ひと月遅れのはじめまして(23)
朝起きると、黒野が隣で寝ていた。なまえは声にならない悲鳴をあげ、そしてひたすら謝った。三杯目あたりまではなんとなく記憶があるが、そこからはさっぱりわからない。黒野は「大丈夫だ」と言うだけで昨日の様子を話そうとはしなかった。仕方が無いので朝食を済ませると、当初の予定通り二人で外に出た。一日デートの予定だ。
朝一番から映画を見て映画館からしばらく歩いてデパートの前まで来ると、懐かしい匂いがして立ち止まった。そろそろ昼時でもある。
「休憩しますか」
「大胆だな」
黒野は路地奥にあるホテルに足を進めようとするのでなまえは慌てて黒野を止めた。
「ち、ちがいますよ、ちがいます! そこ、あっち! 大学時代よく言ってたカフェなんですけど、メロンパンがね、美味しいんです。食べましょうよ」
「やっぱりメロンパンなのか」
黒野は難しい顔をしていたが、ホテルに行こうとしていたのはちゃんと冗談だったようだ。デパートで揃いの香水を買ったり揃いの部屋着を選んだところで、夜は家で食べようと日が落ちる前には家に戻って一緒に料理をした。黒野はなまえに酒は一杯しか与えなかったので、今、意識はしっかりしている。シャワーも浴びた。こんなに準備の時間がしっかりあると、余計なことを考えてしまう。
黒野はぎ、となまえをベッドに押し倒しながら言う。
「さて」
「……さて、とか言われると緊張するんですが」
黒野の手つきは溶けそうに優しい。服の上から普段は触らない体のラインをじっくりと確認していく。体は自然に近付いて、こつ、と額をぶつけて三秒だけ真正面から見つめ合う。どちらからともなく目を閉じて唇同士を合わせると予想より柔らかくて驚いた。黒野は啄むようになまえの唇を吸う。
「ん、うっ」
「なまえ」
「は、はい」
黒野が顔を上げてなまえの肩口に沈み込む。
「足りないか?」
「っ、へ?」
何を言われているのかイマイチわからない。今日はもう好きなように抱かれるだけだと思っていたから、難しいことを聞かれると困る。なまえは放り投げた考える力を拾い集める。
「えっと、え、なんの話です?」
「俺に足りないものがあるのか?」
「い、いえ? 特に思い当たりませんし、私の方がずっと色々足りていないと思いますよ」
黒野は何かを不安がっているようだ。
ゆっくりと顔を上げて、もう一度キスをして、なまえに言う。
「好きだ」
「はい、私も」
迷いのないなまえの返事の後にまた、ちゅ、とぶつかる。「んっ」ついつい甘く声が漏れるが、なまえは、彼が不安がっているその原因を探し始める。このまま、わからないままで先に進むことはできない。
「もしかして、私、なにかしました?」
「俺ではお前の運命になれないか?」
運命。その言葉になまえはどきりとする。
「んっ!? ど、え、どういうことです?」
「どうもこうもない」
黒野はぎゅう、となまえを抱きしめて息を吐いた。
「俺と恋人同士になってもメロンパンを食べているだろう」
「えっ!?」
運命。メロンパン。なまえは頭を抱えたくなった。まさか黒野は。
「俺じゃないのか。お前の運命の相手は」
「俺はお前だと思ってるが」
「お前は違うのか」
黒野は。
「ま、まってください黒野さん」
「優一郎」
「優一郎さん、え、も、もしかして、あれですか、あの、え? なんで? 私、喋ってないですよね? 酔って喋りました?」
「いいや。酔っ払ったなまえは只管ふにゃふにゃ笑っていただけだ。あと俺にくっついていた」
「ひいっ、その話はちょっと置いといてもらって……。あ、あの、えっと、その」
そうだとすると月曜日、変わらずメロンパンを食べるなまえを不愉快に思っても不思議ではなかったし、今日の昼も複雑そうな顔をした。それにも納得できる。
「黒野さん、私が、毎日毎日阿呆みたいにメロンパン食べてる理由、知ってるんですか?」
酔った勢いでないとすると、一体何時知ったのだろう。やや長い話になりそうだと判断した黒野は、体を起こしてベッドの端に座った。なまえも黒野の隣に座る。
「ああ、知っている。あの時のことは、よく覚えているさ。何せ、俺がお前を好きになった日のことだからな」
五月三十日。ここで、時間は零時を過ぎ、日付が変わった。
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20200530
次が最終回です…