ひと月遅れのはじめまして(14)


「おはようございます」「こんにちは」「おやすみなさい」を全部言っていることに気付いた。なまえから会いに行くことはないので、全部黒野がなまえの前にやってくるから言う。「こんにちは」とは、いつも食堂で言うけれど、今日はなまえの働く事務室で言うことになった。がちゃりと扉が開くと、事務室の音が一瞬すべて止んだ。何事かと顔をあげると、なまえの隣に二日前に彼女の親友になった男が立っていた。「こんにちは」

「こんにちは。真面目に仕事をしているな」
「上司ですか」
「いいや、親友だ」

雑談をしに来た、という風ではない(なんとなくだが、彼は中身のない雑談をする、ということが苦手なのではないかと思っている)。たまたま隣の席の同僚が休みであったから、黒野は勝手に椅子を引き寄せて隣に座る。
ごと、とどこかの自動販売機で買って来たらしい、アイスティーがなまえのデスクの上に置かれた。黒野はこれを、なまえにくれるつもりのようだ。

「実は」
「はい」
「ペンを借りたくてな」
「ペン」
「ああ。予備はあるか?」

なまえと黒野以外は仕事に戻ったフリをしているが、ちらちらと視線が刺さるし、耳もこちらに傾けられているのがわかる。だというのにこの人はまたかわいいことを言って、となまえは自分の筆箱から予備のペンを二本取り出す。買ったばかりだ。

「まだ新しいな」
「最近買ったんです。どうにもここ数日よくものがなくなるから」
「そうか」
「そうなんです」

黒野は無言で私が右手に握っていた使い古されたボールペンを取り上げ、新品の予備を一本私の右手に握らせた。「なにしてるんですか?」「交渉だ」黒野は微かに目を細めて満足そうに笑った。あまり表情が動かないように見えるが、存外素直な人である。その表情が少しでも動けば、感情を読むのは難しくない。機嫌が悪い時に無理に笑うことはしない人である。

「いいか?」

こちらを持って行ってもいいか、と聞かれている。

「いいですよ」
「大事じゃないのか?」
「長く使っているだけで、そっちがいいなら持って行って下さって構いません」
「ああ。こっちがいい」

黒野が椅子から立ち上がった。もう戻るのだろう。なまえはデスクに置かれたアイスティーの、ボトルについた水滴を指で拭いながら言う。

「ありがとうございます、これ」
「気にするな。前払いだ」
「黒野さんも、気にしないで下さいよ。ボールペンくらいでわざわざお礼持ってくることないですよ」
「俺は何も気にしていない」

すっぱりと言い切る黒野に、なまえはひらりと手を振った。

「またお昼に」

朝、一緒にパン屋にも行ったから知っているくせに、黒野はまるで知らないふりをして「そうだな。今日は何を食べるんだ」となまえに聞いた。なまえもこの会話が不自然にならないようにさらりと答える。

「メロンパンです」
「ふ」

作り出した当然の会話は、自然すぎて不自然だった。
黒野が、堪らなく面白いと言った様子で緩むように笑ったから、事務室は黒野が来た瞬間とは違う理由で静まり返った。流石の黒野も気になったのか「ここに居る奴らは静かだな」と周囲をひとしきり見渡した。
五月二十日、よほど今日の黒野はなまえに会いたかったのか、午後は飴を持ってやってきた。


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20200520

 

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