ひと月遅れのはじめまして(19)


「付き合い始めたんだね」とほっこり微笑んだのは同僚の女性だった。明言したわけではないが、物理的な距離が明らかに縮まっているので、言い逃れはできない。現に食堂で並んで座っている今も、とても近い。黒野はわざわざ椅子をずらしてこちらに寄っていた。なまえは照れてうまく黒野の方を向けないでいたが、三十分ほど経過したあたりでようやく落ち着いて来た。

「あれ、黒野さん」
「どうした」
「どこかで喧嘩でもしてきたんですか。ネクタイが曲がってますよ」

今更だが、今気付いたのだから仕方がない。黒野はなまえの手が首のあたりに伸びて来るのをじっと黙って見つめていた。そっとネクタイの位置を直して体を離す「ありがとう」と黒野に言われて「どういたしまして」と返している途中ではっとした。自分も自分である。いや、それもこれも、黒野からのボディタッチが増えまくっていることに原因がある。理由は埃がついているとか、寝ぐせがついているとか本当っぽいものから、虫がいたとか手が滑ったとか嘘みたいなものまで様々だった。

「ついでに包帯も少し締め直してくれ」
「え、い、いいですけど、大丈夫なんですか? こう、うまく解けるように出来てるんじゃないんです?」
「好きだ」
「会話の合間に唐突に言われるとびっくりするんですけど……」

黒野の好意にちゃんと応えようと好きだと言われたら好きですと返しているせいで、こんな場所でさえなまえからの「好きです」の一言を待っている。じ、っと見下ろされてなまえはどうしたものかと視線を彷徨わせた。人が多い。今の黒野の言葉だって、聞こえていた人は絶対に居る。
黒野の右腕を手に取って言われた通りに包帯を締め直し、その上からつ、と指で文字を書く。すきです。「これで勘弁してください」黒野は左手でばし、と自らの眼の辺りを叩いていた。その後、手をはずした黒野ははあ、とため息を吐く。

「……俺たちは何故、これから離れ離れで仕事をしなければならないんだろうか」

とほ、と遠くを見ながら言う黒野に、なまえは「まあまあ」と笑っている。顔が赤いのは、恥ずかしいことをしたという自覚があるからだ。これでさえ、後ろを通ったりちらちらとこちらをみている社員の何人かに「いちゃつきやがって」と思われてはいるのだろう。できる限り気にしないように黒野だけを視界に入れていると、テーブルに乗せている左腕、シャツの袖が緩んでいるのを発見した。

「え、あれ。黒野さん。今日は本当にどうしたんですか」
「今度はなにを見つけてくれたんだ」
「左手のところ、ボタン、取れかかってますよ」
「ああ」
「まだ時間ありますし、付け直します? 私裁縫道具持ってますよ。ボタン付けるくらいなら」
「頼む」

返事は食い気味だった。

「じゃあ、持ってきますから、待っててくださ」
「いや、俺も行く。その方が時間がかからないだろう」
「え、あー、うーん」
「駄目か」
「え、いえいえ、駄目とかでは」
「なら行こう」

事務室に黒野を伴って戻ると、同僚たちが二度見をした。なまえは自分のデスクから小さい裁縫道具を取り出して、できる限り手早くボタンを付け直した。かっちりと固定されたボタンを眺めながら黒野が言う。

「今日は貰ってばかりだな」
「そんな大層なことでもないですよ」
「明日、必ず何か返そう。それとも今日、なにか欲しいものがあれば帰りにでも」
「いえいえ、お気になさらず」
「そうか……」
「そ、そんな残念そうにしなくても、本当に大丈夫ですからね……?」

新しく来た上司が「本当にあの黒野と仲がいいんだな」と驚いていた。既に何度かなまえと黒野が一緒にいるところを見ている同僚たちは何故か得意気であった。五月二十六日、黒野と付き合っているという事実は着々と灰島全土に広まりつつある。


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20200526

 

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