キスの日A/黒野


「ちくしょう! お前はそれでいいのか! 本当か!? こんなのでいいっていうのか! やめろ! どうしてそこで諦めるんだ!」
「諦めていないからこうしているんだ。イイ眺めだな」
「どうしていい年して縄で縛られて天井から吊られなきゃいけないんだ! なんだこの仕打ちは! 私が一体なにをしたっていうんだ!」
「大丈夫だ。痛くはしない」
「もう痛いんですけど!?」

なまえはこの如何にも新しい、太くて丈夫な綱が自分の体重とこの状況に耐えかねて切れてくれることを期待するしかない。幼馴染の優一郎黒野は完全に錯乱していて精神がおかしいし、黒野の家に連れて来られた時点で他の助けは期待できない。この男には友達が少ない。たまたま来訪する客などあるわけがない。最後に期待をかけるとしたら自分の力だが、縛られて吊るされていては地面を蹴って逃げることもできない。どうにか暴れてみるけれど、ロープがつー、と右方向にゆっくり回ってどこからどう見ても大間抜けにしか見えない。なまえは仕方がないから黒野を睨む。幼馴染をこんな目に遭わせた黒野にはいずれ天罰が下るに違いない。ラートム。そして今回はこうなってしまった以上彼の要求を呑むしかない。彼の主張は単純明快であった。

「大人しく俺にキスされてくれ。キスの日だからな」
「死んでしまえ」
「そんなにひどいことを言われると俺でも傷付くんだが」
「幼馴染に縄で縛られて吊るされた人間が傷付かないと思って言ってる?」
「俺はなまえには死んでほしくない」

状況を整理する。
なまえは黒野に拘束され吊るされている。
黒野は本日五月二十三日がキスの日である、というそれだけの理由で幼馴染にキスを強要している。
なまえと黒野は恋人関係にはない。
なまえと黒野は恋人関係ではない。
なまえと黒野は恋人であったことすらない。

「とんでもない茶番だ! やってられない!」
「そんなに嫌がることはないだろう」
「嫌だね。嫌がるね」
「知っていると思うが嫌がられても俺は興奮するだけだぞ」
「最悪だよこの男は本当に……」
「ありがとう」
「褒めてない」

黒野はくるくると回るなまえを掴んでぐっと顔を寄せる。

「よし。いいな?」
「よくない。したら怒る」
「大丈夫だ。お前は俺に本気で怒れない」
「一か月は口聞かないし露骨に避ける」
「やめてくれ」
「やめてほしいのはこっちなんですけど」

なまえの冷たい声と態度に、黒野はきゅ、と唇を引き結んで、いくらか譲ることにしたようだ。

「わかった。どこならいいんだ」
「どこもよくない」
「唇」
「絶対駄目。したら絶交するかもしれない」
「……頬」
「嫌だ」
「瞼」
「駄目」
「喉」
「噛まれそうで怖い」
「……どこも駄目じゃないか」
「髪とかならいい」
「今、いいって言ったか?」

言った。となまえは黒野を睨むように見つめて、ロープの食い込む体を捩った。普通に話しをしたり暴れたりしていたが、跡がしばらく残るだろう。黒野の手前あまり弱いところは見せないが、痛いのはつらい。

「その前に降ろして」
「逃げないか?」
「逃げない」

黒野は言われた通りにロープを焼き切り、なまえを地面に降ろすと、大切に大切になまえの髪に唇を寄せた。ちゅ、ちゅ、と何度か音を立ててなんならいつもより深く息を吸い込んでいる気がする。頭の匂いなんて嗅がれて嬉しい人間はいない。なまえは眉間に皺を寄せるが、黒野は。

「……」
「はあ」

黒野は、キスの日に、なまえ(の髪)にキスをしたというそれだけの事実を胸に、じっと幸せそうにしている。

「はーあ……」

絆されるのも時間の問題かもしれない、そんなことを考えてしまって、なまえはさらに大きなため息を吐いた。


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20200523幼馴染黒野くん(概念)

 

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