ひと月遅れのはじめまして(20)


黒野の全部がわかるわけではない。今日も、なにかやりたいことがあるのだろうというところまではわかっても、はっきりと何がしたいのかはわからない。朝、挨拶を終えると黒野はじっとなまえの持つ、書類が入れっぱなしになっている鞄を見ながら提案する。

「荷物を持とうか」
「え、大丈夫ですよ」
「……そうか」

見た目に反して軽いんです。となまえは笑ったが、黒野の反応はイマイチで、(いつも以上に)言葉少なに考え込んでいた。次に動いたのはパン屋に入った時で、ぱっと顔を上げてなまえに言う。

「奢るぞ」
「ん? いえ、いつもいつもだと悪いですから」
「………そうか」

このあたりで黒野がなにかやりたそうだと気付くのだが、会社に着くまで動きはなく、ただとても不満そうに「また昼に」と自分の持ち場へと歩いて行った。なまえがその背中を見つめていると振り返ったので、なまえはすい、と手を振った。黒野も小さく手を振り返した。
そして再び昼に会うと、黒野は、メロンパンをかじるなまえの髪をくるくると触って、やはり考え込んでいる。

「……手伝おうか」
「なにを手伝うんですか?」
「食事を」
「あ、メロンパン一口食べますか。どうぞ」
「……」

表情から察するにそういう訳ではなかったらしいが、差し出されたメロンパンを一口齧った。(あっ、食べた)その後律儀に「美味いな」と感想を教えてくれた。なまえは「それならよかったです」とは返したものの、黒野の釈然としない顔が気にかかる。

「黒野さん、どうしたんですか?」
「……昨日の礼をあれこれ考えたんだが」

昨日の礼。そう言えば何か返すと息まいていたなと思い出す。

「今のところことごとく失敗している」
「んっ?」

なまえは最後の一口をのみ込んで改めて今朝からの黒野の行動を思い出す。思い出してみれば納得だった。なるほど。何かを返してくれようとしていたのだ。「ああ!」

「いいですよ、本当に気にしないで下さい。大したことはしてないですから」
「いいやした。……もうこれは最後の手段になるんだが」

黒野はなまえを痛いくらいに真っ直ぐ見る。興味がない人間とは目も合せようとしないから、彼の事を知れば知る程熱量に浮かされそうになる。ぐっと耐えてなまえもまた黒野を見つめ返す。

「何かないか。俺はお前に頼られてみたい」
「いつも頼りにしてますよ」
「嘘を吐くな。いつも俺がなにかしようとすると大丈夫だとか平気だとか言うだろう」
「いえいえ、隣に居て貰えるとなんていうか、安心感が違いますよ」
「それは告白じゃないのか」
「告白ですよ」

黒野の言う「頼られてみたい」というのも告白だとなまえは思う。だから、黒野の好意にわかりやすく応えようとするとこうなってしまう。真顔でいると照れてしまいそうだったから、へらりと笑った。黒野はきゅ、と眉間のあたりに力を入れている。

「……本当に、何かないのか。俺は今日、どうしてもお前のお願いを一つ叶えたい。いや、一つじゃなくてもいいが」
「ええ……」
「あるだろう。もっと一緒に居たいとか」
「じゃあそれで」

黒野はムッとしてなまえの頬を抓った。黒野にしてはかなり加減しているが、それでも「いひゃいです」抗議は届かず、反対の頬も抓られる。

「今適当に返事をしただろう」
「まさか。具体的には今日もし定時で帰れるなら晩御飯どこかで一緒に食べませんかって話になるんですけど」
「!」

ぱ、と頬から黒野の手が離れる。なまえはすり、と自分の頬を擦った。ひりひりする。

「どうですか? 叶います?」
「よし。なにが食いたい?」
「パエリアが食べたいんですけどいいですか? 嫌いじゃないです?」
「わかった。行きたい店があるのか?」
「はい。エスコートしても?」

黒野は頭を抱えて大きく息を吐く。

「はあー……、なまえ」
「はい?」
「今から行かないか」
「いやいや、怒られちゃいますよ」

それもいいな、と本当は思うし、そうしたい気持ちも大きいが、自分はともかく黒野は灰島にとって大切な人材だ。そんな人をあまり独り占めしてはいけない。せめて、しっかり仕事はこなさなければ。

「頑張って仕事、片付けましょう」
「…………、そうだな」

五月二十七日、仲睦まじく手を繋いで定時に会社を出て行く姿が、多くの社員に目撃された。灰島に二人の関係を知らない人間はもういない。


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20200527

 

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