10日:君をあいする一番の方法
部長にわざわざ会いに行くのは、一年ぶりだな、となまえはドアをノックした。
スケジュール的にはここにいると思うのだが、どうだろうか。「こんにちは、みょうじです」と言うと中からどたばたと音がして、向こうから開けてくれた。「なまえ」出迎えた大黒はどこか活き活きとしている。
「どうした? 珍しいな。君からここに来るなんて。緊急の用事か、それとも何か相談事か? サボりに来た、とかでもいいが。なんでもいい。とにかくそこに座ってくれ。コーヒーでいいか?」
活き活きというか、うきうきしている。地に足がついていないような大黒の様子に、なまえは慌てて「いえ、あの、すぐ、済みますから」と声をかけた。大黒の気持ちが落ち着けばいいと思っての言葉だったが、大黒はそれでもなにかやりたいようでそわそわしている。
「そうつれないことを言うものじゃないぞ。丁度俺も休憩しようと思っていたところでな」
「……本当にすぐに済むので」
「コーヒーの一杯くらいじゃ、君の仕事に支障はないだろう?」
「茶菓子も」と言われたところでなまえはこのままではまずいと「本当に!」と少し語調を強めて言った。大黒はようやくなまえにあれこれとすすめるのをやめて、なまえの正面に立った。
なまえは一度だけ呼吸を整える。「本当のことを言う必要はない」とは黒野の言葉だ。そう、本当のことを言う必要はない。「申し訳ないからとか、悪いからとかでは弱い」これも黒野が言っていた。その通りだと思う。もっとはっきりした意思表示でなければ「俺が好きでやっていると言っている」と言われて押し通られる。当然、同じ理由で「やめてくれ」だけではやめてくれない。
やめてほしい、明確な理由と意思が必要という訳だ。
「あの、大黒部長」
「ああ」
「私、実は」昨日、ものはついでだと黒野とプリンをつつきながら考えた。ちなみに「黒野からそれとなく言ってくれるっていうのは」という提案は却下された。「絶対に嫌だ」とのことであった。
なまえは黒野のこういうところを気に入っていた。友人ではあるが、無理な願いは断ってくれて、決して無理はしないところ。
「甘い物が、苦手なんです」
「なんだと?」
そんな話ははじめて聞いた。と大黒は驚いていた。そこにあるべきものがなかったというような、切羽詰まった驚き方で、しばらく険しい表情のまま固まっていた。仕事でトラブルでも発生したみたいな顔だ。
「だが、君」
「苦手、なんです。だから、お菓子の贈り物は、困ります」
「……そうだったか」
「そうか」と言った部長の顔が脳裏にちらつく。どうして、そんなに素直に「悪かったな」などと言ってしまえるのだろうか。本来の大黒であれば、笑い飛ばしてクッキーをすすめてくるくらいのことをしそうなものだが。
八月十日、なまえの前でのみ、大黒の様子はいつもおかしい。
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20200810