匿名希望/大黒


蝉の鳴き声が四方から聞こえる。見れば、何匹かは樹の回りを飛んでいるので、他にもたくさんいるのだろう。
負けないようにと笛の音、それに続いて声を出しながら決まった道を走る。ついぼうっとしていると、パーン中隊長に睨まれた。誤魔化す様に声を出して先頭の方へ出ていくと、オグンに「今日も余裕そうっすね」と言われた。にか、と歯を見せて笑う姿の方が余程余裕そうだ。

「来年にさ」
「はい?」
「来年、朝早い時間にこのあたりに来たら、抜け殻じゃない蝉見つけられるかな」
「見てどうするんですか」
「網戸にひっかけて蝉になるところ眺める」
「羽化するのを? またそんな男子小学生みたいなことを」
「やりたい」

なまえはしかし、きっと来年にはそんなことを思っていたことも、この場所のことも忘れてしまうのだろうな、と息を吐いた。誰か覚えていてくれたらいいのだが、オグンも「見つかるといいですね」なんて適当に相槌を打っているだけだ。
この時期にしては冷たい風が肌を撫でていくのが心地よくて、コースを外れそうになり、パーン中隊長に名指しで怒られた。



午前の業務を終えて、なまえは訓練校に顔を出し、希望者には体術の指導をした。それからまた第四特殊消防教会に戻る。すると、事務をしている女性に呼び止められた。「あっ、なまえさん」なまえは立ち止まり首を傾げる。なにかやらかしただろうか。提出を求められていた書類は全て出したはず。「そんな顔しなくても、なまえさんはしっかりやられてますよ」実は彼女とは同じ時期にここで働き始めた。役割は全く違うが同期である。

「いつものお中元来てますよ」
「ああ、匿名の」
「はい。差出人はわからないあれです」
「今年はなんだろう?」
「いいとこのゼリーでした。果物がごろごろ入ってる……」
「いいね」

匿名である、というのが怖いと、そういう話もしたことはしたが、毎年必ずお中元とお歳暮が届くものだから、いつからかその恐怖はどこかへ消えた。誰かが厚意で贈ってくれているのだろう。

「どれかいる? 二つくらい」
「え、いいんですか」
「まあ、皆に配るほどはないから、内緒ね」
「やったあ、流石なまえさん。今度書類の日付とか間違ってても直しておいてあげますね」

「ありがとう」なまえは真剣に頷いて、包みを解いていった。宝箱を開けるような気持ちでゆっくりと蓋を持ち上げると、これまた宝石のような、見ているだけで涼しくなるゼリーがたくさん入っていた。
後でオグンや火鱗、パーン中隊長やアーグ大隊長にも持って行こう。「一体どれだけ徳を積んだらこんなものが贈られてくるんですか」と彼女はなまえの肘をつついた。「うん」

「貰ってばかりで悪いから、いつか、会ってお礼が言いたいね」

匿名での配送に、お礼の手紙くらいは届けて貰えないのだろうか。



何故俺がこんなことを、と黒野はぼやきながらも雑用をこなしていた。大黒がわざわざ名指しでやらせている雑用である。社長や課長、専務なんかに自分を売り込む為には必要なことであるらしい、黒野は大黒に渡されたメモを片手に頭を掻いた。
饅頭、羊羹、酒、ジュースとそれぞれ違う店のもので、値段にまで気を使っているようだ。上の上司であればあるほど高いものである。
この気使いをちょっとくらい部下に向けられないものだろうか。

「送り先を間違えるようなことがあれば減給」

と平気な顔をしてにこりと笑った。

「部長もちょっとくらい自分でやったらどうです」
「失礼な。俺も大事なところには自分で贈っている」
「大事なところ……?」

メモを確認すると、灰島の役員の名前は全部ここにあるし、主要な取引先の名前もある。ホッチキスでとめられたメモを見れば見る程大黒の言う大事なところの見当がつかなくなった。他のどこに贈るというのか。「ごちゃごちゃ文句を言っていないでさっさと行け」この暑い中部下を外に放り出し、全く血も涙もない。せめて手際よく終わらせて戻ることにしよう。幸い、各店舗を回りやすいように揃ってはいる。ただ、メモは一ページ二ページでは終わらない。
きっと、夕方くらいには終わるだろう。



いつかこの男よりも出世して虐めてやろう。そう呪いを込めながら「部長」と終了報告に赴いた。控の紙をまとめて渡すと「ご苦労」と言った。それだけだった。突っ立っていると「どうした。さっさと帰れ」と手で払われる。まあ、思い切り労われても気持ちが悪いのでいいけれど。
言われるまでもなく出て行こうとするのだが、机の端にやたら大切に置かれた箱に気が付いた。まだどこかにお中元を贈るのか、それとも部長が誰かに贈られたものだろうか。

「なんだ?」
「あれは今から贈るんですか」
「ああ。そうだな」
「どこへですか」
「どこだっていいだろう?」

その笑顔はいつも通りの軽薄そうで信用ならないものであったが、裏にあるものが少しだけ見えた気がした。いい匂いがする。もしかしたら、これは部長の弱味であったりするのではないか。

「どこへですか」
「同じことを二度聞くな鬱陶しい」

出て行け、と言われて仕方なく出て行くが、どうにもあれの行先が気になる。恐らく、出世とは関係のない、他の、大黒にとっての『大事なところ』に贈るのではないだろうか。もしそうだとしたら。もし、あの荷物の送り先がわかったら。

「面倒な上司を一人、どうにかできるかもしれないな」

一年後、いい大人が三人揃って蝉の羽化を見に行くことになるとは、誰も予測できないまま、事態は進んで行く。


----------
20200730/すげー一途に一人の人を想ってる部長もそれはそれで推せるよな、という話…

 

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -