ひと月遅れのはじめまして(END)


大学時代。まさしく、今日、黒野と行ったあのカフェで、なまえは一度だけ昼にメロンパンを食べる理由を他人に話したことがある。当時親しくしていた女友達は数人が知っていたことだったのだが、その男(名前ももう思い出せない)は「なんでいつもメロンパンなわけ?」と軽い調子で聞いて来た。

「お前は言ったな」

なまえは言った。

「こうしていると、運命の人に出会えるのだと」

あの日、カフェで、黒野はなまえの声が聞こえるくらい近くに居たらしい。そう言えば、道路に面した席で、その日もなまえはぼうっと外を見ていた気がした。左隣には当時仲良く(もなかったかもしれないが)していた男が居て、右隣に居たのが、黒野だったのだ。

「違うか?」
「ち、違いません」

あれは大学二年の夏頃だった。当時の学友達が全くあてにならない、意味のわからないことばかり言う占いの館があるのだと噂をしていた。誰かが行ってみよう、と言ったので軽い気持ちで付いて行った。なまえがその占い師と対面したのは一番最後だった。学友たちはげらげら笑いながら館から出て来て、なまえの背を押した。入るなり三秒、占い師はなまえと目を合わせて。

「あなた! これから、お昼にできるかぎり毎日メロンパンを食べると運命の人に出会えますよ!」

なまえも例にもれず、今の一瞬で一体自分の何を見たのかわからないし、なるほどバカにされやすそうな顔をしていると感じた。ただ、にっこりと微笑む笑顔があまりに無邪気で、結局ひとしきり話をして、館から出た。なまえには大した悩みはなかったが、占い師の女性があまりにも真剣に受け答えをするものだから、嘲笑する気にはならなかった。
そしてその占い師は、次の日、交通事故で死んでしまったと噂で聞いた。

「その占い師の言葉を本当にしたかったんだろう?」
「……よく覚えてますねえ、何年も前に聞いた話でしょう……。そうです。と言っても、そんなに立派な動機でもないですけどね。ただ、私は結構あの人のことを好きだと思って、だから、あの一回を意味のわからない占い師との思い出にするのは、癪で」

だからメロンパンは食べている。本気で運命の人に出会えるとは思っていないが、食べるのである。食べている内に好きにもなったから苦ではない。最も、当時それを話した男には「そんな理由で? ひょっとしてお前もバカなんじゃね?」などと言われたが、思い出すと腹が立つので思い出さないようにしている。その男のことはその日以来見ていないし、思い出して苛立つことがある程度の害しかない。

「黒野さんは、じゃあ、私のことを随分前から知ってたんですねえ」
「何度かあのカフェで隣に座ったこともあるぞ」
「え、そうだったんですか。すいません、全然気付かず……」
「その当時から、俺は、」
「?」
「いや、結局話しかけられたのは、お前が灰島に入社してきてひと月も経ってからになったんだが」

なまえがメロンパンを齧るのを見るたびにその話を思い出していたのだとしたら、相当に恥ずかしい。なまえは頬を赤くして頭を掻いた。黒野は自分を痛い奴だと思わなかったのか、それだけが心配だった。

「なんか、恥ずかしいですね……。いや私は、運命の人に会えたら、それはそれでいいと思ってましたけど、半分くらいは意地、もう半分はメロンパンが好きになったのと、ただの惰性です。ごめんなさい、黒野さんがそんなに、真剣に受け取っているとは」
「優一郎」

頑なに名前で呼ばせようとする。あはは、となまえは笑って、昼にメロンパンを食べることを止めるタイミングについて考える。

「そうですねえ、じゃあ、優一郎さんと結婚するようなことがあったら、メロンパン、食べるやめましょうかね」
「そうか。なら、結婚してくれ」

なまえはベッドから落ちそうになった。黒野がすかさず腕を掴んで、なまえを自分の膝の上に乗せ、真正面からぎゅうと抱きしめる。そして、そっと体を離し、なまえの両頬を手のひらで覆った。

「い、いやいや、くろ、優一郎さん?」
「どうした」
「私達は付き合い始めて一週間なんですけど」
「関係あるか?」
「ありませんか?」
「俺は、なまえみょうじとずっと一緒にいたいと思っている」

黒野の迷いのなさには、驚かされてばかりだった。怖い人だという噂はあるが、いつだって、話してみるとあまり難しい人ではないことに気付く。

「結婚とは、ずっと一緒にいると言う約束のことだろう。つまり、あとは、なまえも俺とずっと一緒にいたいと思っていてくれさえしたら何の問題もない。一週間あれば、そのくらいの判断は下せないか?」
「えーーーーー……、いや、思い切りが、良すぎやしませんか」
「俺の場合、もう随分前からお前のことは知っていた。お前が昼にメロンパンを食べていると安心していた。まだ、運命の相手には出会っていないということだからな」
「あーーーー……、優一郎さんって、ほんと、優一郎さんですよね……」

ここまで言われて、嬉しくないわけはない。なまえはここ数日で思っていたことが形になっていくのを感じた。自分をこんなに好きでいてくれる人は、この人しかいないのかもしれない。「優一郎さん」

「ずっと、一緒にいるんですか? 私と?」
「ああ」

ここで、頷いたら、お願いしますと一言言ったら、自分は黒野と結婚する。おそらく全てスムーズに進んで、下手をしたら六月中に式まで強行する可能性だってある。迷う理由の方が少ないことはわかっている。しかし、これは。ただ付き合うのとは、訳が違う。じっと悩んでいると、黒野がこつりとなまえの額に自分の額をぶつけた。

「……実は」
「はい」
「あの時の男を退学まで追い込んだのは俺だ」
「へえ!? あ、あの人退学してたんですか。通りで見かけないなと」
「俺はその当時お前の名前も知らなかったわけだが」

怖い人である、という噂が全て嘘だとなまえには言えない。なまえにとってはとても優しい男ではあるが、容赦のないところも弱いものを見ると燃えるところもなまえは良く知っている。絡め取るように金色の眼がなまえを見つめる。

「その、名前も知らない女の、不器用な優しさを馬鹿にされたのが許せなかった」

静かな夜の海面を思わせる、穏やかな力がなまえを包む。溺れてみたい、と胸を押さえる。寝室に入った瞬間からどきどき煩くて困っている。今、ほんの少しだけある黒野との距離を飛び越えたくて堪らない。体を押し付けるように抱き付いて、身体の熱が全部を伝えてくれることを願う。

「も、くろのさんは、私のこと、好きすぎやしませんか」
「優一郎」
「ゆういちろうさん」
「ああ。そうだ。この件に関してはかなりわかりやすくできたと自負しているんだが、伝わっていなかったか? もし体の相性が心配なら今から確かめるからな、返事はその後でもいいが」
「そ、そんなの言われてから事後にオッケー出したら体の具合が良かったから結婚するみたいになるじゃないですか。断りませんよ。よろしくお願いします。私を選んでくれてありがとうございます末永く仲良くして下さい」
「雰囲気」
「優一郎さんがこれでもかってくらい急かしたんですよ……」
「そうか。よし、ならもう一度だな」

彼は照れるということがあるのか、と思うが、きっと、なまえに声をかけるのが遅れたのは気恥ずかしかったからなのだろう。体を離して改めて向かい合う。ならもう一度、と、さらりと立て直してくれる姿にきゅんとする。ああ、自分も大概黒野のことを愛している。

「俺と、結婚してくれ」
「……はい」

まずは、黒野さんではなくて、優一郎さんと呼ぶことに慣れなければならない。この勢いならばきっと今日中にでも籍を入れると言い出しかねない。そうなれば、なまえも黒野さん、になるはずだ。
五月三十一日、優一郎黒野と、なまえみょうじは夫婦になった。


end
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20200531:『ひと月遅れのはじめまして』おしまいです! ほぼ丸ひと月お付き合いいただき、ありがとうございました〜! 応援のお言葉も大変に有難かったです! おかげさまで予定通りに終われました! よろしければ感想をお待ちしております…何卒…→感想をぶん投げる

 

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