飛び込んだ先は底なし沼/大黒、黒野


「調子はどうだ?」

今日のなまえは元気そうで、顔色も悪くない。しかし、用もないのに大黒と真面目に話をする気力は湧き上がらないようで「まあ、そこそこですかね」と言いながらパソコンの画面に向き直った。周囲の人間たちはそそくさと席を立ち、タバコを取りだし外へ出ていったり、何か用事を作って外へ出ていったり、トイレにいくフリをして外に出ていったり色々であった。

「それはなによりだ。ところでどうだ、今日あたり。なにか美味いものでも食いに行くっていうのは」
「はあ、いいんじゃないですか」
「よしよし、何が食いたい?」
「それは一緒に行く人に聞いた方がいいと思います」
「君と行くんだよ」
「えっ、私と」

なまえが白々しく言う。ここまで時間稼ぎであったと大黒はわかっているが、いいと言われてやや嬉しくなってしまった手前なんとかぎゃふんと言わせてやりたい。なまえは「私ですかあ」とゆっくり時間をかけて適当な嘘を用意している。

「今日はちょっと」
「なら明日か」
「いやあ、明日もなあ」

実のところ、もうその辺の予定は調べ尽くしている。特に用などないくせに「すいませんねえ」などとなまえはかたかたと手を動かしていた。仕事熱心なのはいいことだが、上司の誘いを無下にするのはどうかと思う。最も、彼女は出世どころか、この会社にすら興味が無いようだから仕方がない。

「えらく忙しいな? さては恋人でもできたか」
「あっ」
「あ?」

なまえはぱっと顔を上げて手を打った。今にも、その手があった、と言いそうな顔である。「その手があったな」本当に言った。

「そうなんですよ、男の人と二人で食事なんて浮気認定されちゃいますから」

だからすいません、となまえは悪びれた様子もない。勿論。大黒はなまえにそんな相手がいないことも知っている。なまえも恐らく大黒がそのくらいの下調べを怠っていないと知りながら言っている。

「そうだったのか。そりゃあめでたいな?」
「はい。じゃあそういうわけでご勘弁を」
「いやそれにしても、君を射止めたのはどこの誰なんだろうな?」
「あははは」

なまえは笑っていない。今頃いもしない彼氏の容姿や仕事について考えているのだろう。と二人きりになってしまった部屋でどうしたものかとなまえを見下ろす。出直すべきか考えていると、がちゃ、と誰かが帰ってきた。

「なまえ」

帰ってきたわけではなかった。「あれ。優一郎」黒野となまえとは幼馴染である。それも大黒は知っていた。黒野はなまえの方を見ると、自然視界に入ってきた大黒の姿に眉を顰める。「部長? 何故ここに……」気安い様子が癪に触り追い返そうとした所で、またなまえが「あ」と言った。今度は何を思いついたのか。

「!?」

なまえは立ち上がり黒野に飛びついた。
黒野はなまえを抱きとめたが何が起こったかわからないらしく目を白黒させている。

「優一郎と付き合うことになったので」

しめた。と思う。黒野を選んだのが運の尽きだ。

「そうだったのか? 黒野」

聞いてやると、黒野はなまえの肩を勢いよく掴む。「ひぃ、なになになに? え、話分かるよね? 合わせてくれるよね?」さすがのなまえもこれには危機を感じて慌て始めた。なまえは気づいていなかったのだろうが、黒野は。

「いまから、役場に行って婚姻届を貰ってくるか」
「ひぇ、なんでえ?」
「ついに俺の気持ちが通じたな」
「なんの話……?」

黒野はなまえを虎視眈々と狙っていたのだ。その男はみすみす腕に飛び込んできた意中の相手を簡単に逃すほど良い奴じゃない。なまえは、黒野のことはちょっとやばい幼なじみくらいに思っていたようだがとんでもないことだ。なまえはひょい、とその浅はかな考えごと黒野に抱えあげられた。「うわ」

「よし、行くか」

なまえはようやく顔を青くして暴れている。勝った、と大黒は思う。

「い、行かない行かない、ごめん全部説明するから下ろして待って止まって、あああ誰か」

誰か、と言っても全員何かしら理由をつけて外に出ているし、残っているのはなまえ、黒野の他には大黒しかいない。善意で助けてくれそうな人間は誰もいない。しかたがない、となまえは「大黒部長!」と縋るように叫んだ。

「いいだろう。ただし、夜は食事に付き合ってもらう」
「うわーん、仕方ない行きます!助けてください!」

なまえはこの日から自分の状況を考えては、一日一度は「会社、やめよっかなあ」と呟くようになった。


-----------
20200611:後輩バージョン

 

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -