番外編A/黒野


「はじめまして」だろうか。いいや、露骨すぎるかもしれない。ならばさらりと「今日もそれか」はどうだろう。天気や気候の話のように自然な気がした。よし、と気合を入れて彼女の後ろ歩いていく。待て。まだ彼女は入社して二日しか経っていないのに「今日もそれか」は如何にもおかしい。二日間くらいだったらたまたま同じであることもあり得るだろう。まさか大学時代から一方的に知っていたことをいきなりバラすわけにもいかない。警戒されたくはない。そんなことを考えている間に、なまえの後ろを通り過ぎた。一週間後にしよう。一週間、毎日見かけていて毎回メロンパンだったから声をかけた。そういう流れならば、おかしくはないはずだ。
実際のところひと月かかってようやく声をかけたわけだが、そのなまえとはどうにか人並み以上に仲良くなることに成功し、今となっては俺の伴侶である。流石に結婚ともなると黒野になにか弱味を握られているのでは、となまえを心配する奴も少なくなかった。まったく冗談じゃない。馬鹿を言え。弱味を握られているのは俺のほうである。俺はなまえに強く出られない。困った顔をされるとこちらも困ってしまう。弱っているのを見るのは楽しいはずだが、何故だかいじめようという気力がわかない。なまえと俺とは負の感情を共有しているのかもしれない。そう思うと納得だったし、もしそうだとしたらなまえを一人で泣かせることはないのだろう。なまえが泣くときは俺も泣くときという訳だ。世界で一人の運命の人間なのだから、そういうことがあってもおかしくはない。とは言っても、細かいことはわからない。突き詰めれば惚れているからだと思ってもいる。いつだったか「運命だったな」と俺が言うと、なまえはふわふわしながら「そうですねえ」と笑った。
隣で眠るなまえの頭をそうっと撫でていると、なまえは薄く目を開けた。「ゆういちろうさん?」起こしてしまったかと思うが、疲れていたのかまた目を閉じて眠ってしまった。安心しきった寝顔はいつまでも眺めていられる。

「なまえ」

しかし眠りは浅いようで、なまえは片目だけでこちらを見上げた。先日、数日間だけ預かった猫のようだ。猫はなまえに大層可愛がられていて、俺は大変にへそを曲げた。膝の上で思いつく限り甘やかして貰って、ようやく猫をいじめてやろうという気は失せていった。俺も少しだけ猫を触ってみたが、見事に手の甲を引っかかれ三本線ができた。なまえが必死に庇うのでやめたが、俺一人であれば外に放り出してカラスの餌にしている。
なまえはやや覚醒して来たのか俺の手に擦り寄りながらくぐもった声で言う。

「ねれないんです?」
「いいや。お前の寝顔を眺めていたい気分なだけだ」
「そんなに面白いかおしてますか」
「ああ」
「ははは」

体を起こして、シーツを巻き込みながらベッドに座る俺の近くに来ようとしていた。しかし、途中で眠くなったのか、ぱたりと俺の膝に倒れ込む。

「眠いのなら寝た方がいい。加減はしたが無理をさせた」
「んん……」

二人で布団に潜り込み、ぎゅっと体を密着させる。これだけ近くで一緒に居てもなまえの匂いは俺とは違うので不思議である。なまえは俺の背に小さな手のひらを這わせてささやかな力でしがみ付いてきた。どうやら灰島では甘えないように甘えないようにと気を付けているようで、こういう時にしかなまえは甘えてこない。いつでも甘やかす準備を万全に整えている俺としては寂しいが、なまえの変化を眺めているのは楽しかった。
それから、こういう時にしかできないことがある。

「なまえ、なまえ」
「ん」
「明日、なにかして欲しいことはあるか」
「あした……」

あまり近くに人を置きたがらないなまえは、頼るだとか甘えるだとか、更には怒るだとか嫌うだとか、そういう、人に大きな感情を向けるのが苦手だった。だから、なまえからの本音やお願いは、なまえを酔わせた時だとか、こういう意識が曖昧な時に聞き出すと良い。

「あしたは、けーきが、たべたい」
「お前は……」

そんなことがあるか。と俺はなまえを抱きしめる腕を強めた。今時小学生だってもっと強欲である。もっとないのか。俺とどこかへ行きたいだとか。俺と一日中いちゃいちゃしたいだとか。俺にもっと大事にされたいだとか。待て。ひょっとしてケーキというのは旦那にドロドロに愛されたいとかそういう意味の言葉だったかもしれない。

「なまえ」
「いちごののったやつ……」

違った。本当にただのケーキの話をしている。疲れているのかもしれない。最近部長に目を付けられこき使われているし、一週間しっかり仕事をこなして疲れた体だと知りながら今夜は俺にぎっつり抱かれている。そういう甘いものが欲しいと、単純にそういう話なのかもしれない。

「わかった。明日買いに行くか。食べに行くでもいいぞ。パフェでもクレープでも、なんでもいい」

返事はなかった。なまえは眠ってしまったようだ。明日、この会話を覚えているかどうかはわからない。覚えていたり、そうでなかったりする。なんとなく、これは覚えていない気がする。覚えていなくても、きっと彼女が朝起きた時、そう提案したら喜ぶだろう。それで十分だ。
明日は二人でケーキを食べる、俺も、そんな気分になってきた。


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20200531:大体仲良しだとうれしいとおもいました。

 

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