キスの日@/黒野


正式に恋人になったその日、なまえは黒野の家から出してもらえないでいた。表情には出ていないが雰囲気が完全に落ち込んでいる。どうにか部屋から玄関に出てくるが、そこからまったく外に出られる気がしない。黒野は、強く強くなまえのスーツの端を掴んでいた。

「本当に帰るんだな」
「帰りますよ……」
「そうか。気を付けて帰ってくれ」
「手が離れてないですよ」
「そうだな」
「離して貰えないんですかね……?」

なまえがじっと黒野を見つめると、黒野もなまえを見つめ返す。

「……」
「……」

やや掴む力が緩んだのを感じて外に出ようとするが、またぐっと引っ張られて失敗した。なまえが黒野に力や瞬発力で勝つのは不可能であった。

「今日は」
「はい」
「キスの日らしい」
「へえ……」
「これでどうだ?」

これとはどれで、どうとはなんなのか。しかしなまえは、黒野の考えそうなことにいくつか心当たりがある。今日はキスの日。これでどうだ、は、きっと。

「私が黒野さんにキスしたらいいってことですか?」
「そうだ。よくわかったな」
「わかりますよ」
「流石は俺の恋人だ」

俺のことをよく見ているんだな、と恥ずかしいことを言っている。こちらが恥ずかしがっても仕方がないのでなまえも「見ていますよ」と無理矢理に胸を張る。

「じゃあ、キスしますから屈んで下さい」
「ああ」

黒野はなまえのお願いを聞かずに、なまえの体をぐっと持ち上げた。右腕に乗せて「いいぞ」となまえからのキスを待っている。なまえは見上げていたはずの黒野を見下ろしているし、地面に着いていたはずの足はぷらん、と宙に浮いていた。体は安定しているが、少し怖くて黒野の肩に両手を置く。

「……なんで、持ち上げるんですか?」
「好きなところにしてくれ」
「なんで持ち上げるんですか」
「目を瞑った隙に逃げられたらどうする?」
「そんなことしませんよ」
「わからないだろう」
「そこはわかってくださいよ」

はあ、と息を吐く。
なまえだって子供ではない。

「私は」

キスくらいどうということもないのだ。しかも、今日なまえと黒野は恋人になっている。キスの日というイベントに乗っかってキスをするのは如何にも普通だ。逃げる必要などない。

「く、ろのさんの、恋人、なんですから」

言ってから、これもとんでもなく恥ずかしいことだと気付いて、続く言葉は小さく細くなる「キスの一つくらい、別に、出し惜しみしたりしません、よ」最後の方は自分でもよく聞こえなかったが、黒野はしっかり聞いていた。なまえをそっと地面に降ろして、自分は廊下にゆっくり倒れた。「く、黒野さんっ!?」

「好きにしてくれ」

何故狭い廊下で仰向けに寝転がる男にキスをしなければならなくなったのか。なまえは深くは考えずに、空いたスペースを這うように進み、黒野の厚めの前髪にキスをした。ちゅ、と音を立てて、体を離す。「じゃあ、帰りますね」立ち上がると、また黒野がスーツの端を掴む。

「嫌だ。帰らないでくれ」
「また、月曜日に」
「それは何時間後だ?」
「三十時間後くらいですかね」
「長い。無理だ。殺す気か?」
「死んだりしません」
「もう一時間居てくれ」
「それ一時間前にも聞きましたよ」

なまえが折れてくれないとわかると、黒野はとんでもなくゆっくり、そしてかなり遠回りをしながらなまえを家まで送って行った。なまえの家の前でも同じようなやりとりが三十分程あったことは、言うまでもない。


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20200523;キスの日アンケートありがとうございました!

 

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