30日:君をあいする一番の方法


東京皇国の外に出るのははじめてだ。そもそも、船に乗るのもはじめてで、なまえは出航すると同時に甲板に出てぼんやりと海を眺めた。どこまでも青くてくらくらしてしまう。こんなにも綺麗なのに、きっとここから落ちたら自分はひどく苦しんだ後死ぬのだと思うと、途端恐ろしいものに思えた。
少し移動して、船の後ろ側に行ってみる。
まだ、東京皇国が見えている。いくつか煙があがっているが、あの工場のほとんどが灰島の傘下の会社で、一番大きなものがアマテラスだ。なまえは遠ざかっていく故郷を見つめていた。きっともう飛び込んだとしても泳いで戻ることはできない。
海という大きなものが横たわっているから、もう帰れない。帰るつもりはないはずなのに、海を挟むと視覚的にも遠くに来てしまったという気持ちになって寂しくなった。
大丈夫だ。あちらについてからのこともある程度決めてある。親戚が中華半島の軍人で、そちらで働き口を用意してくれると言っていた。寮も、部屋が余っていると教えて貰い、ならばしばらくはそこでいいだろうと、話がまとまるのに半日もかからなかった。
会えるのを楽しみにしている、と言われ「私も」と答えたけれど、知らない土地はほんの少しだけ怖かった。
けど、そのうち慣れるだろう。
あの人が居ないことにも一年で慣れてしまったのだから。



日曜日だというのに会社に呼び出された。
大した用事ではなかったのだが、感情にまかせてキレるようなことはせずに、さっさと終わらせた。そのまま帰ろうと思ったのだけれど、ふと思い立って一昨日までなまえのデスクだった席を見に行った。
その一角には書類の一枚、塵一つ乗っていない。
大黒はからりと椅子を引き、どかりとその席に座った。
なまえの匂いが残っているような気がしたけれど、これは、ひょっとしたら昨日までぴったりくっついていたせいで、自分自身から漂っているのでは、とも思えた。いつまで残っているか分からないものだ。
なまえは今頃、船の上だろう。
中華半島に着くのは明日だったか。
何もなくなった机をするりと撫でて、なんとはなしに引き出しを一つずつ開けていく。
綺麗に掃除されていて、キャビネットの中も埃は見当たらない。最後の一番大きな収納スペースを開くと、そこにはぽつんとメモ用紙が張り付けられていた。
まさか自分に宛てられたものでは、と思うが、書かれていた言葉は『お世話になりました』という当たり障りのない言葉だった。
『きっとうまくいく』と無責任な手紙を送って来たあの男の顔を思い出す。
うまくいくわけがない。
そもそも俺は初動を間違えたのだ。
あいつから貰った手紙も、早々に燃やしてしまおうと立ち上がった。



「なあ、アンタ、ひょっとしてなまえみょうじって人か?」

知らない男だった。「そうですけど」と言いながら記憶の中をひっかきまわして同じ人物がいないか探す。
人の良さそうな見た目をしている。この船の船員の一人だろうということしかわからない。よく焼けた肌に良く映える、真っ白の歯を見せて、彼はにっと笑った。「そうか、よかった」

「聞いてた特徴と一緒だから、そうだろうとは思ったんだけど。なにせ、一年経ってるから」
「一年?」
「ああ。まあ、一年後くらいなんじゃないか、とも言ってたんだけどな」
「待って。何の話ですか?」
「ほい、これ」

こちらの質問には答える必要なしと言われているのか、あるいは、こちらの質問になど答えることができないのか、男は胸のポケットからぐしゃぐしゃになった茶封筒を取り出した。
封筒には、『なまえへ』と書かれている。
その文字を見て、心臓が止まりそうになった。

「これ、いつ、どこで?」
「ん、一年前、なんとかっつー兄ちゃんから。もし、中華半島行の船に、こうこうこういう女が乗ることがあって、貴方が乗り合わせたのなら、これを渡して欲しいってさ」

そんなことが、あるのだろうか。
もしその話が本当だとしたら、彼は、いいや、私は。
なまえは急いで封を切り、中のものを引っ張り出した。
簡素な手紙だった。
『久しぶりだな』文字を追うと、鮮やかに音声で再生された。用件はたった一つだけで、読むのにさほど時間はかからなかった。まるで予言者のようになまえに手紙を届けた男は、短い手紙をこう結んでいる。『ごめんな、死んじまって』

「……ああ、もう!」

八月三十日、正午、なまえみょうじは真実を知った。


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20200830

 

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