17日:君をあいする一番の方法


悪いことをしたような気持ちになる。いや、悪いことはしていたのだ。味がわからないならわからないと最初から言えばいいのに、放っておいた。
そのくらいのことはしてもいい、と言う自分もいるし、悪いことは悪いことだと言う自分もいる。
貢がせよう、と思ったわけではなかったし、黒野のように面白がることもできなかった。良心が痛み、申し訳ない気持ちが勝ち、また、自分でも自分がなにをやっているのかわからなくなった。
平和な日々が戻れば良い、となまえは机の上で書類をまとめて席を立つ。身体が重くて足元がやや不安だ。一日くらい休みが欲しかった。
なまえが大黒になにかをする、ということはない。
ただ、悪いと思えば謝ることもあるし、有難いと思えばお礼も言う。必要以上に恨むことも嫌うこともしたくない。それだけははっきりしている。
だから、なにもしない。
大黒がなまえに対して如何に本気であろうとも、なにもしない。なまえにはこれが精一杯だ。
その内諦めてくれるまで、あるいは、なまえの方が面倒で堪らなくなって彼の前から姿を消すまで、これは逃げることと戦うことを、同時にやっている『なにもしない』なのである。
目標はないわけではない。
できるなら、わからないと思っていることが、全て明らかになるまで、ここに居たい。

「なまえ!」

嘘だろ、となまえは思う。
呼ばれて振り返ると、大黒がにこにこと笑ってこちらに近寄ってくるところだった。
平気で上に取り入り、部下に嫌われることのできる人は、やはり精神力が違うのだろう、となまえはつい目の前で溜息を吐いてしまった。五日も一緒に居たのでやや気が抜けている。

「人の顔を見て溜息を吐くとは何事だ?」
「いえ、昨日の今日なのでちょっとくらい、放っておいて貰えるんじゃないかと思っていたんですけど」
「それは見通しが甘かったな!」

ハッハッハ、と愉快そうに笑っているが、何やらそわそわしている。五日間観察していれば、その笑顔の奥にあるものが見えたりもしてしまう。なまえはしかし、気付かなかったフリで「なんの用事ですか」と言った。

「食べ物が駄目なら、こういうのはどうだ?」

この人やばいな、となまえは改めて目の前の男のとんでもなさを実感した。
大黒がポケットから取り出したのは細長い箱だ。上品なゴールドの箱の中に、大切に大切に仕舞われていたのは、シンプルなデザインの香水だった。形状からしてロールオンタイプのものだろう。

「……間に合ってます」
「腕を出せ」
「嫌です」
「上司命令だ」

ここが会社だからだろうか。旅行していた時よりも強引である。なまえは仕方なく腕時計をしていない方の腕を出すと、大黒が甲斐甲斐しく手首に香水をつけるところを眺めていた。

「よし、いいぞ」
「……」

しかたがないので両手首を擦り合わせる。
ふわりと、想像よりも甘い香りがした。

「どうだ?」
「……甘い匂いがします」
「そうだな。それで?」
「……咲いたばかりの、花、みたいな爽やかな匂いもします」
「俺はさっきから君の好みを聞いているんだ。好きか嫌いかで答えてくれ」

好きか嫌いか。
大黒の言葉を頭の中で反芻する。
本音を言えば好きな香りだ。よくもまあこんなに好みの真ん中の香りを見つけてきたものだと感心するほどである。
何もしない。何もしたくない。できることなど存在しない。けれど、何かを望まれている。私はそれを一生返すことはしない。何故ならば。彼は私が生涯大切にすると決めているものを消し飛ばしてしまったからだ。
胸が痛い。
切実な好意が毒のように体に沁みて、息苦しい。
頭がくらくらとして、わけがわからなくなる。
まるでただの愛のような何かが、一心に、向けられる度、私は。

「なまえ?」

まとめた書類が手元からばらばらと落ちていく音がした。
八月十七日、なまえは熱を出し、大黒にもたれかかるように倒れたので早退した。医者は、ただの疲労だと、そう診断を下した。


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20200817

 

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