そして永遠の愛を誓う・前編


 ずるい、と思っていた。
 いつだって彼女は弱い人間の味方なのだ。



「えっ、黒野さん彼女いないんですか」

 その手の話題には飽き飽きしていたが、仕方がないから答えてやる。「そうだ」どこにでもいる弱っちい男は調子に乗って更に続ける。「ちなみに、今まで女の人と付き合ったことは?」「ない」事実を述べるだけだから、そう時間はかからない。男は一丁前に、あり得ない、というような顔をした。どこがどうあり得ないのか説明できないくせに、世界全体の雰囲気に呑まれてそういう顔をするのだ。

「作らないんですか?」
「ああ」
「どうしてです?」
「相手が決まっているからだ」
「は?」
「相手が決まっているんだ」

 じ、と男の眼を覗き込む。必死に笑って陽気に振舞う姿をここ数日見てきた。そのギリギリの空元気の出所を、俺はよく知っている。

「手を握りたいのも、体を触りたいのも、付き合いたいのも、家族になりたいのも、一人だけだ」
「へ、へえ」

 大抵の奴はこのあたりで黙り込む。どういう神経をしているのか「その人って実在する人ですか」とか「その人とはどうなってるんですか」と聞いて来た奴がいるが、この男にはそこまで踏み込む度胸はないようだ。男が、自分自身の右手をぎゅ、と握った。その手。

「第一特殊消防隊の教会で、シスターをしている」

 その手が気に入らなくて右の手首を掴むと、男は「ひっ」と声を上げた。
 この後輩は、先日家族が焔ビトになって死んで、彼女に慰められていた。手を握られて顔を覗き込んで貰って、やわらかく優しく微笑む彼女に生きていくための力を分けて貰っていた。
 彼女は昔から、一人でいる奴や弱っている奴を放っておくことができない。そういう優しすぎる女だった。俺が弱い者いじめに精を出していると必ず俺とそいつとの間に立って、弱い方を守ろうとする。そんなことをしても意味があるとは思えない。俺が嫉妬で狂いそうになり、彼女を慕う人間が増えるだけだ。気に入らない。弱いのは悪いことではないが、だからと言ってそれだけの理由で彼女に優しくされるだなんて。
 する、と男が自らの汗でべたべたにした手のひらを撫でる。
彼女が触れた手のひらだ。

「あいつの手は、温かかったか? それとも、冷たかったか? 柔らかいのか? 見た目よりずっと硬いのか? あいつに手を握られて、どう思った? どんな気持ちになった?」

 彼女がしていたように手を握る。ばき、と音が鳴ったのは、力を入れ過ぎたせいだろう。

「教えてくれ。俺は、あいつに触れてもらったことがないんだ」

 間接的にだったら、何度もあるが。



 いつも通り、ここから先はまともな会話にはならなかった。あと俺ができることは、もう二度と彼女に会いに行きたくなくなるように痛めつけることくらいだ。

「便りがないのは元気な証拠、と言う」

 わかりました、わかりましたと掠れた声で繰り返す肉の塊の座り心地は悪くない。
 しかしそろそろ壊してしまいかねないので、俺は立ち上がってふらりとその場を移動した。弱い人間に追い打ちをかけるのは堪らなく楽しいのだが、これを彼女が知ったら悲しむし、先日の比ではないくらいにあの男につきっきりで勇気づけようと、あるいは、慰めようとするのだろう。最も、もう彼女の顔など見たところであいつは恐怖しか感じないだろうけれど。
 ……いいや、もし万が一、懲りずにあの男が彼女に会いに行って、挙句、これは俺にやられたと彼女に言ったらどうしようか。こんなことをしたのだとバレたら間違いなく嫌われる。口をきいてもらえなくなる。こっちを見ることすらなくなるかもしれない。

「……それは駄目だ。やっぱり殺すか」

 くるりと男を振り返ると情けなくがたがたと震えている。
 彼女に縋りつくような、そんな度胸はありそうにない。彼女に黙ってあれを痛めつけたと知られるのもまずいが、あの男が死んだと彼女が知ったら、彼女は心を痛めるだろう。自分の力不足だったと嘆くだろう。その姿に俺はたいへん興奮するのだろうが、同じくらいにそんな姿を見るのは嫌だと思う。溜息を吐く。こんなことをしていても結局はどうにもならない。彼女の不興を買うことこそあれ、笑ってくれることはない。
 そもそも、俺では駄目なのだ。いつもいつも上手くいかない。こんな俺を彼女が好きになってくれることはない。弱い人間になったら、もっと気にかけてくれるかもしれない。だが、彼女の前に現れる数多の弱い人間の、その内の一人に成り下がるのは受け入れられない。特別扱いされたい。特別な表情で俺を見て、特別な声で俺を呼んで欲しい。ああ。

「だいすきだ」



 また来ます、と言っていた人の半分ほどは、二度と教会に姿を見せなかった。立ち直ってくれたのなら良いのだが、そういう雰囲気でもない。ならばどういう理由があるのか。わからない。わからないが、わかっている。原因は私にある。気にしすぎだ、と仲間のシスターやフォイェン中隊長は言ったけれど、どうして気にしないでおくことができようか。偶然などでは絶対にないのである。
 ほぼ間違いなく、あの男がやっている。

「なまえさん」

 讃美歌を歌い終えるとぱらぱらと教会内部から人が散って行く。私は何人かの顔見知りと談笑していたわけだが、後ろから修道服をくい、と引っ張られて振り向いた。「なに?」小柄なシスターがおどおどと周囲を警戒しながら小さい声で教えてくれる。

「なまえさん、あの人、また来てるよ」

 あの人、というのは私の幼馴染のことだ。
 シャツにスラックス。個性的なベルトのバックル。右腕にぐるぐると巻かれた包帯が重々しい。鋭い金色の眼が音もなくこちらを睨んでいる。こちら、というのは私のことだ。あるいは、私と仲良くしている人間のこと。
 私と話しをした、と、ただそれだけのことが、あれには堪らなく気に入らないのだ。熱心な信者であった男性が彼に虐められてこの教会には来なくなっている。それも一人や二人じゃない。証拠がないので責められないが、私の顔を見るなり怯えた顔をされればある程度の察しはつく。被害に遭った人たちはあれにされたこと、言われたことを話すことさえ嫌がった。
 あれの視線に晒されていると、体が冷えていく。
 執着心が地を這って纏わりつくようであった。

「……ああ、ごめんね。絡まなければ無害、なはずだから」
「だって今もあそこにいるし」
「ごめんね。無視しておけばいいから」
「でも」
「ごめん」

 追い返せば出て行くだろうが。私は正直、あまり関わり合いになりたくない。幸い、性別が女性であれば黒野が危害を加えてきたことはない。はずだ。私がちらりと黒野の方を見ると、黒野はびく、と体を震わせて背筋を伸ばしていた。期待の籠った目でこちらを見て、口元だけ逸るようで、はくはくと唇を動かしている。何か言われる前に目を逸らす。
 あんなもの。どうしろって言うんだ。



 昔からとても歌が上手く、同級生にせがまれて歌っているのを見たことがある。それも一度だけで、俺がついうっかりそいつの耳を引き千切ろうとしたら彼女は歌ってくれなくなった。
 それでもシスターになったら月に一度、彼女は教会で歌を歌うので(弱い奴らへ向けた慰めであったり神だかなんだかへの捧げものであったりするらしい)俺は定期的に彼女の声が聴けてとても幸せだ。ただ、気になるのは聞いている人間(特に男)が俺だけではないという点。

「はあ……」

 溜息を吐く。
 歌は美しい。
 なまえを見ていると嬉しくなる。
 しかし、他の人間は全て死ねばいい。

「つらいな」

 ぽそり、と呟くと隣の爺さんに聞こえていたらしい。あまり弱そうにされると耐えられなくなりそうだから関わらないで欲しいのだが、親切心からか「体の調子でも悪いのか」と聞いて来た。「調子は悪くない」

「それならよかったよ」
「歌が、素晴らしいからな」
「そうだなあ。私はここに通って長いけれど、特に彼女が入ってからはまた音に深みが増したようだよ」
「彼女」
「ほら、真ん中あたりにいるだろう」

 俺は隣を見なかった。表情如何によってはただ座ってはいられないと考えたからだ。眼を閉じて、聞き入る。そうすると、世界には俺となまえの二人だけになる。実際は違う。「はあ」

「ここに居る奴らの耳を、引き千切ってやりたい」

 がた、と椅子が大きく震えたのは、隣の奴が立ち上がってどこかへ行ったからだろう。理解が早くて助かる。もう二度と来ないでくれたら、もっと助かる。
 歌が終わっても、時間が許す限りなまえをじっと見ていた。
 そうしていると一度は目が合う。咄嗟に背筋を伸ばすが、すぐに逸らされてしまう。いつものことだ。こちらには絶対に気付いているはずなのだが、なまえは俺のことがあまり好きではないのだ。彼女の方から話しかけてくることは滅多にない。
 ふと、彼女と、彼女の隣にいたシスターが同じ方向を見て固まっている。何かあるのかと俺もそちらを見れば、足を引き摺って一人の男が一直線になまえに向かってやって来ていた。
 あの男は。
 先日、俺が虐め倒した後輩だ。
 俺は立ち上がり、なまえの方へ歩いていく。後輩は俺には気付いていないようで、なまえの胸ぐらを掴み上げる。
 なまえは表情一つ変えずに、真っ直ぐに男を見つめ返していた。ああ羨ましい。そこを替われ。

「どうかしましたか」

 慌てふためく周囲の人間を投げ飛ばしながら近くへ。

「お前」

 後輩だった男が吠えた。

「どうしてあんな奴を放っておくんだ!」

 なまえの眼が悲し気に揺れた。それだけの言葉で、何を言われたのか理解していた。なまえはきゅと唇を引き結ぶ。ああ、そんな。そんな覚悟は必要ない。そいつがそんな怪我を負うことになったのは、なまえのせいではない。だからそう、早々に黙らせなければ。

「あいつの性格知ってるだろうが!」

 なまえが殴られるのを覚悟する理由など、一つだってありはしないのだから。

「がっ、」

 思い切り頭を殴った。
 やはり殺しておくべきだったのだ。
 もう一発入れれば確実に息の根を止められるだろう。俺はゆっくり男が飛んで行った方へ歩く。触れるなと言ったのに。顔を見せるなと言ったのに。なまえを殴ろうとするなんて許されるはずがない。どれもこれも、この男が弱いのが悪い。それを死ぬ前に教えてやらなければ。

「黒野」

 足を止めたのは、なまえが俺を呼んだからだ。
 ばっと振り返ってなまえを見る。

「黒野くん」

 なまえは死にぞこないの男と俺との間に立って、男を庇うように両手を広げた。
 ああ、またこれか。

「やめて、黒野くん」
「正当防衛だ」
「君がなにかされたわけじゃない」
「なまえに掴みかかった。あのまま放っておけばお前は殴られていた」
「頼んでない」

 ぞくぞくする。なまえの凍てつくような視線が俺を見てくれている。あいつを守るためにそうしていると思うと大変に腹が立つが、この状況だけ切り取れば悪くはない。昔はよく考えなしに、彼女と正面から向かい合いたいが為に誰彼構わず虐めたものだった。
 無論、今は誰彼構わずやっているわけではない。
 これは、必要なことだ。
 今度は燃やし尽くして殺す。優しいなまえに掴みかかり、あまつさえ殴ろうとするなど正気の沙汰ではない。

「退いてくれ」
「退かない」
「そんな奴まで庇うのか」
「そもそも、君がこの人になにもしなければ、この人が怒ってくることもなかったわけでしょう」
「俺はなにもしていない。そうだろ」

 瓦礫から這い出て来た男に問うと「ひっ」と怯えて、更に情けないことに近くのシスターの後ろに隠れた。俺の視線をなまえが体で遮る。俺はどきどきと胸が高鳴り始めるのを感じる。とてもきれいだ。何より、幸せだ。彼女がこちらをみてくれている。

「黒野くん。いいから、今日は帰って」
「だが」

 その男は、もしかしたらなまえに危害を加えるかもしれない。そうなってからでは遅いのだ、ということを言いたかったのだが、なまえは強く、俺に言う。

「帰れって言ってる」

 これ以上粘ると、嫌われるかもしれない。

「……わかった」

 好かれてはいないくらいならばいいが、完全に嫌われたり、ないものとして扱われるのは困る。おそらく、人間でいられなくなるだろう。俺はとぼとぼと教会を出て、がっくりと肩を落とした。

「はあ」

 また失敗してしまった。
 俺はただ、なまえを守りたいだけだったのだが。



 話が通じるようには見えなかった。
 小さい頃も大概だったが、今は目を離すと人一人くらいは平気で殺してしまいそうで(本当はもう何人か手にかけているのかもしれないが)、恐ろしい。
 あれがこちらに向けて来る感情の内容はわかっている。それを利用しなければあれを止める手立てはない。本当はわかりたくないが、わからなければならない。フォイェン中隊長にはいつでも相談してくれと言われているものの、本当に力づくで止めるとなればどちらも無事では済まないだろう。

「ほんと、なんなの」

 私が悪い、と思いたくはないが、放置しているのは悪いことだ。
 そろそろ本当にどうにかしなければならない。どうすればいいか。あれを止めておく方法がわからない。
 現場に居合わせられれば止めに入るが、わからないところでやられるとどうにもならない。いつも、私の言う事だけは聞くのである。
 上手くしたら、約束させることができるだろうか。そういえば、そんな話は一度だけしたことがあったはずだ。

「どうしたら、やめてくれるの」

 それに対するあれの、黒野の言葉は何だったか。
 確か、中学校を卒業した後だった。高校一年生になるまでの短い期間。私は一人の男の子に告白をした。それが、どういう経路を通ってか黒野の耳に入り、その男の子は全治三か月の大怪我を負ったのだった。
 そういう話は聞いていたが、その時は黒野がやったとは思っていなかった。いや、思っていなかった訳ではない、まさかそんなことはないだろう、と思っていた。いくらなんでも、と。しかしそのいくらなんでもは実行されていた。
 女子高に通い始めた一年目の夏、街で見かけたその男の子は私の顔を見るなり恐怖に顔を歪ませて走って逃げた。その時はじめて、黒野がやったのだとわかった。ちなみに、告白の返事は貰っていない。
 黒野にわざわざ会いに行ったのは、この件について問いただしに行った一回だけだ。今にも一雨来そうなくもりの日だった。空模様だけが私の味方である気がした。
 校門で待っていると、弾丸のように走ってきて、他の生徒の視線から隠す様に立った。浮かれた顔で「どうしたんだ」と言われたのを覚えている。「話がしたい」とだけ言うと、近くの公園に案内された。
 がらんとした公園で、空気が良いとは言えなかった。花壇にゴミも落ちている。子供が遊ぶにはやや不安だが、こういう話をするには丁度良かった。

「私は、中学生の終わりにある男の子に告白したんだけれど」
「……そうなのか」
「その子に、なにかした?」
「……」

 黒野は黙っていた。していない、ともした、とも言わない。静かな周囲と、ぎらぎらと光る黒野の視線が不釣り合いで、気持ちが悪かった。

「私が君に、なにかした?」
「お前は悪くない」
「なら、誰が悪いの」

 この質問にも、黒野は答えなかった。自分が悪いとも私が悪いとも、痛めつけた男の子が悪かったのだとも言わない。
 私の思考はどんどん沈んでいく。
 黒野は弱い者いじめが好きである。それは本人が言っているから間違いはない。私はそれだけだと思っていた。だから、いじめやすそうな人間を見つけてはいじめている、と。しかし、よくよく思い出してみると、小学校中学校と、仲の良い男の子ができる度に、その子が標的にされてはいなかったか。
 今更気付いた自分に嫌気が差す。

「もう二度としないって約束してくれない?」

 黒野は約束、という言葉に反応して私の眼を覗き込んでいた。私は何かを吸い取られるような気持ちになるのだが、黒野は私と対峙したらしただけなにかを得るようで、どんどん顔色が良くなって、目の輝きが増して来る。

「君が弱いものいじめが好きなのは勝手だけど、そこに私を巻き込まないで」

 言うと、歓喜に震えるように頬を紅潮させていた。ここは、断じてそんな顔をする場面ではない。

「どうしたら、やめてくれるの」

 黒野ははっとして、興奮したまま一歩距離を詰めて言う。

「なにか、してくれるのか。なまえが、俺に」
「……どうしたら、やめてくれる?」

 薄暗い公園に光が落ちて来た。雲が隠していた太陽が出てきたのだろう。丁度、黒野だけを太陽が照らす。黒野は制服に砂が付くのも気にせず片膝をついて私の左手を取った。鳥肌が立ったが圧倒されて動けなかった。空すら私の味方ではなかった。

「一生、一緒にいてくれ……!」

 自分から黒野に触れに行ったのもこの一回だけだ。
 すなわち、空いていた右手で思い切り黒野の頬を引っ叩いた。
 思い出してしまって頭を抱える。私は私を犠牲にしたら、新たな被害を止められる。それはそれはおぞましくて、布団を頭からかぶり、枕に涙を吸わせた。私があれと。あんなものと。

「どうしろって言うの」

 方法は本当に、これしかない?



 数年に一度、とても良いことが起こる。
 その中でも今日は特についている。
 天気も晴れ。
 気温も過ごしやすく丁度良い。若干陽射しが強いが、今目の前で起こっている幸運の前では問題にすらなりはしない。
 こんなに良いことはなかなかない。
 時々は良いこともするものだ、と俺は心の中で頷いた。

「ほら」

 真正面、ではなかったのだが、ただの気まぐれで転がってきたリンゴを拾い上げた。「あっ」とその一音だけで誰の声だかわかるし、俺の心臓は高性能なセンサーのように高鳴り出す。顔を上げると、目の前にはなまえがいた。
 できる限り平静を装ってなまえの前にリンゴを差し出す。
 彼女は、買い出しの帰りだろうか。大きな紙袋を抱えている。彼女にこんな雑用をやらせるなんて、不届きな奴がいるものだ。誰だかわかったらただではおかないのだが。「……ありがとう」と、なまえが言うので全部忘れた。ありがとう、と言われたのは一体いつぶりだろうか。ふる、と体が震える。

「いいや」

 リンゴは彼女の抱える紙袋の中に入れた。今度は転がらないように良い場所を選んだつもりだ。彼女は無表情でさっと体の向きを変える。

「じゃあ」

 俺は即座に彼女の隣につく。この機会を逃す手はない。俺も彼女もフリーな時間などそうそうないし、あったとしても、それが重なるなどレア中のレアだ。そもそも、そんなことが起こるなんて通常ではありえない。見えない何かで引かれたに違いない。

「教会まで送ろう」
「いらない」
「だが」
「いい」
「荷物も重いだろう。俺に持たせてくれ」
「重くない」
「なまえ」
「……」

 返事が返って来なくなった。いないように扱われるのはしんどいことだ。ただ、離れ離れで顔を見ることもできない方がもっとつらい。あまり付き纏って、毎回無視されるようにはなりたくない。引くか否か考えるが、一つ、彼女がシスターであるが故に同行を断られないと確信できる魔法の言葉を思いつく。どうにか、隣か、近くを歩くだけでも許されたかった。

「……なら、教会に祈りに行くのはどうだ」
「……勝手にしたらいい」
「そうさせてもらおう」

 よかった、と思う間もなくなまえは歩くスピードをぐっと早める。俺は当然彼女に合わせた。もっとゆっくりでも誰も文句は言わないはずだが、彼女は仕事熱心だし、しょうがないだろう。そういうところも好感が持てる。
 広く広く捉えればデートと言えなくもないこの時間に、何か気の利いた雑談でもできないものかと周囲を探る。面白いものが転がっていないだろうか。猫とか犬とか、彼女の手のひらを独占するので昔から嫌いだが、彼女はそういう動物は好きだ。もしかしたら、笑っている顔を近くで見られる可能性すら――――。
 空気の熱が突如、ぼう、と上昇した。
 なまえも俺も熱源を探る。
 見つけるのはそう難しいことではなかった。小さな火の粉がこちらに飛んできて、俺はそれがなまえに当たらないようにさっと払う。そうこうしている間に、火元周辺の弱っちい人間達は俺の好きな顔をして逃げ回っている。なんだ。珍しくもない。元人間が炎を出して、燃えながら叫んでいるのが見えた。

「焔ビト!? こんな人混みで……」
「これは、」

 弱い奴らの逃げ惑う顔が間近で見られる。
 なまえの肩にぶつかりそうになっていた奴を突き飛ばして、無理矢理進行方向を歪める。なまえは青い顔をして俺を見上げた。不安そうだ。そうか。彼女は戦う術は持っていないから、炎が怖いのだろう。

「黒野くん、このままだと、」
「ああ。大丈夫だ。なまえだけは」

 なまえが買い物袋を地面に落とした。俺がまたそれを拾い上げようと屈むと、彼女の両手の平がぴたりと俺の頬にくっついた。一瞬、意識が遠くなった。これは夢だろうか。「黒野くん」なまえが呼ぶので、なんとか意識を手放さなかった。

「黒野くん、聞いて」

 声が出なくて、こく、と頷く。
 見たことのない眼をしている。
 隣を歩けたこと、触れて貰えたこと、良いことが起こりすぎて思考回路が焼き切れそうだ。しかし、なまえが聞けと言うから、一言一句洩らさず聞く。

「このままだと、怪我をする人がでる」

 俺はここでようやく理解する。なるほど。彼女が怖がっているのは、自分以外の誰かが傷付くことか。「だから」

「黒野くんが鎮魂して」

「私は、祈ることしかできない」

「おねがい」

 おねがい。おねがい。おねがい。なまえの声がなまえでいっぱいになった脳内に反響する。おねがいされてしまった。なまえが俺を頼っている。俺は、感情のままなまえの細い体を抱きしめた。
 離すと、なまえに背を向ける。

「任せてくれ」

 これが、はじめての共同作業と言うやつだ。


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202000608:後編、今月中

 

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