25日:君をあいする一番の方法
この人でも困ることがあるのだな、となまえはどこか晴れやかな無表情で大黒を見上げた。
昨日はなまえから会いに行って弁当を渡したし、その後もどこかで飲まないかと誘っていた。それはどうしてもはずせない用事があるとかで断られたが、今日の朝にはなまえから挨拶もしたのだった。
昼に、綺麗に洗われた弁当箱を持って、大黒の方からなまえのデスクへ来た。
なまえは相変わらずカレーパンを齧っている。丁度良かった。となまえは大黒に菓子を手渡した。パウンドケーキを焼いて、朝、黒野に味見をさせた。美味い、とは言っていなかったが「食べられる」とは言っていたので、食べられるのだろう。
「これ、どうぞ」
「……ありがとう」
大黒はこの弁当を食べたのだろうか。それとも食べていないのだろうか。どちらだって構わないのだが、今回のパウンドケーキも断ろうと思えば断れたはずのところを、わざわざ受け取っているのだから、食べてくれた可能性のほうが高いように思える。「弁当」なまえは椅子を回して体ごと部長に向き直る。
「美味かった」
「それはよかったです」
なまえが言うと、大黒はなまえの前にしゃがみ込み、じっとなまえの顔を見つめる。観察するような、見定めるような視線を受けて、なまえはそっと目を細め、静かに大黒からの言葉を待つ。
「美味かったんだが」
「はい」
「君は、一体なにを考えてるんだ」
「……」
「あはは」となまえが不意に声を出して笑った。「何を考えているのか、わかりませんか」と大黒の頬にそっと触れる。大黒は珍しくなまえのことがわからないことに恐怖を感じているようで、ぴくりと震えた。
「今週いっぱいで退社しますから。好きなよう過ごしてるだけです」
「好きなように? これが君がやりたいことなのか」
「言葉にするのは難しいし、些か傲慢なんですけどね」
なまえは椅子から降りて大黒と同じようにしゃがみ込む。そして、なんの抵抗もしない大黒の手に自分の手を重ね合わせた。ひやり、と指先に冷たさを感じたけれど、なまえの手があたたかいから、同じような温度になっていく。
「数日、あと数日。全部忘れて貴方に報いたいと、そう思っているだけです」
「全部? あいつのこともか」
「はい。一年前の事故も、あの人も、大黒部長が私に言った言葉も全部忘れる」
「数日だけ」「そうですよ。正確にはあと四日間」土曜日までだ。全部忘れて、自分の気持ちの通りに生きる。大黒が好きだと思った、その気持ちの通りに。
「そして、いなくなるのか」
「はい。日曜日の朝には船に乗ります」
「そうか」
「はい」
「だが、それは」
「はい」
「……」
大黒もなまえに手を伸ばし、なまえの体を引き寄せた。なまえもまた抵抗はしない。きっと何をしても拒絶されないだろう。なまえも目を閉じて、大黒の背に手を回した。
報いたいと言いながら、これで救われる人間は私だけだ。
「数日なら、私は、私を許してやれるから」
八月二十五日、
「だから、ごめんなさい」
「謝るな、話はわかった。君の好きにするといい」
どう足掻いても、本当になにもない、ただの男女になれるはずがないことは、よくわかっていたけれど。それでも。
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20200825