ひと月遅れのはじめまして(21)


「なまえ」
「はい」

五月二十八日、今日は朝から、こんな調子だ。

「なまえ」
「はいはい」
「なまえ」
「なんですか」
「なまえ」
「はあい」
「……なまえ」

今日は一体なにを言い出すのかと待っている。昼の時間が半分過ぎてもいまいちやりたいことが読めなかったので、「どうしました?」と聞いてみた。黒野はなまえの髪の端をさらさらと触りながら名前を呼ぶ。「なまえ」「はい、なまえです」

「なまえ」
「黒野さん、ひょっとして私、何かやらかしました?」
「それだ」
「それ」
「明日はお前に家に泊まりに行くわけだが」
「ああ、はい。とりあえず見られるレベルには片付けてあるはずです」
「他人行儀だ」

片付けの話ではないことはわかっていて言った。黒野の言うそれとはなんだろう。話し方が気に入らない、というよりはタイミング的に「黒野さん」という呼び方の部分がひっかかっている可能性が高い。

「……もしかして呼び方ですか」
「ああ。もっと砕けてしかるべきだろう」
「ここは会社なので、砕けすぎない方がいいと思いますけど」
「なら、仕事が関係ない場所では砕けてくれ」
「ふむ……」

それは自分でも考えていた。だが、この問題こそタイミングが掴めずにいた。仕事場でそうフランクに呼ぶわけにもいかないし、自然にさらりと黒野の名前を呼ぶ自信もなかった。今も、あまり自信がない。優一郎さん、と頭の中ではなんとでも言える。考えた挙句、なまえはへら、と笑った。誤魔化されて欲しい。

「優一郎さんなので、ゆうちゃんとかですか。どうですか? 砕けてます?」
「今なんて言った」
「ゆうちゃんとかですか」
「それじゃない」
「自然な流れじゃないですか? 安直すぎますか」
「どうして照れるんだ」

お見通しである。なまえはめげずに照れ隠しを続ける。

「ゆうちゃんかわいくないですか」
「なんだ。嫌なのか。俺の名前を呼ぶのが」
「いえ、恥ずかしいだけです」
「何事も練習だ。やってみろ」

ここで拒否をしたがためにこれからの関係に響くというのも馬鹿らしい話だった。名前くらい。呼べる。呼べるだろう。呼べる、と、呼吸を整える。

「……」
「……あー、」
「……」
「ゆ、ゆー……」
「……」
「…………、ゆう、ぃ、ちゃんさん」
「誰だ?」

なまえは素直に頭を下げた。机に額がぶつかる。ここぞとばかりに黒野はなまえを頭を両手で撫でまわす。

「ちょっと練習しておくので今日は勘弁してください」
「練習」
「これは予想外にイメトレが必要な案件です。一日待って下さい」
「いや。練習というのは、何相手にだ」
「鏡じゃないですか? もしくは想像上のゆうちゃんさんに」
「ゆうちゃんの方が恥ずかしくないか? いや、それはともかく、想像上の俺に言うくらいなら明日俺が直々に練習相手になるから今日は練習しないでくれ。想像上の俺には勿体ない体験だ」

ここまで言われると、名前も照れて呼べない現状の自分が恥ずかしくなってくる。なまえは黒野に撫でられながら顔をあげる。

「ゆうちゃん先輩って本当に面白いですよね」
「馬鹿言うな。お前の方が面白い」
「いやいやいや、優一郎黒野さんには負けます」
「惜しいな……」

明日に備えて他にも考えるべきことはあるように思えたが、なまえは、まあなんとかなるだろうと笑っていた。黒野を見ていると、安心して、全力で好きでいられる。というより、全力でなければ黒野に寂しい思いをさせてしまいそうで必死だった。自分には、そういう恋愛が合っているのだと、はじめて知った。


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20200528

 

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