サンプルB相模屋紺炉


一、家の恨みと大雨警報

戸の前に立つと、話し声が聞こえていた。
誰か先客がいるのかもしれない。出直すか、と紺炉は一度手に持っている風呂敷を見下ろした。中身は、昨日の夜から仕込みをした弁当だった。
痛んでもいけない、弁当を渡すだけなら来客中でも邪魔にならないだろう。結局、戸の前で張り付いた足は彼女の顔を今すぐに見たいと言う欲求に忠実で動かず、入ると決めたらすんなりと一歩踏み出すことができた。
戸を数度叩いて(いるのはわかっているが)「いるかい?」と声をかける。数秒待つと、静かな声で「ああ、いますよ」と返って来る。
「よう」
 がら、と戸を開けると、所狭しと並べられた絵画達の奥に、彼女が一人で座っていた。おや。と店を見回すが、他の客の姿はない。
「……誰か、居なかったか?」
「もう帰りましたよ」
 紺炉はあまり深くは聞かずに、彼女の隣に座る。絵が並べられた広い土間を越えるとそのまま囲炉裏のある部屋に入れる。彼女は大抵、その部屋の手前の床に座布団を敷いて座っている。店が閉じている時は裏から入ると、彼女の作業場がある。一応二階建てになっているが、二階は物置と寝室があるだけなのだという。最も、絵を描くことに熱中しているとそのまま作業場で寝ているから、ほとんど使わないそうだ。
 一階には画廊になっている土間と、奥の一部屋、それから簡易的な台所と風呂、それから彼女の作業場、といった具合になっている。
 紺炉は一応どの部屋にも出入りしたことがあるのだが、どうしてか、彼女の家そのものが、来るたびに印象が変わるという気がして、とても不思議だった。
「こんにちは、相模屋さん」
「おう、丁度一週間ぶりだな」
「お茶でも淹れましょうか」
「ああ、その前に、お前さん昼は食ったか? まだならほれ、こいつを食ってくれ」
「また差し入れ持ってきて下さったんですか? 私はなにも返せませんよ」
「おいおい。そんな風に見えるのか? 俺はただ好きで持ってきてるだけだぜ。何せ、お前さんのファンだからな」
「ただのファンはこんな風に通い妻みたいになったりしませんよ」
「もしかして、昼飯は済んじまってるか?」
「いえ。とてもありがたいです。ありがたく、頂きます」
「おう。食ってくれ」
 弁当を広げると、静かな彼女の瞳がきらきらと光り「お茶を淹れてきます」と席を立った。足音が遠くなったのを確認して、紺炉は改めて部屋を見る。やはり、彼女以外に誰も居ない。
 しかし、確実に、声は二つしていた。
 彼女の声と、まくしたてるように話す女の声の二つだ。
 お茶を運んできた彼女に、それとなく聞いてみる。
「さっきここに居たのは、人間かい?」
「いいえ。人間だったひとですよ」
 さらり、と言われて踏み込むべきか迷う。こういう突っ込んだ話をするくらいに親しくなった日、彼女から「聞かれれば余程の事がない限りは答えますが、知る、ということは近付く、ということですよ」と忠告を受けている。具体的に何が起こる、とも言われなかったが、言われなかったのでなく、彼女にすら何が起こるのかわからなかったのだろう。
 彼女はのらりくらりと笑ってはいるが、かなり危ない目にも遭っているようで、紺炉としては気が気ではない。慣れているから、とも聞いているが、慣れているからと言っても、相手は未知のものなのである。「ふふ」彼女は紺炉が作って来た出汁巻き卵を頬張りながら言う。
「心配して下さらなくても、今日のは大したことはありません。というか、彼女は定期的にやってきますね」
「て、定期的に?」
「ええ。で、旦那さんの愚痴を言って帰って行きます」
「……実は、戸の外まで声が聞こえてたんだが」
「ああ。そうでしたか」
「邪魔したか?」
「いえ。あのひともお客さんが来たら帰ると決めているようなので。正直助かりました。フルで聞くと半日コースなんですよね」
 今日は一時間程度で済んでよかった。それにしても、よくもまあそんなに旦那さんの愚痴があるものですねえ。彼女は極めて呑気である。紺炉は笑うべきか心配するべきかいつもわからない。せっせと胃袋を掴むために週に一度は必ず弁当か、菓子を持参して会いに来ている。が、わからない。
 僅かでも彼女自身のことを理解できるようになりたいと通っているわけだが、気持ちが大きくなるばかりで、知れば知る程わからなくなるようだった。
 紺炉は自分の気持ちについて、彼女にはっきりと言ったことはないが、彼女は鋭く、ある程度は察している。「私に近付いたことで貴方が何か危ない目にあったとしても、私はきっと助けられませんよ」と時々釘を刺していた。
 彼女の言う通りに、彼女と会う前や会った後には、不思議なことがよく起こる。今日も実は、ここへ来るまでの間におかしなことが一つあった。
 かなり古い着物を着た女が、浅草の町を走り回っていたのだ。
 何かを探しているようできょろきょろと顔と視線とを動かしながら、叫んでいる風なのに、最初、何を叫んでいるのかわからなかった。近くの奴が声をかけてもよさそうなのに、いつもと同じ街並みに人、その合間を走り回る女に、声をかける奴どころか、そちらを見る奴すらいなかった。
 明らかにこの世界の法則からは切り離された存在だった。
 彼女に「もしも、そうだと気付けたら、気付かれる前に気付かなかったことにして下さい」と言われていたのに、つい、じっと見てしまっていた。そんなことをしていたから。
 目が合った。
「あの、もし、」
 女は言う。
 あっと言う間に紺炉のすぐ目の前に立っていた。
「子供を見ませんでしたか?」
 男とも女とも、どんな子供とも、どういう特徴があるとも言わない。「子供、子供が」と繰り返している。ぞわりと肌が粟立って、嫌悪感が湧き上がる。彼女はこういう時「間違っても話し込んではいけない」と言った。この女の言う子供に心当たりはない。
「見てねェな」
 返事を聞くと、女は紺炉から顔を逸らし、また「子供、子供」と走り始めた。誰も女の方は見ない。
 この話を、彼女にしようか迷うが、なんでもかんでも彼女に頼るのも良くはないかと飲み込んだ。何も起こっていないし、明日になれば忘れてしまうだろう。やや埃っぽくはあったが、見た目は普通の人間の女だった。
「今日はこの後どうするんです?」
 紺炉を呼び戻すようにそう聞いた彼女は、お茶を啜っている。今日は割合に暇なのかもしれない。天気もいいし、通っていく風はやわらかい。
「そうだな。もう少しここに居たいところだが、邪魔になっても悪いしな。散歩でもしながら詰所に帰ることにするぜ」
「ああ。散歩ですか。いいですねえ」
「おっ、でえとするかい?」
「そうしましょうか。少し待っていて下さい」
 年甲斐もなく、どきりと胸が弾む。
 気持ちを確かめ合ったことはないが、彼女も紺炉のことを嫌ってはいないことくらいわかっている。確実なことが一つもない関係にどうにも年を感じるが、今はこの距離感が心地よかった。はじめて会った時はとんでもなく遠いと思ったものだが、努力の甲斐あってか、随分と近くなってきた。
 裏口に行ったらしい彼女は、番傘を二本持って来た。
「……どっかに届けるのかい?」
「いいえ。傘の絵付けはやってません」
 これは彼女の性質だった。あまり余計なことをべらべら喋ってしまわないようにと注意しているのか、あるいはただの癖なのか。勝手に詳細を話してくれることはまずない。興味があれば、もしくは聞いても良さそうな内容であればニ、三と質問を重ねていく。
「行きましょう」
 傘を持って行くのには、必ず理由があるのだろう。
 けれど、晴天だ。紺炉がどれだけ空を睨み付けても、雨など降るとは思えなかった。



 彼女にはじめて会った時、彼女と紺炉、正確には第七特殊消防隊を結び付けたのはヒカゲとヒナタであった。
「こんにちは」
 彼女はヒカゲとヒナタに手を引かれてやって来た。
 はじめて見る女を前に、誰だ、と聞く間もなく、ヒカゲとヒナタが「わかは?」「わかどこ行った?」と聞いたのである。今の紅丸とこの女を引き合わせるのか、と紺炉はぎょっとして、その前に説明を、と口を開こうとしたところで、詰所の奥から紅丸がのそりと起き出して来た。
 その時、紅丸は一月程、毎日不自然なほどに機嫌が悪く、常に何かに怒っていた。とは言え、自分でも今の状態が異常であるとわかるらしく、苛立つ自分にすら苛立っているという有様であった。一過性のものだろうとおとなしくしていたのだが、一月経っても治まる様子がない。
 医者に見せても首を傾げているし、環境が変わったということもない。本人も周囲もわけがわからないと嘆いていた時に、ヒカゲとヒナタが彼女を連れて来たのだ。
「あ?」
 紅丸は殺気さえ籠った声で彼女を睨み付ける。しかし、その殺気が彼女に届いている感じはない。彼女を中心に、気が半分に割れているようだ。ぶわ、と彼女から風が吹いた気がしたのをはっきり覚えている。
「どうして怒っているんですか?」
「……」
 紅丸は、じいっと彼女の目を見詰めていた。何も答えない。紺炉や若い衆が何度もした質問だった答えはいつも「うるせェ」だったのだが、静かなものだ、彼女は紅丸とは話していない、紺炉はそう思った。
 では何と話しをしているのか、そこまではわからない。
 ただ、彼女の視線だけが紅丸から、そっと道の方へ移動した。
 ヒカゲヒナタの頭を撫でながら、彼女は笑った。「もう大丈夫ですよ」と、それから紺炉に頭を下げて、何かについていくみたいに歩いて行ってしまったのだ。紅丸に声を掛けると「……腹減ったな」といつも通りにぼやいていた。ヒカゲとヒナタは元に戻ったと喜んで、紺炉は双子に彼女の素性を聞いてまた驚くことになる。
 五年程前、美術品になど特に興味もなかった自分が一枚だけ買った絵画。安くはなかったから持っているのはその一枚だが、それを描いた人間というのが彼女だったのだ。浅草に居ることは知っていたから、元々話をしてみたいと思っていた。
 話をしたいと思ってはいたが、当時、自警団を率いていたとは言えただのファンがいきなり画廊へ行ってもいいものかと悩み、開き直ってしまう勢いも得られずにいたわけだ。その矢先の出来事である。これ幸いとあの時の礼と称して会いに行ったのがはじまりだ。
 紅丸も、時々派手に博打に負けた時など、第七に居ることに決まりが悪いとここで昼寝をしていることもあるようだった。
 あれは何をしたのか、としばらくしてから聞いてみると、
「何かしたのは新門さんの方ですよ」
「……何をしたんだ?」
「たぶん、酔って、何を思ったか木を殴り倒しましたね」
「自業自得じゃねェか」
「まあ、それは、どうでしょうね。今回はそうかもしれませんが」
「それ、紅には?」
「遠回しに。酔っ払って暴れるのはよくない、とだけ」
「悪いなあ……」
「いいえ。なんとかなってよかったです」
 どうやったんだ、と聞いてみたかったが、壁に大きな木の絵がかかっているのを見て聞くのをやめた。絵の中、木の根元に座っている男と目が合ったような気がしたからだった。
 だが、嫌な感じはしなかった。
 紺炉と彼女はそのようにして出会い、彼女は、紺炉の下心も含めて店に上がり込むことを許していた。
 あまり改まらず「俺の事をどう思っているか」と聞いてみたら、さらりと答えてくれそうな気配はある。けれど、彼女のことがよくわからないからと言って、そうやって絡めとろうとするのはいかにもずるい。柄にもないとわかっていながら、今もまだ彼女のファンであり続けているのだった。
「どこかで甘いモンでも食うかい?」
「いえいえ。今日は相模屋さんのお弁当まで頂いているんです。この上外食なんて贅沢ですよ」
「俺の飯なんて大したこたァねえだろ」
「私は芸術家仲間が何人かいますが、週に一度お弁当やお菓子を届けてくれるイケメンがいるって話は聞いたことがありません。ご自分の価値をちゃんと評価された方がいい」
「俺は別に、毎日だって来てやるけどな」
「そんな風に言ってくれる男性というのも、やはり貴重ですよ」
 彼女は涼やかに笑っているばかりで、どんな言葉を投げても揺れてくれない。少しくらい焦ったり照れたりして欲しいものだが、自分の方が貴重だとかイケメンだとか言われて照れてしまう。
「これ、どうぞ」
 不意に、傘を一本手渡された。
 受け取りながら、どうしたら良いのだろうとまじまじと傘を見てしまう。
「……降ってないが」
「使っても使わなくても、次お会いした時にでも返して下さればいいですから」
 付き合いが浅い頃ならば「そもそも降らねえだろ」と言ったかもしれない。だが、それなりに付き合ってみると、とてもじゃあないが空が晴れているからと言ってそんな風に否定する気にはなれなかった。
「帰るのか?」
「見物してから、帰ります。今日もお弁当、ありがとうございました」
 彼女はぺこりと頭を下げて、人混みの中に消えて行った。小柄な彼女は簡単に人に紛れ込んでしまう。うっかり、何故雨が降ると思ったのか聞くのを忘れたし、何を見物するというのだろうか。
 来週、傘を返す時にでも聞いてみることにしよう。
「あれっ?」
 誰かが言った。
 手を皿のようにして、空を見上げている。
 晴れている。
 しかし、水が降って来る。
「変な雨だなあァ」
 皆軒先に隠れたり、家路を急いだり慌て始める。紺炉は至って冷静に傘を差した。
 それなりに雨脚は強くなったが、十分ほどで通り過ぎて行った。
 彼女には、今頃何が見えているのだろうか。
 いつか、自分には見えなくても、彼女の隣に誘って貰えるような存在になりたいものだ。


 

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