ひと月遅れのはじめまして(16)


上司の姿は見当たらなかった。何の連絡もないものだから、ただの休みなのか、辞めたのか、左遷されたのかはわからない。月曜日にはわかっているのだろうと思う。なんにせよ、今日会わなくてもいいのは有難かった。午前の業務を淡々とこなしていると、女性の同僚が「今日はあの人いないからやりやすい」と言っているのを聞いた。視線が気持ち悪かった、とも。そういう人だったらしい。

「金曜日だな」

メロンパンを食べ終えて、もうすっかり馴染んでいる黒野の隣、なまえは心置きなく気を抜いている。今日の黒野はどこか口数が少なかったが、意を決したように彼は言った。この流れは一週間前にも経験している。なまえは大袈裟に表情を引き締めた後こくりと頷いた。

「金曜日ですね」

友人で土曜日遊びに行く約束だったから、次はなんだろうと考えながら言葉を待つ。黒野は「飲みに行かないか」と言った。他の人間にとってどうかは知らないが、異性と二人で飲みに行く、というのはなまえにとってなかなかに好感度が必要な話だった。それこそ、相手を親友と呼べるくらいの好感度だ。「いいですねえ」黒野も大概視線で刺してくるけれど、気持ちが悪いと思ったことはない。

「行きたいです」
「よし。食べたいものはあるか?」
「今は特にありませんね。黒野さんのおすすめがあれば是非そこで」
「わかった。任せろ」

そのおすすめの場所が、過去の誰かとの使いまわしだったら嫌だなあ。



なまえは緊張半分楽しみ半分という気持ちで黒野に連れられて居酒屋へと入った。案内されたのは壁の薄い個室で、隣か、向かいか、大きな宴会をしているようだ。ずっと声が聞こえている。外装も内装もどこかかわいい感じで、渡されたメニューも、お酒のラインナップも女性ウケするものが多い印象だ。黒野の行きつけ、にしてはかわいすぎるという気がしたが、とりあえず店の看板メニューであるしゃぶしゃぶを主軸にいろいろと注文した。ちらりと見たデザート欄にメロンパンアイスなるものがあって早速気になっている。
お通しはこれまたかわいい、豆腐のサラダだった。鮮やかで、イクラなんかが散らしてある。「乾杯」と「いただきます」を早々に済ませて箸を割る。

「美味しっ、なんですかこれ。お通しがこれだけ美味しいと期待が高まりますねえ」

なまえが言うが、黒野は全く違うことを考えていたらしく、そっと箸を置いてなまえの様子をじっと見つめる。

「なまえ」
「はい?」
「お前は、いつも通りだな」

そのいつも通り、がどこからどこまでに及んだ言葉なのかは判断がつかなかった。創作の梅酒カクテルを呷って、できるだけ自然に振舞う。今のところは成功しているようだった。

「そうですか?」
「そう見える」
「いやあ、実は緊張していますよ」

黒野はなまえの言う「緊張している」を何か複雑な意味に捉えたようだ。ぴく、と肩を震わせて、昨日暴れた時にできた、手首の痣を黒野の指先がなぞった。なまえはそういうつもりで言った訳ではなかったのだが、訂正が必要だとは思わない。正確には、まだ訂正できない。

「俺は、親友をやめる気はないが」
「ああ、はい」
「やめる気はない」
「はい。私もですよ」

へらりと笑う。料理も酒も店構えさえなまえの好みで、際限なく気分が上がっていく。昨日のことなど思い出すのが困難なほどだ。

「これ、美味しそうですねえ」
「好きなのを頼んでくれ。俺の奢りだ」
「いやいや。ちゃんと払います。親友ですからね。いつも奢られてばかりというのも対等じゃない気がしませんか」
「やっぱり、いつも通りだ」
「いやあ、いつもに比べたら大分ペース早い気がしますよ、この梅酒信じられないくらいおいしいですね? 黒野さんも飲みます?」
「ああ」

グラスを渡すと、黒野は(かなり注意深く観察していないとわからないが)恐る恐る口を付ける。すぐになまえにグラスを返して、今度は自分のをなまえに渡す。「これもいいぞ」「ありがとうございます」なまえと黒野が親友になって、今日は五日目の夜だ。

「ふふ」
「……楽しそうだな」
「最近はずっと楽しいですよ」
「あんな目にあったのにか?」
「昨日の事ですか? あれはなんというか、なんでしょうね。黒野さんが来てくれるような気がしてました。ある程度は怖かったですけどね。あ、そうだ。改めまして、助けて頂いてありがとうございました。そう言えば、言ってなかったですよね」

ころころと、いつもより多目に言葉が滑っていくのを感じる。ここまで酔いが回ると黒野の方がずっといつも通りだ。

「弱い奴の相手は、俺に任せておけばいい」
「あはは。そうします」

黒野は納得した様子ではなかったけれど、なまえがあまりに楽しそうにしているせいだろう。この場ではもう昨日のことは聞かないことにしたようだ。なまえはと言えば、ずっとへらへらと笑っている。自分でも上機嫌すぎる自覚はあったが、楽しいし、嬉しいのだから仕方がない。
だから、だろう。つい、自分の許容量を超えて飲み過ぎた。
頭痛だとか吐き気だとかはないが、一しきり飲み食いし終わった頃にはとんでもない睡魔に襲われていた。

「デザート食べるか?」
「いえ、だいじょうぶ、です。めっちゃくちゃ眠い……」
「今寝たら、俺の家に連れて帰るぞ」
「ああ、それ、は」

黒野は、だから意識のある内に店を出ようというようなことを言った。しかし、なまえはそれを途中で遮る。

「それでも、いいですよ」

自分で自分が何を言っているのかわからないが、しかし、はじめから、こうなることを望んでいたような気がした。

「私、黒野さんのこと、好きですから」

満足だった。余計なことは考えられず、黒野にもたれかかった。
五月二十二日、なまえに意識はなかったが、黒野は宣言通りに、自分の家になまえを抱えて帰った。


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20200522

 

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