「部長、焼肉奢ってください」


「どうした? いつになく熱い視線をくれるんだな?」

大黒部長のデスクの前で差し出した書類が返ってくるのを待っていただけなのだが、そう言われてみれば見ていたかもしれない。「いえ、あの」背中には同僚の視線がグサグサ刺さっている。最近、激務続きだから、なにか美味いものが食べたいと言う話になったのが二時間前、部長に奢ってもらおうと言う無謀な提案をし始めたのが一時間前、誰が言うのが成功率が高そうか、という話になったのがその十分後、今月の営業成績で行けばみょうじだと言ったのは誰だったか。
しかし私には荷が重いので無理だと主張すると、くじ引きで決めようという事になり、結局私が言うことに決まったのが更に二十分後。
すなわち、今から三十分前のことである。
私が普通に仕事で部長のデスクの前に立つと、皆からの「今なのか?」という期待の念が投げつけられまくっているので、だからこれは、言うしかない。

「あの、大黒部長」
「なんだ?」
「これは全然その書類とは関係ない話なんですが」
「ああ」
「焼肉、奢って下さい」

後ろの方がざわざわしている。「あいつ本当に言ったぞ」と声がして、やや「コノヤロウ」と思うけれど言ってしまった言葉は引っ込まない。

「ああ。いいぞ」
「えっ」
「今日でいいか?」
「え、え、……え?」
「取っておきの店に連れてってやろう」
「あの、でも、あれ?」

私は書類を受け取りながら慌てているが部長はいつも通りに「誰の報告書もこれくらい読みやすかったらいいんだけどな」と笑っている。ん? あれ? オッケーならみんなももっと喜んで良さそうなものだけれど、私の後ろは嫌にしいんとしている。
部長は私の肩を叩いて「楽しみもできたし気合い入れて頑張るか」と言った。「楽しみ?」

「ああ。君とデートだ」

……あ。皆に、って言い忘れたからか。



部長が出ていってから、追いかけて訂正しようとすると「あれはあれで成功だからオッケー」と止められた。「けどデートの途中で言えそうなら俺たちのことも頼むな」とのことであった。
えっ。やっぱり私は部長とデートに行くのか?
定時のチャイムが鳴ると、大黒部長は真っ直ぐ私のところにやって来て「行くか」と強めに私の腕を掴んで歩き出した。半ば引き摺られるようにして連れてこられた店は、まさしく大人の隠れ家という雰囲気の小さな店で、席は全て個室であった。
何料理屋なんだと不安になっていたが、テーブル中央に置かれた七輪を見てほっとした。

「あ、あ、あの? 部長?」
「好きなものを頼むといい。酒は飲むか?」
「え、いや、ホントにですか?」
「なんだホントにって言うのは。君が言ったんだろう?」
「いや、私がって言うか、あれ、本当は」
「嫌いなものはあるか?」
「あっ、私は別に……なんでも食べます……」
「なら俺のおすすめを一通り食ってみてくれ。酒も飲むよな?」
「じゃあ、少しだけ」

大黒部長はなにか呪文でも唱えるみたいに注文を通して、私と適当な話をして時間を潰していた。私はなにをやっているんだ?
まずお酒が来ると二人でグラスを合わせて「乾杯」と言い合った。一口飲むと、かなり良いお酒であることはだけがわかる。正直感動するくらい美味しい。これ、なにしてるんだっけ?
更にお肉が運ばれてくると、私はなんとか正気を取り戻し、部長に焼かせる訳にはいかないとトングを取った。けれど「今日は全部俺にやらせてくれ。いつもは君がやってくれているしな」と全部部長に取り上げられた私は、一体?

「私、今日部長に殺されるのかな……?」
「声に出てるぞー」
「はっ!? すいません。ええっと。元気です」
「そうだな。君は元気だな。君に死なれたら俺はとても困ってしまう」
「部長は困らないと思います……?」

そんなことはない、と大黒部長は大袈裟に首を振った。あまり本当のことには聞こえないが、この人の褒め言葉を上手く受け取るためのコツは、本当だったら嬉しいな、程度に聞いておくことだ。

「君は静かだし、気も利く上に聞き上手だからな。二人で食事をする上でこんなにも気持ちよくなれる相手はいない」
「え、いえ、あ、でも、黒野さんとかも静かだし、ああ見えて結構人の話を聞いて」
「ほら、口を開けろ。あーん」
「ひえっ」

遮るようにこの店の秘伝らしいタレにくぐらせた肉を目の前に差し出された。驚きつつも、拒否するのもなとそのまま食べる。これ、なんか、すごい綺麗な脂が浮いてるけどどこの部位なんだろう。

「お、美味しい……」

あれ。肉って固形物だよなあ。今食べたものはなんだったかなと首を傾げる。なんか溶けたぞ。いや、何度思い出してみても焼けた肉を貰っている。うーん。これは。あまり値段を考えたくない。

「部長は美味しいものを知ってるんですねえ」
「もっと食べるか? 気に入ったなら俺のもいいぞ?」
「い、いえ、悪いですから。そうでなくとも分不相応なところに連れてきてもらってて」
「気にするな。ただのご褒美だ。君は優秀だしな。今月の営業成績だってトップだっただろう?」
「いや、それはまあ、たまたま……というかそれを言うならいつもトップのあの人は……」
「焼けたぞ。口を開けろ」

大黒部長が「はやくしろ」と言うので言われた通りにする。良いお肉って本当に口の中で溶けるんだなあ。やっぱり美味しい。頬に手を当てて噛み締めた。

「んー……ありがとうございます……」

焼肉なんて久しぶりだなあ、いつぶりだろう。久しぶりの焼肉がこんなに良い店だなんて贅沢すぎるんじゃないか。

「んふふ、幸せになっちゃいますね」
「そうか。よしよし。どんどん食えよ。俺の奢りなんだからな?」

来月も一位を取れよ、食べただろ、と言われる可能性もあるが、今は今、来月は来月である。
私は高いお肉を二切れ口に入れて気が大きくなってきたのか、身を乗り出して部長の方にあるまだ焼かれていない肉を指さした。

「そっちはなんですか?」
「ああ、これも美味いぞ。食べてみるか?」
「はい!」
「いい返事だ」

大黒部長と肉をつつきながら美味しいお酒を飲んで、最終的にはかなり楽しく過ごさせてもらった。口にするものが全部美味しくて私は明日から特売の肉をちゃんと美味しいと思えるだろうか。いや、あれはあれで美味しいので大丈夫だろうけれど。
私はふう、と息を吐きながら店の外に出た。身体が重いのは食べすぎたからだろう。いや、あんなお店で食べすぎても大丈夫なのか? でも、その殆どは部長が口の前に持ってきたからで。

「来世分までいいお肉食べたかも」
「また連れてきてやるさ」
「あ」
「どうした?」

今の今まですっかり忘れていたが、美味しいものを食べたかったのは私だけではなかったのだった。私だけがいい思いをしてしまったが、そもそもの目的はこうじゃなかった。

「私一人だけご馳走になっちゃいましたけど、本当はその、皆に、」
「皆に?」

これだけご馳走してもらっておいて、皆にも、と言うのか? 私は言葉に詰まってしまった。皆に、皆に。そこから先が上手く言えない。ええっと。だから。私は。いや、だってこんな機会に恵まれたのもみんなのおかげで。「その」大黒部長は私の正面に立って、私の髪にさらりと触れた。

「言ってみろ。聞いてやるさ。俺に頼み事があるんだろう?」

その言葉で、更に、ダメで元々なお願い事だったことも思い出した。選出方法はくじだったし。これはこれ、それはそれだ。

「あー、皆にも、何か、美味しいものを……、あの、私はもういいので……」

大黒部長は、ふっ、と小さく笑って歩き始めた。いつの間にやらタクシーまで呼んでくれていたらしい。反応がそれだけなので、やはりダメだったか、と思うのだが、数歩歩くと、部長はぴたりと止まってこちらを振り返った。

「そうだな。君がまた俺の話をこうやって聞いてくれるなら、たまにはあいつらを労ってやるか」
「本当ですか!!」

私は嬉しさのあまり部長に詰め寄って勢いよく確認を取る。「本当ですか? みんなにもご馳走してくれます?」「ああ。みょうじがまた飯に付き合ってくれるならな」そんなことでいいならいくらでもだ。思ったより部長と二人きりの時間はしんどくない。なにより、一人だけなんて申し訳なさすぎるし、皆だったらまた別の楽しさがあるはずだ。
お酒のせいもあるだろう、私は大きく両手をあげてくるりと回った。

「やったやった! ありがとうございます! 大黒部長! 流石です! みんな喜びます! わーい!」
「大好きですはどうした?」
「えっ」

私がピタリと止まって部長を見上げると、部長はタクシーの横まで移動した。「冗談だ」これに乗ったら今日は終わりだ。緊張したが、本当に楽しかった。

「それにしても君は、自分よりもあいつらがいい思いをする方が嬉しいんだな」
「んっ? 何か言いました?」
「いいや。また明日な」

大黒部長は私の髪をぐしゃぐしゃと撫でて、タクシーの後部座席へ座る私を見守っていた。「はい。また明日」部長が必要最低限の力でドアを閉める。
窓越しに手を振ると部長が小さく何かを言った気がしたが、なんと言ったのか。口の形だけでは分からなかった。

「これは、困ったな」


-----------
20200921:君以外からの好感度はいらないんだが、君に好かれるためにはあいつらにこそなにかしてやる必要があるらしい。

 

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -