが。
「あの」
「ん?」
 軽薄だとか感情がないだとか、この人をそんな風に言う人もいるけれど、時々、とてもとても綺麗に微笑んでいることがある。私は男の人がこんなに優しく笑うことを知らなかった。
 今の大黒部長は、そういう、幸せで堪らないという顔で笑っている。
 女一人にフラれて、この人が、そんなに追い込まれることは。
 ない、はず。
「あ、」
 それって、どういうことですか。
 結婚するんですか。
 私とは、遊んでいただけじゃなかったんですか。
 もしかして、これも、遊びの延長なんでしょうか。
「どうした? 気分が優れないか? ふむ。今日はよく飲んでいたしな。もう帰るとするか」
「いえ、その」
 これ、と指輪に触れると部長は柔らかく私の肩を抱いた。
「ああ。よく似合っているな。一月かけて選んだんだ」
 今まで前提としていたものがばらばらと崩れていくのを感じる。
 なにか大変なことになったとは思っているが、上手い言葉も出なければ、首を左右に振ることもできない。そもそも、私自身どうしたいのかわからない。大黒部長が丁寧に積み上げた、強制力のようなものが目の前にある。
「大黒部長」
「それだが、君も大黒になるんだからな、下の名前で呼ぶ練習をしておけよ」
 部長は、タクシーの中でも私の肩を離さず、空いている手でずっと私の左手を撫でていた。「よかった」「長かったな」「明日の会議も気持ちよく出席できるな」と、ずっと一人で喋り続けて、氷のようになった私の体はぴくりとも動かない。
 嫌です、とは言えなくても、待って下さい、くらいなら言えそうで、何度も言おうとするのだが、その度に、そのタイミングに合わせて大黒部長が何か言うので、どんどん、どんどん先送りになってしまう。
 私の家の前、ここが最後のチャンスという時にも、同じタイミングで額にキスをされたので、口を閉じてしまった。
「少しずつ、いろんなことを決めて行こう」
 大黒部長はお酒のせいか気分が高揚しているようで、ほんのりと頬を赤くして、私に言った。
「おやすみ」
 私は結局、大黒部長に何も言い出すことができなかった。恋人を自分の都合で振るなんて、そんなこと、私は一度もしたことがない。



 大黒部長は酔っていたのではないか。
 元々職場では親しく喋る機会などそうそうないので、会わない日が三日続いた。
 日が経てば経つほどに、あれはなにかの間違いで、間違いじゃなかったとしても手の込んだ予行演習か何かだったのではという気がしてくる。
 三日前は、ただどうしようどうしようと、不安な気持ちを幼馴染に聞いてもらうしかなかったが、今となっては何をそんなに焦ることがあったのだろうか。冷静になれば「そんなつもりで頷いたわけじゃなかった」の一言くらい言えそうだった。
 大黒部長と結婚したい人はきっとたくさんいますよ。それこそ私の五億倍美人で百億倍家事のできる女の人がたくさん。そのくらい冗談みたいに言えそうである。三日間は、私の心に余裕を与えた。
「よし」
 デスクで一人、きゅっと拳を握りしめると、すぐ隣から声をかけられた。
「なにがよし、なんだ? 随分熱心に仕事をしていたが」
「あ、大黒部長」
「今日は急ぎの用事でもあるのか?」
 ぱっと周りを見ると、同僚の姿が影も形もなくなっていた。まるで昼の休憩時間みたいだと時間を確認すると、まさしく昼の休憩時間が半分過ぎたところであった。考え事に夢中になりすぎて気が付かなかった。
 しかし、パソコンの画面を確認すると、それでも仕事は進んでいるので偉いものである。
「今日は定時で帰ってラーメン行くんです」
「ラーメンか」
「はい」
「誰と行くんだ?」
「優一郎です。約束してて」
「……黒野か。そう言えばあいつも、いつになく真面目に仕事を片付けていたな」
 美味しい味噌ラーメンが食べたいとぼやくと「そうか。行くか。明日はどうだ」と優一郎が誘ってくれたので、そのままテンポよく約束した。
「相変わらず仲がいいな?」
「はい。親友ですからね」
 親友であり理解者であり、かなり小さい頃からお互いの事を知っている幼馴染だ。挙句会社まで同じなのだからありがたい。なんでも気軽に誘えるし、誘って貰えるのでなんなら家族よりも仲が良いくらいである。
 部長は一度だけ「距離が近すぎないか」と言っていたが「親友なんです」と返すとそれ以降はなにも言わなくなった。本当は少しだけ、怒られたらどうしようかと怖かったのだけれど、大黒部長は優一郎のことを許してくれていて、そういうところも、有難いと思っていた。
「部長はどうしてここに?」
「どうしても何も、食堂に君の姿がなくてな。聞けば、何やら集中していて声をかけても返事がなかったと言うじゃないか。心配になって様子を見に来るのは、君の夫として当然のことだ」
「お、」
 夫、良人【おっと】配偶者である男性のこと。
 酔っていたわけでもなければ、やはり、大黒部長の中で私がプロポーズを了承したことになっている。いや、実際、大黒部長側からしたら了承したようにしか見えなかったのかもしれないけれど。
「元気そうでなによりだ」
「元気です。私はいつも、大抵元気で」
「そうだな。知っている」
 元気なんですけど、その、結婚の件についてちょっとお話させて貰いたくて。よし。これだ、とセリフを決めていざ言おうと思った時、大黒部長は立ち上がり、私の後ろに回った。
 なにをするのだろうと見つめていると、後ろから私の操作するパソコンのマウスを握り、反対の手で器用にキーボードを叩いて何かを検索しはじめた。大黒部長の顔がすぐ横にある。
 ぱっとページが切り替わり、これは住宅展示場のホームページだろうか。見せたいものは決まっているようで、手早く目的のページまで移動した。
 白い、大きな家の写真が画面に映し出される。
「新しい家なんだが、こういうのはどうだ?」
 大黒部長、一軒家に引っ越すのだろうか。
「ああ、はい、素敵で」
「だろう? 犬も飼えるぞ」
 このあたりで、この話は私も一緒に住む家の話をしているのだと気付いてもよさそうなものなのだけれど、私は気付かない。単純なもので『犬』の一文字に興奮して、ばっと大黒部長の顔を見上げた。
 部長が犬を飼うのなら、私にも触らせて貰えるかもしれない。私はこの時、そんな呑気なことを考えていた。
「犬……!」
「どんな犬がいい?」
「大きいやつがいいです、黒っぽくて、毛並みが良くて、かっこいいやつ」
「となると……、ハスキーとかシェパードか?」
「ハスキー!」
「ん、好きか? シベリアン・ハスキー」
「好きです! 優一郎みたいだから!」
「……」
 マウスがばき、と音を立てた。
 長く使っているし、そろそろ替え時だろうか?
 部長は一つ咳払いをして、再び私の隣に座った。
「ところで」
「はい?」
 大黒部長は私の左手に手を乗せて、するりと指を絡めて言う。
「指輪はどうした?」
「へ」
「まさか、もうなくしたんじゃないだろうな? 俺がいくら君にべた惚れとは言え、それは流石に怒るぞ?」
「あ、いや、家にありますよ、なくしてないです」
「あるならいいんだが」
 部長は二人きりの事務室で私の左手の薬指にキスをした。大黒部長がやることは大体すべてそうなのだけれど、何かの儀式のような仰々しさがあって、くすぐったくなってしまう。
「明日から、ちゃんとつけて来てくれ」
「え、っと、あの、部長、その話」
 もたもたしている間に、部長は私の頭を撫でて、事務室から出て行ってしまった。
 ちゃんと指輪を付けた自分を想像する。
 おそろいの指輪をしている私と大黒部長を想像すると、なんだかとても怖くなって、やっぱりつけられそうになかった。



 指輪はチェーンに通して首からぶらさげた。
「どうしたらいいんだろう」と優一郎に相談すると「ひとまずはこれでいいだろう」と彼がやってくれた。「恥ずかしいとか言っておけば納得するんじゃないか」とも言っていた。
 実際次の日、私が指輪をしているか確認しに来た大黒部長は熟考の末「まあいいだろう」と納得してくれた。それを見てほっとする私だったが、本当はほっとしている場合ではなくて、もっと他に言うべきことがあった。主に、私の気持ちの話だとか。
 しまった、と思った時には、もう部長は仕事に戻っていた。
 そしてまた私は、しばらく、具体的には一週間程、どうしたものかと悩んでいた。いや、実際に悩んだのは一日二日くらいで、以降はやっぱりなにかの間違いだと軽く見ていたように思う。恋人だって指輪をすることはあるのである。
 部長のような人の結婚相手が、こんな女でいいはずがない。間違いなく彼の経歴に消えない傷が付く。
 その日の私は、昼の休憩時間の半分を散歩の時間として、ふらふらと灰島の敷地内を歩きまわっていた。
 十月も半ばに差し掛かったところだというのに陽射しが強くて、やっぱり出て来るんじゃなかったかなとやや後悔し、けれど、外には居たくて、建物の影になっているところで立ち止まり、自動販売機で冷たいカフェ・オレを買って飲んだ。
 これは当たりだ、好みの味がする。
 改めてパッケージを見て商品名を確認する。『極カフェ・オレ』と書かれていた。覚えやすくていいし、煽り文にあるようにしっかりとした香ばしさを感じた。
「美味しい」
「ご機嫌だな?」
「あ、大黒部長」
「そんなに美味そうに飲まれると俺も飲んでみたくなるな?」
「一口飲みますか?」
「ああ。ありがとう」
 大黒部長はいつも唐突に現れる。私にとっては唐突でも、大黒部長にしてみれば仕事が一段落ついたタイミングなのだろう。ゆっくり休んでくれたらいいのに、大抵の場合私に会いに来ているのだと言う。優一郎からの情報だ。
 私から缶を受け取り、口を付けて傾けた。「全部飲んじゃってもいいですよ」実は缶一本は少し多い。
「どうですか?」
「この値段にしては美味いな」
「私これ好きになりました」
「そうか」
 私はここでようやく、大黒部長がなにかとても部長のイメージに合わない華やかな色合いの雑誌を小脇に抱えているのを見つけて質問した。
「それ、なんですか?」
「これは結婚情報誌だ。見たことあるか?」
「け、」
 結婚情報誌【けっこんじょうほうし】辞書には載っていなかった。つまるところ式場の情報だとか、最新のブライダルフェアの情報だとか、ドレス、新生活に向けての手続き、新婚生活、今時流行りの結婚について。ありとあらゆる結婚に関する情報が記載された雑誌というわけだ。
「見るか?」
 と言われ、私はその分厚さにまず圧倒された。
「重っ……」
 ぱらぱらとページを捲ると、いくつかぴたりと止まる箇所があって、ページの端が折り曲げてられているのも見つけた。大黒部長がチェックした項目なのだろうか。
 ばたん、と本を閉じると、本を閉じた衝撃で顔にぶわりと風がぶつかってきた。髪が圧に流されたが、すぐ元の位置に戻って来た。
 私はその雑誌を片手で持って、ぶんぶんと振ってみる。
「凶器ですね」
 当たり所によっては普通に昏倒させることができそうだ。例えば花嫁が怒って婿を殴るだとか、もしそうなれば結婚情報誌を頭に受けて重症、ということになる。面白いが、笑えないな、と私は笑った。
「君も見ておいてくれ。俺はもう確認したしな」
 大黒部長がなにか言っているが、私はこの結婚情報誌の可能性に夢中で気が付かなかった。
 筋トレもできそうだなあと思っていると、大黒部長にやや強めに名前を呼ばれた。
 流石に顔をあげる。怒らせたのかと驚いたが、見上げた大黒部長はいつも通りに笑っていた。
 けど、いつもなら好きに遊ばせておいてくれるのに。
「これは真剣な話だぞ」
 部長は最近、私が返事をするのを待ってくれない。
 この日も、なんと返事をしたらいいか迷って、雑誌の表紙を飾るお姉さんをじっと見ている間にどこかへ行ってしまったのだ。もう一度雑誌に目を落とす。
 結婚準備、と大きな文字で書かれている。



「あれ、アンタこれどうしたの?」
 姉がキッチンのテーブルの上に置かれている分厚い結婚情報誌を持ち上げようとしてやめた。缶ビールを傾けながらパラパラと中身を見て「あら、すっごい良い式場とかチェックされてる」と言った。「アンタがしたの?」
「私じゃないよ。大黒部長が」
「ああ、あのこの間挨拶に来た」
「……挨拶に来た?」
「来たわよ、菓子折り持って。お母さんと私に深々と頭下げて。自分は真面目にアンタと結婚したいんだって言ってたかな」
「そ、そういうのって普通私も伴うものでは?」
「知らないわよ。私そもそも親に挨拶しようとする真面目な男とつきあったことないし。アンタ、あの胡散臭い男と結婚するわけ?」
「結婚は、」
 しない、はずだ。かなり小さな声だがそう言う事ができた。姉は溜息を吐いて結婚情報誌を持ち上げ「よいしょ」私の頭の上に乗せた。「あははは、乗った」もう酔っているのだろうか。
「二年付き合ってるんだっけ。よく続くわねえ」
「続くっていうか。だって、大黒部長の都合の良い時に会ってるだけだし。付き合ってるって言うか、たぶん、感覚的にはこう、飼われている、というか、遊んでいるだけ、というか」
「ホント? 菓子折りもガチならアンタが首からぶら下げてる指輪もかなりいいやつだし、男側がわざわざ結婚情報誌買って中身チェックしてんのよ? 遊びじゃないんじゃないの?」
「でも、部長だよ?」
「知らないったら。一回会っただけだし。アンタが勝手に遊びだと思ってるだけなんじゃないの?」
 お姉ちゃんにはそう見えるわよ。とお姉ちゃんは言った。
 私は胸にぶら下がっている指輪を取り出して、じっと見つめる。結婚情報誌は落ちない内に膝の上に避難させた。
 大黒部長を家に連れて来たことはない。
 何度か来たいと言われたことがあったけれど、姉や、母の予定が全く読めないので申し訳ないがと断り続けていた。だが、家の前まで迎えに来てもらうことは何度もあった。だから、家の場所は知っているだろうが、何号室に住んでいるかは知らないはずだ。それでも、会社のデータベースを調べれば、家くらいはわかって当然で。とは言え、勝手にそんなことをされるのは、ちょっと、困る。
 姉の口振りからするに、テレビでも見てくつろいでいる時に来たっぽいので、それだけが救いだ。
「ん? 菓子折り? そんなのあった?」
「美味しかったから私とお母さんで食べちゃった。あんな菓子くらい、アンタが強請ればあの人いくらでも買ってくれるんでしょ?」
 一つくらい残しておくものだと思うし、挨拶に来たことを教えてくれても良さそうなものだ。しかし、なるほど、つまりその菓子は、私が家に帰るまでに綺麗さっぱりなくなるくらいに、この二人にウケたと、そういうことになる。菓子が美味しくて挨拶に来た事など忘れていたのだろう。
 大黒部長も何も言わなかった。
 これはもう、夢だとか気の迷いだとか、非現実的な考えは捨てなければいけない。
「ていうか、また貰って来て?」
「嫌だよ、そんなの。そんなかわいく強請れないし」
「ええ? なら、強請らないの? 勿体ない。あんなにお金持ってそうなのに」
「そもそも強請るってどうやるの? 買ってって言うの?」
「それは色々ね。でも、あの人だったら、アンタ、『あ、あのお店のあれが気になってるんですよねえ』くらいで買ってくれるでしょ」
「……」
 私はつい黙ってしまった。意識してやったわけではないし、最近は気を付けているのだけれど、付き合い始めたばかりの頃は、あれが好きだとかこれが好きだとか、世間話のつもりでよく喋っていた。そうすると、三日以内にプレゼントされた。
「なんだ、覚えがあるんじゃない」
「で、でも、もうやらないよ。買ってくれちゃうもの」
「馬鹿ねえ、あの人、えっと、大黒さんだっけ。あれはアンタに貢ぐのが楽しいのよ。で、アンタの喜ぶ顔が見たくて堪らないわけ。バンバン貢がせてやんなさいよ」
「い、嫌だってば。なんか悪いし」
「そうね。アンタは私や母さんと違ってまともだし」
 今言ったことは忘れなさい、と姉は言った。
 早速缶ビールを一本飲み干して、二本目を冷蔵庫に取りに行く。
 その途中、姉は今親しくしている誰かから電話があったようで、なにやら声色を変えて話をしている。一週間前はサトウさんだったと記憶しているが、今はみーくんになっている。いや、昨日の夜家に来たのはあっくんじゃなかったか。
 姉は私より五つ年上だけれど、結婚をする素振りはないし、結婚をしたいと思っているかどうかも疑問だ。
 ちらちらと姉の方を見ていると、姉はこちらに気付いて、会話を切り上げて隣に来てくれた。遊んでばかりの姉だけれど、私が困っているときちんと話を聞いてくれるので、私にとっては良い姉だ。
 携帯電話を放って、二本目の缶ビールを開けながら笑う。
「ごめんね、お待たせ」
「ううん。私もごめん。良かったの?」
「いいのいいの。大した話しやがらないんだから。それで、なんだっけ?」
「お姉ちゃんは今付き合ってる人から結婚したいって言われたらする?」
「今? 今ねえ。一人悪くなさそうなのがいるかな。それ以外は顔と体がいいだけでイマイチ……」
 この姉では参考にならないかもしれない。しかし、親身になってくれていることには違いないので、常識からはずれた部分は見ないことにする。
「その、悪くない人からのプロポーズなら?」
「妻子持ちなのよねえ……」
 やっぱり駄目かも知れない。
 私は深く溜息を吐いてぱらぱらと膝の上の雑誌をめくった。華やか過ぎて目が痛くなってくる。どこをどう見ればいいのだろう。まだ、結婚する、とも決めきれない状態なのに。
「じゃあ、結婚するってどういうことだと思う?」
「まあ、呪いみたいなものじゃない?」
「呪い……」
「嫌な顔しない。それこそ皆考えてることは違うわよ。けど、付き合うのとは訳が違うくらいの手続きがいるでしょう。今時は結婚式挙げない人たちだっているけど、大抵の場合、はいじゃあ結婚しましょうと決まったら、じゃあ一緒に住む場所を探しましょうか、平行して役場から書類を貰ってきて、お互いの両親にも挨拶して、両親同士を引き合わせて、結婚式、だけど、その結婚式をするのにも、どれだけお金かけるのか決めて、式場を決めてドレスを決めて、どんな進行にするか決めて、招待状作って、二次会するなら会場押さえて、あとは何? まあいろいろよ。他にもたくさん決めたり用意したり。ううん、言ってるだけで嫌になってくるけど、アンタの場合、その、大黒さん? はこういうことをちゃんとしようって言ってるわけでしょ。そりゃあもう呪いよ。これだけしたんだから簡単には別れられない」
「お、お姉ちゃんでも?」
「お母さんでも、お父さんと離婚する時結構悩んでたでしょ。忘れた?」
「……結局離婚してるけど」
「でも、はい、じゃあ別れましょうってわけにはいかない」
 一つずつ決めていこう、と部長は言った。
 私はなんだか急激に体が冷えていく。
 結婚は、夫婦になることは、恋人になることよりもずっと重たいことだ。
「アンタ、結局どうしたいの?」
 姉の問いは最もだった。
 私は叱られている小学生のように両肩を上げてつま先のあたりをじっと見つめる。
 結婚を、する。
 想像しようとすると、頭の中が真っ白になってなにも思い浮かばない。大黒部長は家の画像を見せてくれたが、そこに二人で住むという想像をしようとしても、全くうまくいかなかった。シベリアン・ハスキーと遊ぶ想像はなんとかできる。
「考えが、及ばない」
「なら、待ってって言ったら?」
 それもその通りだ。私には考える時間が必要であると思う。私は部長がまさか私と結婚しようと言い出すなんて思ってもみなかった。部長と私は結婚する可能性があるのだと認識を改めるところからはじめたい。実際に結婚したくなるのかどうかは、これも予測がつかないけれど。
「言い、たい」
「……まあ、確かに、アンタが口で勝てそうな相手じゃなかったけど。ほら、今電話したらどう? お姉ちゃんが隣にいてあげるわよ。いい? 台詞はこうよ。『先日の結婚の話、少し待ってください』ん? そもそも結婚を断る?」
 二十九にもなる女がこんなことで良いのだろうか? 大黒部長は本当に、本当に私みたいなものと結婚するのだろうか? たっぷり五分は黙っていた。姉は時折ビールを飲みながら私の言葉を待っていた。たった五分では大した答えは出てこなかった。
「どう、だろう……?」
「あー、わかったわかった。いいわよ。とりあえず時間がいるわね。じゃあ台詞に変更なし。はい、繰り返して」
「『先日の結婚の話、少し待って下さい』」
「はい、よくできました」
 じゃあ、電話しなさい。と姉に言われるままに携帯電話を取り出して大黒部長の名前を探す。今は勢いがある。今ならきっと言える。そんな気がしてコールした。
 心臓の位置が競り上がってきているのでは、なんだか息がし辛い。
『君から電話なんて珍しいな』
 三コール目で大黒部長が出た。
「あ、こ、こんばんは。今、いいですか?」
『丁度よかった。俺も君にかけようと思っていたところでな』
「えっ?」
『明日なんだが、予定はあいているか?』
「あ、はい、明日は、別に何も」
『なら、十時に迎えに行く。久しぶりに一日デートしないか』
「それは、全然、えっと、何処に行きますか?」
『ウェディングデスクだ』
「はい?」
『人を紹介して貰ってな。かなりやり手らしいぞ』
「へえ、それは、いいこと、ですね?」
 このあたりで、姉が私の腕を肘でつついた。手近な紙に『先日の結婚の話、少し侍って下さい』と書いてこちらに見せている。待つの漢字が違う。反対の間違いはよく見るが、その間違いはレアな気がした。
 姉はもう一度、強めに私の腕をつついた。
「あ、あの部長、ちょっとお話なんですけど」
『ああ。明日ゆっくり話をしよう。悪いがこの後約束があってな。……ひょっとして明日じゃまずいのか?』
「え、いえ、明日でも、大丈夫……」
 姉がソファから転がり落ちて頭を抱えている。大変に申し訳ないことをした自覚はあるが、しかし、仕事があるなら、ちょっと時間をくれと言う程度のこと、今でなくてもいい。
『そうか。じゃあ明日十時に。おやすみ』
「おやすみなさい……」
 通話は終わってしまった。
 姉が私の膝の上の結婚情報誌をばんばんと叩く。「なんで!」「アンタは!」と叫び終えるとまたアルコールの匂いのする息を吐き出した。
「まったく。しょうがないわね」
「め、面目ない……、これからまだ仕事みたい。聞いてくれようとしたけど、申し訳なくて」
「その聞いてくれようとしたからアンタ余計に言い辛くなったって気付いてないの?」
「え?」
「ふむ。大黒さんがアンタのことをよーく理解してるんだってことがわかったわ。これはやっぱり遊びなんかじゃないわよ。本気も本気。本気と書いてガチと読むわよ」
「本気って?」
「辞書引きなさい」
 本気【ほんき】冗談や遊びなどでない、本当の気持ち。真剣な気持ち。類語、一生懸命、一心不乱。
 姉は電子辞書の画面を覗き込んで「遊びじゃないって書いてあるわよ」と言いながら、三本目の缶ビールを取りに行った。
「結婚したらどうなるの?」
「知らない。上手くいけば一生一緒にいることになるんじゃない? いや、上手くいくイコール一生一緒にいることなのかどうかすら、私にはわからないけど」
「一生って?」
「アンタねえ……」
 死ぬまでって意味よ。姉は言って、三本目のビールを開けた。私は余計に膝の上の結婚情報誌が重く感じた。
 大黒部長は本気。明日はウェディングデスクに行く。結婚したら大黒部長と一生一緒にいる。かもしれない。肩に、なんだかいろいろなものを背負わされているような気がして、ソファからずり落ちて床に転がった。
「ところで、大黒さん、なんて?」
「明日のデート、ウェディングデスク、迎えに来るのは十時」
「あらまあ」
 姉はさっきまで私が用意した台詞を言えなくて悔しそうにしていたのに、もう愉快そうに笑っている。けらけらと大笑いした後に、私が全然体を起こさないので脇腹あたりを足でつつきながら言った。
「そもそも、そんなに色々尽くされて、なんで遊びだと思ってるのよ? 遊びだって言われた?」
「言われてない。けど、そんなこと普通言う?」
「言ったり言わなかったり。とは言ってもここまで来ちゃったら本気だと思って相手しなきゃどうしようもないでしょ。大黒さんは本気でアンタと結婚したい。アンタを騙してでも結婚したくて堪らない。つまり、アンタが大好きなのね。それをまず受け入れなきゃアンタは先に進めないわよ」
「好き……?」
「言われたことない?」
「ううん。よく言われる」
「本当になんで遊びだと思ったんだか」
「だって、部長だよ?」
「知らないっつってんのに」
 知らないけど、と姉は続けた。
「一回会った感じ、確かに軽薄で胡散臭かったけど、この私が、ちなみにお母さんもだけど、これは本気なんだなって思わされたわね。本気で、どんな手段を使っても、アンタが欲しいんだってね」
 私はもう落ちるところがないので、ごろんと大の字になって手も足も放り投げた。
 姉と、それから母の男性経験は私の比ではない。多分私がもう五人居たって一生かかっても追いつけないくらいの経験の差がある。
 私は長らく、男の人と言えば優一郎しか親しい人間が居なかった。
 距離が近かったので、学校の同級生にも、灰島の同僚にも「付き合ってるの?」あるいは「付き合わないの?」と聞かれたが、優一郎にも私にもそんな気はなかった。
 何故ならば、恋人とはいつか別れるものだからだ。
「だからお姉ちゃんは、悪くないと思うわよ。あの人は、少なくとも今はアンタを大事にしてくれてる」
 多分、だけどね。それに、いつまで続くかわからないけど。
 姉も実のところ確信はないのだろう。如何せん同じ相手と長く続いた試しがない。
 私はようやく体を起こして、明日は絶対に、ちゃんと大黒部長と話しをしようと決めた。
 このままにしておくのは大変によくない。
 それでもダメだったら優一郎にも協力してもらってなんとかしよう。
 よし、と拳を握ると、玄関が勢いよく開けられる音がした。近所迷惑である。酔っ払いが帰って来たのかとじっとしていると、案の定母が顔も胸のあたりも赤くして帰って来た。「ただいまー!」とめちゃくちゃに御機嫌に笑っている。
「アンタたち! 今日は外に食べに行くわよ!」
「え、でも、私もう食べた……」
「高い肉は別腹でしょ!」
 お姉ちゃんは母の傍に寄って「もしかして?」とすっかり期待している。高い肉はいいのだが、この流れだと私しか運転手がいない。
「そうそう、ブランドもののバッグを貰ってね。趣味じゃないから売ったんだけれど、これが良いお金になって! ほら、行くわよ! 娘たち!」
 母も母で、人生を満喫している。倫理的にどうかと思うこともあるが、母も姉も楽しそうなので私は何も言わないのである。と言うより、私にはその感覚はわからないから、恨みを買わない様に、と、その程度のことしか言えない。
 姉と母とは茶封筒からお金を取り出して数えて遊んでいる。いや、恨みは方々で買っていそうだ。昔はよく、彼女らに手酷く捨てられたと家まで乗り込んで来る男の人も居た。
 私が危ない目にあったこともないではないが、私には常に優一郎がついてくれていたので、問題にはならなかった。
 ただ、姉か母が恋人を家に連れ込んでいる時はひどかった。私は正直怖かったのだが、これを姉と母に言ったことはない。
 当時は生活がギリギリだったから、今よりずっといろいろなものを貰っては売って生活費の足しにしたり、今日のように外食したりしていた。私は何もしていないのだが、必ず連れて行って貰っていた。文句を言えようはずがない。それがどんなお金であったとしても、美味しいものは美味しかった。
「ほら、アンタもそんな暗い顔してないで、車の鍵持って」
「うん」
 私たちはがっつり焼肉を食べて、帰りは「たまには広いお風呂行こう」と母が提案した為、銭湯へ向かった。
 こんな私が、幸せな結婚や、想い想われるような恋愛ができるだなんて、やっぱり信じられなかった。



 三年前、優一郎と一緒にいる大黒部長にはじめて挨拶をした。
 その日は確か、カレーを食べに行く約束を優一郎としていて、けれど、仕事が入ったからいけない、と残念そうに言われたのだ。「悪いな」と大黒部長は私の頭にぽん、と手を置いた。
 その一週間後に、大黒部長が一人で私に会いに来た。
 なんの用事だろうかと顔を見上げて言葉を待っていると「俺と行かないか?」と言われた。唐突すぎて何がなんだかわからなかった。
「えっと……?」
「黒野と約束していただろう? カレーだ」
「えっ、大黒部長、カレー食べるんですか?」
「おいおい、君は俺をなんだと思っているんだ?」
 美味いじゃないか、カレー。と大黒部長が言った。私は、部長はわざわざあの日約束を反故にさせてしまったことに罪悪感のようなものを感じて誘ってくれているのだと思った。なんて律儀な人なんだ。こんな末端の社員にまで気を使う人にだとは思わなかった。実際、余程打算がなければそんなことをする人ではない。私は大黒部長について詳しく知らなかった。知らなかったにしてもこれは勝手な勘違いだが、私は、このカレーは黒野と部長と私の三人で行くのだと思って「行きたいです」と頷いた。
 大黒部長は私を個人的に誘っていたのだということは、店に着くまで気付かなかった。
 そこから、大黒部長は私と連絡先を交換して、時々連絡をくれるようになった。主に食事の誘いで、ちょっと意見を聞きたいからだとか、愚痴を言いたいからだとか、気晴らしをしたいからだとか、理由は様々であった。
 姉と母に「いざとなったらこれを」と持たされていたスタンガンの出番はなく、大黒部長は大変に紳士的に私をいろいろな店に連れて行った。
 半年くらい、そうしていただろうか。
「えっ?」
「聞こえなかったか? 君が好きだと言ったんだ」
 私はぽかんと口を開けて、大黒部長を見つめていた。
 その時の顔は、「この関係をやめてもいいんじゃないか」と言った時と全く同じで、私には何を考えているやらさっぱりわからなかった。好きってなんだっけ、と例のごとく頭の中で辞書を引いた。
「俺と付き合ってくれないか」
「え、っと、それは、つまり、これからも一緒に食事をしたりするってことですよね?」
「ああ。そうだな。ついでにデートなんかもしてくれるとありがたいんだが」
「デート」
「デートだ。できればそれ以上のこともしたいな!」
 デート、ともう一度繰り返す。
 大黒部長はにこにこと笑っていて、何を考えているのかよくわからない。
「私とですか?」
「君しかいないだろう? 俺は最近、君と居るのが一等楽しいんだ。知っていたか?」
 ああ、と私は思う。
 これは、何度か食事をしてみて、私という人間を知ってみて、多かれ少なかれ気に入ってくれたと言う話なのだ。私はぽん、と手を打った。つまり、大黒部長の遊び相手に選ばれたのだ。
 なし崩し的に、あるいは酔わせて無理矢理、そういうこともごまんとあると姉と母が言っていた。しかし、大黒部長はきっちり私に『これ以上のことをしてもいいか』と聞いている訳だ。律儀なものだなと私は感心した。私みたいな人間に随分優しいのだなと、嬉しく思った。
「でも、私、なにもかもはじめてですよ? いいんですか?」
「最高だと思うんだが」
「そういうものですか」
 処女は面倒だと、私に言った男の人(その後優一郎と姉と母にぼこぼこにされていた)がいたけれど、必ずしもそうではないのか。私はうんうん頷いて、まあ、部長ならば大丈夫だろうと、半年構って貰った思い出を参照の上了承した。
「いいですよ」
 仕事でも何度も助けて貰った。優一郎を取り立ててくれることもある。本心はわからないが、彼のことだ、いらなくなったらきっぱり捨ててくれるだろう。
「……いいのか?」
「はい。私、大黒部長好きです」
 嘘ではない。
 大黒部長と食事をしたり、彼がいろんな店に連れて行ってくれるのは楽しみだった。これはもう「好き」で間違いないないと、これもやはり、姉だか母だか、どちらかから聞いた。好きという気持ちは、結構簡単なのだ。
 部長は私に気を使っていたのか、ゆっくりゆっくり一つずつ進んで行った。
 手を繋ぐくらいのことに許可など取る必要はないだろうに「恋人だったらこれくらい構わないよな」とわざわざ口にして、はじめて唇にキスをした時も「今のはこうしなきゃ嘘だっていう雰囲気だっただろう」と確認するようなことを言った。そして更にその先に進む時にはしつこいくらいに「いいんだな?」と聞いて来た。私はその度にただの遊び相手に律儀なことだと思っていた。
 私の考えていたことは八割方間違っていた、それは認めるしかない。
 ならば、大黒部長はいつから真剣だったのだろうか。まさか二人でカレーを食べに行った時、ということはないだろう。恋人になった時だろうか。それとも、一年とか、そのくらい経ったあたりなのだろうか。
 しばらく考えたが、どれだけ記憶を遡っても、大黒部長の態度ははじめて会った時から変わっていない。
 聞いてみようか、と思うが、まずは、結婚の話についてきっちり時間を貰わなければいけない。
 私は軽く右手をあげている大黒部長に駆け寄った。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 大黒部長は「それじゃあ行くか」と早速私を助手席に座らせた。アパートの窓からこちらに手を振る姉に私も手を振り返し、車は発進した。
 ウェディングデスクに行く前に言うべきだ、と思い何度も切り出そうとするのだが、なかなか言い出せない。と言いうより、途中から気付いたのだが、大黒部長が言わせないようにしている。
 しかし、大黒部長が一人で喋っている訳ではなく、例えば「昨日は何を食べたのか」という質問をされる。咄嗟に考えて「うーん」と悩んでいる間は何も言わない。私が昨日の夕飯を思い出して口にするとまた新しいことを聞いて来る。
 これはまずいと質問される前にこちらが質問しようと部長を呼ぶのだが、そうすると部長は「そういえば」と話しはじめて言えなくなる。
「もうすぐ着くぞ」
 また何も言えなくなる。もうすぐ着く。どこに? 大黒部長が予約したというウェディングデスクにだ。そこはなにをするところか? 結婚を決めた男女が、結婚する為に行く場所だ。
「あの、部長」
「どうした? 車酔いか?」
「いえ、大丈夫で、えっと」
「なら、暑いか?」
「空調も、全然」
 いつもなら、頼まなくたって私の心を聞き出してくれるのに。
 私ははじめて、部長とのデートで『帰りたい』と思った。これはつまり、行きたくない、と思っているのだろう。
 ウェディングデスクという未知にしてはじめての場所も怖ければ、話が進んでしまうことも怖い。なんだか私が別の誰かになってしまいそうな恐ろしさがある。
 部長はとても淡々としていて、こうあることが当然だという風にものごとを進めて行く。すいすいと進んでいく。
「あの、大黒部長」
「今日はたくさん名前を呼んでくれるんだな?」
「大黒部長、」
「ん?」
「部長」
「どうした?」
 私はここにいるんですけど、見えてますか。
 そう言おうとした時、車体が揺れて、言葉が止まった。「うっ」と驚いて声が零れた。
 部長が私の名前を呼んだ。
 恐る恐る部長の方を見ると、そっと頭を撫でてくれた。
「大丈夫だ。俺に任せておけば、大丈夫だからな」
 いつもなら、嫌だと言わなくても嫌がっていると気付いてくれて、好きだと言わなくても気に入っていると気付いてくれて、不平や不満の先回りをしてくれるのに。
「でも」
「何かあればなんでも言っていいからな」
 ある。
 あるけど、ピタリと車が停まって「着いたぞ」と部長が言うので、やっぱり言えなくなってしまった。「いつになく緊張しているな」と笑う大黒部長がやけに遠い。ねえ、部長、待って。私、今とても待って欲しいんです。
 もちろん、言葉になっていないことは、誰にも伝わらないで落ちていく。
 突き放されているようにも感じる、冷たい空気。
「いらっしゃいませ」
「予約の大黒だ」
「大黒様でございますね、そちらお掛けになってお待ちください」
 待って下さい。
 時間をください。
 私、結婚なんて。

 そこから先のことは、あまりよく覚えていない。
 部長に、痛いくらいに強く手を握られて、奥まで入って行って、他のカップルを何人か見かけて、あの人たちはどういう気持ちなのか聞いてみたいなあ、と思っていたら気付くと部長とスーツの女の人がなにやらいろいろ言葉を交わしていた。
 私は何一つとして頭に入って来なくて、頷くタイミングもわからなかった。
 女の人に話しを振られても何を言われているのかわからなくて、大黒部長に「それでいいか?」と聞かれてようやく頷いた。もちろん、なにがいいのかはわからない。ただ、部長がいいというのだから、悪いことではないのだろう、悪いことではないのだろうけれど、私はそこにはいない。
 とんでもなく悪いことをしている。
 やめなければならない。
 今すぐに、本当は、もっと早くに。
 心臓がどくどく煩い。
 血液がどんどん熱くなって、頭がぐらぐらした。
 出されたお茶を半分くらい一気に飲んだが駄目だった。
「大丈夫か?」部長に声をかけられたのはわかる。「大丈夫です」と返したと思う。
 自分の声がうまく聞き取れない。
 正面のお姉さんの言葉はほぼ聞こえない。
 リラックスできるようにだろうか、気持ちを盛り上げる為にだろうか、店内を流れているオルゴール調のウェディングソングが少しずつ遠くなっていく。
 視界の端から黒くなって、
 気が付いたら、病院のベッドで寝ていた。



 目を開けると、大黒部長が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
 私は名前を呼ばれたので返事をする。「はい」そこでようやく、部長はほっとして、ベッドの横に置いてある椅子にどっかりと座った。
「体の調子が悪いのなら、そう言ってくれ」
 一つずつ思い出す。
 大黒部長がしている腕時計を見ると、もう夕方だった。
 私は半日くらい眠っていたようだ。
「ごめんなさい」
「いい。俺の方こそ悪かったな」
「いえ、部長は」
 部長は悪くない。
 私がゆっくり左右に首を振ると、部長は私のほうへ手を伸ばした。いつものように頭を撫でてくれるつもりなのだろう。「っ」体が、びくりと震えた。
「あ、」
 部長の指先を避けるように体が動く。
 ぱたぱた、と絶え間なくシーツに涙が落ちていく。何故泣いているのだろう。自分の感情を上手く伝えられずに俯いた。「どこか痛むのか」と大黒部長が優しいので余計に涙が出る。私はまた左右に首を振った。痛くない。身体もおかしくない。でも、涙が出る。
「ごめんなさい」
 なんで謝っているのか、わからない。
 部長はしばらく黙ってそばに居てくれたが「飲み物でも買ってくる」とどこかへ行ってしまった。



 次に部屋に入ってきたのは、大黒部長ではなかった。
 嫌に時間がかかっているなあと思っていると、がらりとドアが空いて、金色の瞳と目があった。
 休日だというのにシャツとスラックスで、しかし急いで来たのだろうか、髪が一房横に跳ねている。
「あれ? 優一郎」
「大丈夫か」
「大丈夫。ただ、涙が止まらないだけ」
「かわいそうだな」
「顔が怖いよ」
 近くに寄って来た優一郎は虐めがいのある獲物を見つけた時の目をしていた。
 とは言っても優一郎が私を虐めたことはない。どちらかというといじめの標的にされがちだった私を守ってくれていた。
 優一郎は私の近くで不器用に両手を広げて、ぎゅう、と私を抱きしめてくれた。私も優一郎の背に腕を回す。肩のあたりに擦り寄ると、優一郎は、子供をあやすように背中を叩いてくれた。
 きっと、大黒部長が優一郎を呼んでくれたのだろう。ありがたい、こういうわけもわからず不安な時は、優一郎の近くが一番楽になる。
「ふふ」いつの間にか、涙はすっかり止まっていた。
 優一郎にもそれがわかったのだろう。
「帰るか」
「ごめん、もう少し」
 わがままを言ったのに、優一郎は「ああ」と短く返事をして、ずっと背中を叩いていてくれた。彼にも彼の予定というものがあっただろうに。申し訳ないことをしてしまった。近いうちにちゃんとお礼をしなければ。
あたたかくって気持ちよくて安心して目を閉じると、優一郎はするすると私の背中を撫でた。
「優一郎」
「どうした」
「優一郎は、変わっちゃわない?」
「俺は俺だ。ずっとそうだっただろう」
「ずっと、私の親友でいてくれる?」
「ああ。お前の一番は俺だし、俺の一番も、お前だけだ」
 よかった、と私はより強く優一郎に抱き付いた。
 そうだ。優一郎はずっと、出会った時から優一郎だ。私の大切な幼馴染で、理解者であり友人で親友。
 一番の親友だ。
 一番の親友は、きっと死ぬまで一番の親友だから、この関係が大好きだ。


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