ひと月遅れのはじめまして(18)


黒野は当然のように家まで迎えに来て、早速なまえの手を握った。自然な流れで恋人繋ぎだった。少しの間緊張でお互いに黙り込んでいたが、あまりにも長閑なものだから二人の間に流れる空気もそのようになった。いつもよりいくらか甘いが、大体はいつも通りだ。こんな調子だと、今から行く場所がどこかわからなくなる。黒野の様子を盗み見ると、とてもじゃあないが彼も今から仕事をしにいくようには見えない。とても上機嫌だ。「ん?」なまえの視線に気付いて黒野がなまえと目を合わせる。なまえは「なんでもないです」と言った。
そうか、と握る手に力を込められる。
ざらりとした手触りなのは、包帯だからだ。五月も末ともなればかなりあたたかいのだけれど、これ(手を握っていることは棚上げにして)は、暑くはないのだろうか。なまえは灰病についてよく知っている訳ではないが、基礎知識くらいは調べたし、黒野の他にも灰病の知り合いはいる。その人のことを思い出し黒野と比べると、なんだか灰病というのはそう重い病ではないような気がしてくる。

「……黒野さんって」
「どうした」
「この手、平気なんですか? 普通に能力使って仕事してるみたいですけど」
「……俺を心配してくれるのか」
「私、灰病の知り合いがいますけど、発火能力は満足に使えないし、たまに体の調子も悪そうにしてましたよ。黒野さんは大丈夫なんですか?」
「キスしてもいいか」
「よくないですよ、道の真ん中ですよ」
「そうか……」

大丈夫なんですか。ともう一度聞くと大丈夫だ、と黒野は答えた。黒野にとっては自分が病気であろうとなかろうと関係がないのかもしれない。しかし、そこまで無頓着にされても心配で、なまえは歩く邪魔にならない程度に黒野の腕に擦り寄った。

「なまえ」
「はい」
「好きだ」

彼にとって一番大切なものはなんなのかと考えたことがある。会社なのか、自分の趣味なのか、それとも自分自身なのか。なまえにはどれが大切なのかわからなかった。どれもこれも、しかたがないと思えたら、彼は簡単に投げ出してしまいそうだった。興味のないものは興味がないし、必要なものは嫌でも用意する。ある意味では誰よりも人間らしさに忠実な黒野が、なまえに向ける好意はどうにも疑いようがなく、向けられる側は大変に心地よかった。「……はい。私も好きです」彼を相手に羞恥心は持っているだけ無駄である。
こんな人が恋人なのか。となまえは手を繋いだまま行きつけのパン屋に入る。黒野ももうなにも言わずについてくるが、レジに立つ女性店員は二人の変化を目ざとく見つけてにっこりと微笑んだ。そうだその通り。今彼女が考えたことは恐らく全て正解である。なまえもこっそり微笑み返した。

「今日の昼はどうするんだ」
「メロンパンですねえ」

ははは、と緩く笑いながらトレイにメロンパンを乗せると、黒野はぴたりと動きを止めて、複雑そうに眼を細める。こぼれ出る声も不満そうだ。

「……メロンパンなのか」
「? はい」

黒野にこういう反応をされたのははじめてだった。もう随分長く昼は毎回メロンパンを食べている姿を見ているはずなのに、今更? また栄養の偏りでも気になっているのだろうか。

「えっと、ビタミン剤も飲んでますよ。夜もちゃんと野菜とか食べてますし」
「いや……」

黒野は何か言いたそうにぎゅっと口を閉じた。そして無言のまま自分用(兼なまえに食べさせる用)の総菜パンをトレイに乗せる。

「黒野さん?」
「なんでもない。気にするな」

なまえがメロンパンを食べることなどいつものことなのに、今日はどうしてか、それが不服な様子だった。流石の黒野も、毎日欠かさず呪われたように繰り返しメロンパンを食べる姿が気持ち悪くなったのだろうか。

『そんな理由で?』

耳障りな言葉が肉声と一緒に蘇ってきて思考から追い払う。ちらりと黒野の盗み見る。なんでもない、という顔ではないが、追及するのは怖くてやめた。また明日も同じ反応をされるようなら聞いてみよう。不快な思いをさせたいわけではない。なまえは明日また、と心の中で繰り返す。
五月二十四日、恋人としての一日はほぼ何事もなく終わった。


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20200525あと六話で終わります。三十一日まで毎日更新です。

 

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