31日:君をあいする一番の方法


朝、通勤してくる多くの社員の中に彼女を探した。
いつも、決まったパン屋の紙袋を持って、半分眠っているような表情で歩いている。けれど、仲の良い知り合いと会う時はぱっと明るく笑うのだ。最近は見れなくなってしまったが、特に好意を寄せる人間の前だと、もう一段階華やかになる。
勤務時間になり、もう一度だけ彼女のデスクを見に行く。
見てしまった瞬間に後悔した。周囲に人が居るだけ、彼女の場所がぽっかりとあいているのが際立っている。大黒は見ていられなくなってすぐに背を向けた。こちらに気付くことはほとんどない。彼女の集中した後ろ姿が見えた気がして、ぐっと目を押さえた。
昼になると、しれっと食堂で一人カレーパンを齧っているんじゃないかと、いつも彼女が座る辺りを見た。顔色を変えず、唇だけを真っ赤にしてカレーパンを食べる彼女は変人扱いされていたけれど、それは、そのルーティンは彼女を精神的に支えるものであったのだと、今はわかる。
いない人間に、あるいは、どうしようもないことに心を囚われるのは煩わしいが、忘れてしまいたいとは思わなかった。
定時前に、ふらりと黒野が現れて「飲みに行きますか。大黒部長の奢りで」と珍しいことを言った。この男はどういうわけかなまえと仲が良かった。大黒に気を使っている(そんなことができるようには見えない)のか、ただ単に自分が飲みに行きたいだけか判然としなかったが、もしかしたら、なまえの話がしたかったのかもしれない。
ただ、昨日の今日でそんな気分にもならない。「減給」とだけ言い放つと黒野は面倒臭そうに「そうですか」と帰って行った。
しかし、素直に帰りたいとも思わない。酒場でバカ騒ぎを聞くのも嫌だとなれば、やることと言えば仕事くらいのものだろう。かなり遅くまで残り、誰の声も聞こえなくなったあたりでようやく作業の手を止める。どうでもいいような仕事がかなり片付いた。
どこか静かな場所で一杯くらい飲んでみるのも悪くないかもしれない。
ここまで肉体を酷使してようやくそういう気持ちになった。
会社を出ると、缶ビールを一本買って、彼女が昨日の朝、船に乗った港までやってきた。
波の音だけが聞こえていて、夜空と海の境界線が白く、つうっと光ってみえる。チカチカとあれは海面に反射しているのだろうか、丸い光が揺蕩ってもいる。そんなものを眺めながらビットに座り缶ビールに口を付けると、疲弊した精神と肉体に染み入るようで思わずラベルを確認した。ただの安い缶ビールだ。特別なものではない。
なまえは、中華半島の軍でしばらくは働くことになるだろう、と言っていた。軍と言うからには女が多くいる、なんてことはないはずだ。男所帯で彼女のような女が一人。考えると胃がムカムカしてきた。
あの男以上はいないとしても、最悪俺以上でないと認められない。

「はっ」

誰よりイイ男であったとしても、認められるわけはない。
けれど、誰でもいいような気もしていた。どんな男でもいい。ただ、彼女が、なまえが心の底から笑えるのなら、それで。
きっと、そういう顔を見られれば、俺は。

「こんなところで一人酒ですか。黒野とか、付き合ってくれそうなものですけど」

幻覚を見ている、と月並みなことを思った。

「こんばんは」

思わず目を擦るという、お約束をやってのける。そういう下らないことはできるのに、彼女へかける言葉が見つからない。じっとビットに腰を下ろしたまま動けない大黒に、彼女はさくさくと近寄り、やや緩んだネクタイを掴んだ。

「聞きたいことは、実は一つしかないんです」
「なまえ……?」
「どうしてあんな嘘を吐いたんですか」

「貴方はあの人を殺してなんかいない」なまえはくっとネクタイを引いて、強制的に大黒と目を合わせる。「むしろ、狙われていたのは貴方だったんだ」もう少し状況の説明をしてくれたっていいだろうに、わかっていることだけで話を進める、と、そういうことらしい。
思えば、大黒もなまえも、一年間、ずっとそうして来た。
どうしてそうか、は最終的に問題ではなくなるのも、実感として知っている。

「君が、後を追いかけて死んでしまうような気がした」
「私はそんなこと、考えることはあっても実行しません」
「あるいは、あのまま衰弱して死ぬ可能性もあると思った」
「確かにちょっとやつれたかもしれませんけどね」
「それに、全く嘘というわけでもない。かなり危険な状況にあると知っていて仕事を頼んだ。……殺したようなものだ」
「いいから本当のことを吐きなさい」

「どうしても結びつかなかったんです」となまえは大黒の前にしゃがみこんだ。
あの日は、と言うより、あの現場には、おかしな動きをしている作業員が何人か居た。何かをしていることは確実なのだが、こちらの探し方が雑なのか、奴らのやりかたが巧みなのか、なかなか尻尾を掴めない。日に日に数が増えている気配もある。
流石にこのままではまずい、と、どうにか動揺させられないかと考えた。
例えば、大黒がここの責任者から外される、という噂を流すのはどうだろうか。もし、見えない何ものかの目的が大黒をどうにかすることであれば、焦って動きが見えて来るかもしれない。
そして、実際に噂を流し、ある日、あいつに一日限りの監督役を頼んだ。
噂を真に受けていれば、その一日は次の仕事の下見に見えたことだろう。
どうだ。俺は程なくここからいなくなるぞ。急いだほうがいいんじゃないか。そんな圧を与えたかった。それだけの話だったのだが。

「ここからは、俺の推測だが」
「はい」
「あいつは、奴らの悪事の現場を押さえたんじゃないかと思っている。だから、巻き込まれた。やっていた奴らもバレればただでは済まないからな、見つかったとわかった時点で関係ない奴らも施設も全部巻き込んでドカン、だ」

だから、本当に、何が狙いであったのか、誰を排除するための準備だったのか、主犯は誰であったのか、何もわからない。ただ、何者かが工場のいたるところに爆弾を仕掛けていて、あの日、爆発した。
確実にわかっていることはそれだけだった。
大黒が知っていることも、実は、何もない。

「……それなら、大黒部長も被害者じゃないですか。知ってますよ。あの時、あの人が邪魔だから工場ごと消し飛ばしたんじゃないかって噂されてたこととか、目を付けられたら殺されるとか言われてたこととか」
「そのくらいは言わせておけばいい。そんなことよりも」

じ、と大黒がなまえと目を合わせる。
そんなことよりも、なまえのことが気がかりだった。
死人のように気力の失せた、彼女のことが、心配で仕方がなかったのである。
その方法を選んだ理由は、いくつかある。
その内の一つが「俺は、あいつを好きな君が好きだったからな。きっと、そこに付け込みたくない、みたいな気持ちもあったんだと思うんだが」というもの。しかし、大黒はその時、優しさや同情、共感や愛情よりも、これが一番、力になると思ったのだ。生きる為の活力に、きっと、なる。

「だから『俺がやらせた』『好きだからだ』ですか。嘘と本当をテクニカルに混ぜすぎじゃないですか? 通りで全く繋がらないわけだ」
「そうか? 完璧に繋がってると思うんだが」
「繋がりませんよ。貴方のそれはどう考えたって愛だし、そんな感情持ってる人が、私が一番好きだった人を、殺せるはずがない」
「ハッハッハ、純愛すぎたか!?」
「ああ、いつもの調子に戻ってきましたね」

海面から跳ね返った月の光がなまえを照らしている。ふ、と微笑む顔を見ていると、柄にもなく涙がこみ上げそうになるが、どうにか耐えた。

「にしたって、もっと他にあったでしょうに。架空の犯人作り上げるとか」
「いや、まあ、それも考えないわけではなかったが」

彼女に、愛されることは諦めていた。諦めきれなかったけれど、そうなることはあり得ないと思っていた。殺されるかもしれないくらいに憎まれて、呪われて、笑顔なんて見られるはずもないのだと。他の誰より彼女の笑顔を渇望しながら、大きな矛盾を抱えたまま行動した。

「恨まれるのも憎まれるのも、慣れている」

それこそ、愛されるよりもずっと、慣れている。そちらの方が得意と言い換えても差し支えない。

「……」

なまえは「はあ」とため息を吐いて立ち上がった。ぐっと体を伸ばして言う。「ちょっと失礼しますね」「? ああ」反った体に反動を付けて額を前に突き出した。ご、と割合に強めの頭突きが入る「うッ」大黒はピッドから転がり落ちる。彼女へ言える文句はない。

「バカじゃないですか? 大バカ」
「その通りだな。もっと言ってもいいぞ」
「もう言いません。あれは絶対嘘だって気付かなかった私も同じくらいバカなので。おかしいと思いながら、問い詰めなかったのもおバカポイント高めですね」
「それは、どうだろうな。事実を見れば疑いようはなかっただろう。なんの証拠も出てこないが、俺があいつに仕事を頼んだその日に事件は起きた。しかも、俺は自分がやったと言っている」

「はあーあ」となまえは一つ前よりも長めの溜息を吐いて、大黒に手を差し出した。
大黒はそれを掴むことをやや躊躇ったけれど、結局、なまえに無理矢理掴まれる形で繋がった。もう一度ピッドに座り直す。
なまえの方の聞きたいことは終わったらしい。ならば、この状況についての説明を聞けるだろうかと大黒が口を開く「なまえ」と呼ぶと、なまえはわかっていると肩からかけている小さな鞄から封筒を取り出した。『なまえへ』と書かれている。
それだけ見れば、彼女が大黒の言ったことが嘘であると確信した理由はわかる。
だが。

「どうやって戻って来たんだ?」
「大黒部長がくれた指輪あったでしょう」
「あったな」
「あれあげちゃいました。で、無理通して、小さい船で戻って貰ったんですよ。さっきついて、そこに船あったんですけど、気を使ってどこかに移動してくれたみたいです。後日要お礼って感じですね」

なまえは海面の方に視線を逸らした。見たところ、ほとんど身一つの状態だ。住む家もない。大きな荷物も、船に忘れて来たのだろうか、持っていない。

「俺がここに来なければどうするつもりだったんだ?」
「家まで行って問い詰めるしかなくないですか?」
「それはそうだが」

その後、どこかへ泊る費用だとか、そういうものは残しているのだろうか。この勢いから察するに、財布ごと差し出していそうな感じだ。ならば、しばらくは友人の家に泊まるだとか、そういうつもりだったのだろうか。
いや、戻って来てくれたのなら、そんな必要は。
なまえは、背筋を伸ばして海面を見ていた。その体に手を伸ばすが、すぐにぴたりと動かなくなる。
躊躇う理由は、もう、きっとない。
あいつに悪い、だが、あいつは、こんな展開まで予測していた。
こうなることを、きっと、知っていた。
「まあ、なんだかんだあるだろうが、お前らは上手くいく」
手紙の一文が大黒の背を押して、なまえの体を抱きしめさせた。

「俺と、」

けれど、今更?
下手な嘘でなまえを苦しめるだけ苦しめて、嘘がバレた途端に、何もなかったみたいに、なまえに手を伸ばしても、本当にいいのか。

「俺、と……」

肝心の言葉が出てこない。なまえはなんの為に戻って来たのか。真実を知った今、何を考えているのだろうか。「大黒部長」

「実は私、帰る家無くて困ってるんです。拾って下さい」
「……俺でいいのか?」
「駄目なら黒野の家に、」
「家に来い。いますぐ来い。さあ行くぞ」

上手くいく。
まだ駄目だと思うなら、もういいと思えるその日まで、そんな日が来ないなら、二人でどうにか納得できるところまで。
大黒はなまえの腕を掴んでさっさと歩き出した。海を見ていると、また、彼女がいなくなってしまうような気がする。彼女はここにいるのだから、もう海になんぞ用事はない。

「部長の家、行くのはじめてですね」
「そうだったか?」
「たぶんそうですよ。着いたら家探ししていいですか」
「何を探すんだ」
「そりゃあアダルトビデオだとか、恥ずかしい感じの詩集だとか」
「……」
「え、なんですか。冗談ですよ。そんなことしませんよ」
「いや、君に似た女優のが出てくるだろうし、君に宛てたラブレターの残骸なら山のようにあるなと」
「……私は、一体、どうしたら?」

「見たいような見たくないような」と頭を抱えるなまえの手がだらりと近くに落ちて来たのを見計らって、こちらの手をぶつける。彼女はぴくりと反応して、そろりと腕を回して指を絡めた。

「俺の隣で、好きなようにしていたらいい」

なまえはきょとんとこちらを見上げて、――ああ、この顔は久しぶりに見た。
それは、彼女が一番好きな相手にだけ見せる笑顔だった。


<君をあいする一番の方法 了>
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20200831
あとがき

 

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