君に捧げる永遠の(犬編03)


仕事を(あれは仕事の一環であり浮気ではない。断じて浮気ではない)終え、解放されると早速心臓が鼓動を早くして全身から冷や汗が吹き出した。脳内ではなまえの「ううん。知らないひと」と言う声が何度も何度もリフレインしている。「知らないひと」俺はなまえにとって知らないひとではない。
なにか飲んで落ち着こうと自販機でコーヒーを買ってみたが、缶を持ち上げた手が大きく震えている。飲めそうにない。
あの後、彼女とは一度も目が合わなかったが、怒っている風ではなかった。しかも、彼女は別に俺の事が好きでしょうがないということもない。怒る通りはないように思う。実際怒ってはいないだろう。
しかし、これは、この出来事は十分に、俺と彼女が別れる理由になり得る気がした。丁度いい。もう飽きたしあれを理由に別れよう、となる可能性は大いにある。
俺は自分の家に震えながら帰って来た。ガチャリと、音を立てる前に喉が鳴る。そんなに遅くはないし起きているだろう。電気がついているから中に居るのもわかっている。「ただいま」と震える体から出てくる声も震えていた。なまえは帰っているようだ。音が聞こえたのだろう、リビングからひょこりと顔を出して「おかえりなさい」と笑った。
……いつも通りだった。
彼女はびっくりするくらいいつも通りで「お風呂入ってきたらどうですか」と提案し、「夜食いります?」とかわいらしいクッキーを見せてくれた。

「いや、食べたり飲んだりはできそうにない」
「そうですか」

いつも通りだ。俺はしかし、そのいつも通りが堪らなく怖い。彼女は今何を考えてクッキーを齧っているのか?
分からないまま風呂に入って、しかし部屋着という気分ではなく新しいシャツとスラックスで彼女の前に出る。「あれ? またどこか出かけるんですか。忙しいですねえ」と驚いていた。

「いつだ?」
「え?」
「どのタイミングで記入済みの離婚届を差し出されるんだ?」
「なんですか? 離婚?」

俺はなんだか何をどう思考したらよいのか分からなくなってきた。人間の考えていることを読み取る力には自信があるが不安でならない。「やるなら一思いにやってくれ」と彼女の前に跪いた。絶対に別れないが今の状況があまりにも耐え難い。

「私、部長さんと離婚するんですか?」
「絶対にしない」
「じゃあ、一体なんの話しをしてるんですか?」
「昼間、ホテルで会っただろう」
「会いましたね」
「知らない人じゃなかっただろう」
「はいはい、部長さんでしたね」
「で、俺の横にいた奴も見ただろう」
「ああ、女の人。綺麗な人でしたね」
「君の方が綺麗だ」

「はあ」となまえは曖昧に返事をした。何を言われているのか分からないようで首を傾げている。

「それで、なんですか?」
「怒ってないのか?」
「なんで怒るんです? あれが仕事なんじゃないんですか?」

とんでもない言葉が出た。つまりやはり、俺の考えていたことは正しくて、彼女はおそらくあの状況を極めて正しく理解してくれて……いや? ただ単に興味が無いだけではないか? それはそれで辛い。いや、だが、本当に? 彼女は欠片も怒っていないのか? そんなことが有り得るか? 試しに立場を置き換えて、なまえの逢い引き(俺のは逢い引きではない)現場を見てしまったと過程する。駄目だ。想像しただけで男の方を百回は殺せる。
安心したり焦ったり、情緒がどこまでも忙しない。
怖々、一つ質問を口にする。

「君、パートナーの浮気は許せるタイプか?」
「いえ? 発覚した時点で即別れます」
「やっぱりあるだろう!? 離婚届!!」
「ええ……?」

あれは浮気ではないが、絵面は完全に浮気だった。仕事だ、と口では言っていても、浮気か? と思わなかったわけはない。

「とにかく、俺は別れない……」
「誰も別れたいなんて言ってないですけど……」

なまえは読んでいた本を閉じて、子供にするように俺の両手を握った。

「仕事だったんじゃないんですか?」
「仕事だ」
「なら、一体どこに怒ればいいんです?」
「君を怒らせたいわけじゃない。わかってくれている、という自信が持てないだけだ。本当に気にならなかったか? あれは全部仕事だと思ってくれているか?」
「うーん……、まあ、でも……」
「なんだ?」
「たぶん、わかってますよ。あの人と私とじゃ、全然違う」

なまえは困ったように俺の両手を軽く上下に振った。
それは。その言葉は。つまり。掘り下げて色々聞きたいのだが、いろいろ込み上げすぎて言葉が出ない。対して「それ以上のことを言いようがないんですけど」となまえは簡単に自分の気持ちを言葉にしてしまう。

「部長さんは今、何がしたいんですか? はっきり教えて貰えたら、わかると思うんですけど」

今何がしたいか、など、とてもじゃないが一言では説明できない。信用されていて嬉しいだとか、伝わっていて感動しただとか、そんな気持ちと一緒に、ぐちゃぐちゃに嫉妬されたかったとか、自分を失うくらいに怒って欲しかったとか、そんな邪まな想いも押し寄せてきている。それでもただ、俺が考えていることを一つ彼女に教えるとしたら。

「今から君がドン引く様なことを言うがいいか?」
「まあ既に割と、はい、どうぞ」
「俺には君だけだとわかっておいて欲しい。できることなら君も俺だけになるように箱に閉じ込めておきたい。君より上はない」
「はあ、下ならあると」

俺は犬か猫のように床にひっくり返った。何故そんなに的確にしんどいことを言うんだ。何故俺が必死に言わずに隠していることを暴いてしまうんだ。いや違う。言い方を間違えた。あんなもの全部仕事で仕方なくやることである。違う。違う。どれだけ親しいフリをしたってあいつらは違うのだ。本当にわかってくれているのだろうか。

「俺は君とそんな話をしたくない……。君にはただ俺のことを信じて、俺の愛情を受け止めておいて欲しい……」

もうぐちゃぐちゃである。見られたくなかった。彼女が毛ほども気にしなかったとしても、あの瞬間、俺が目指す彼女への理想の愛情にヒビが入った。最悪だ。彼女が何も思わなかったとしても、あの場面を見たせいで、彼女は俺が「仕事だ」という度にああいう仕事の可能性もあるなと考えなければならなくなったわけだ。考えないかもしれないが、とにかく、なにより、見られたくなかったのである。
なまえは床に転がる俺の肩をぽんぽんと叩く。「大変ですね」果てしなく他人事である。中心人物は穏やかなものだ。
俺は溜息を吐いて体を起こした。「好きだ」元々ない絆は絶妙なバランスで保たれている。できる限りその均衡を崩さずに、徐々に繋がりを強くしていくつもりだった。

「駄目だ。君が全く揺れなければ怒りもしないし、なんならいつもより調子が良さそうなのが堪らなく辛い」
「ええ……?」
「嘘でもいいからなにか無茶苦茶なことを言ってくれ。それをどうにかしてみせたら少し落ち着けそうな気がする」

なまえはそろそろ面倒になってきたのか「あー」とか「うーん」とか唸る声が眠そうである。俺は隣に座ってじっと彼女の言葉を待った。彼女は「あっ」と丸めていた背筋を伸ばして俺を見た。眼がきらきらしている。

「じゃあ私、欲しいものがあるんです」
「車か? 家か?」
「犬」
「犬?」
「犬です。大きいやつ」

そんなもの飼ったら俺と遊んでくれる時間が減るんじゃないのか。俺を犬以上に構うと約束してくれ。そうでなければ犬なんて。と思うが。これをそのまま言う事はできない。なんとか格好付けてそれっぽい理由を……。

「犬、飼ってもいいって許可、くれますか?」

ことりと俺の顔を覗き込むように首を傾げる。
断れるわけが無い。


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20200912

 

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