サンプルA優一郎黒野


優一郎黒野『死神からのファンレター』

 水曜日の夜はよく眠れた。
 出社するのも憂鬱である週の真ん中ではあるものの、毎週水曜日の夜、自宅の近くの公園で路上ライブをする少女がいた。その少女の歌を聴くのが楽しみであり、その歌を聴いた夜は不思議とぐっすり眠れるのであった。
 一年くらいは、彼女は毎週水曜日、大体決まった時間に黒いハードケースのギターを背負って現れる。必要最低限の機材だけではじまるライブは、一年も続けるとそれなりに人も集まっており、固定のファンも何人かいた。
 黒野もまたその内の一人で、飽きもせず(そのパフォーマンスには飽きさせない工夫がなされていたわけだが)水曜日、決まった時間に足を運んでいた。その日も黒野が公園に到着する頃には何人かの人が彼女の到来を待ちわびていて、冬の夜の寒さに抵抗する為、手をすり合わせていたのである。
 白い息を吐きながら、そこで三十分ほど待っただろうか。いつもならばとっくに彼女は現れていて、到着するなり適当な雑談をしながら機材の用意をしている時間だ。一時間程で待つ人間は三人程度になり、二時間後には黒野一人になった。
 寒さが厳しい。風邪を引いて歌えない、ということもあるだろう。事故にあって怪我をすることもありえるし、焔ビトになった、となれば歌声どころか灰すら残らない。そこまで考えると、冷気が一層体に沁みた。
 帰るか。
 これ以上居ても仕方がないだろう。また来週寄ってみればいい。三十分経つ毎にそう思いはするのだが、なかなか足が動かなかった。理由は考えてみてもわからなかったから、大した理由はなかったのだろう。強いて言うのならば、どうしても、どうしても彼女の歌が聞きたかった、と、そういうことになる。
「ん?」
 公園の茂みが不自然に揺れるのを見つけて、そこに近付いた。猫か犬か、弱った野生動物だったら虐めてやろうと覗き込むと、一人の少女と目が合った。「ひっ」彼女は。
「……なにをしてるんだ。こんなところで」
「あ、あれ……、お兄さん、いつもこの公園に来てくれる人ですね」
「覚えてるのか」
「いや、お兄さん強烈だから……」
 言われている意味はよくわからない。ギターケースに札束を突っ込もうとしたり、重めのファンレターを書いたりしたことはあるが、それは、そんなに記憶に残るようなことではない。少女は茂みの中からギターケースを抱えて這い出して来た。
 服についた土や草を払いながら、きょろきょろと周りを確認して、長く細く息を吐き出す。何かを警戒しているような動きに、黒野も同じように周囲を見回す。彼女の脅威になりそうなものは近くにいないように思える。
 ギターを背負うと、腕のあたりを擦って暖を取っていた。改めて見ると、彼女はコートもマフラーも手袋もしていない。寒さに特別強いというわけでもないだろう。震えているし、顔色も悪い。
「なにかあったのか」
 黒野の言葉に彼女はびくりと震えて「あー……」と事情を話すのを数秒躊躇った。水晶玉のような目が黒野を見上げる。「どうした」「ああ、すいません」
「なんて言うんですかね。詐欺に遭った、というよりは、追剥のほうがイメージに近いかな、というところで。実際コートも時計も取られて、今、なんとか、商売道具だけは抱えて逃げて来たんですよねえ……」
「ひどいやつがいるな」
「本当に。口座とかカードとか、なんなら決まった家もないから現金全部取られると詰みなんですよね。気を付けてたんですが、やっぱり一日分の宿泊費くらいは肌身離さず持っておかないといけませんねえ。一晩凌げれば、一日かけてもう一晩凌ぐだけは稼げるので」
「なら、お前は今困っているんだな」
「そうなんですけど、お兄さん。なんだか嬉しそうですね」
「黒野だ」
「黒野さん。運が悪かったと思って、一晩助けてくれませんか」
「見くびるな。一生だって面倒見てやる」
「面白い冗談ですね」
 彼女は体を震わせながら、ははは、と笑った。笑った後に、盛大にくしゃみをしていて、ず、と鼻をすすっていた。風邪を引かせるわけにはいかない、と泥のついた手を取って、黒野は自分の家へと歩き出した。
 彼女は黙ってついて来ていた。



 カレーがある。が、歌を生業にするような人間に料理を振舞ったことがない。良いのだろうか、と考えていると、風呂から出て来た彼女がひょこりと隣に立った。
「カレーですか。黒野さん、料理ができるんですね」
 彼女が鍋の中を何かを探す様に覗き込む。良いとも駄目とも言わないから、多分大丈夫なのだろうと判断し、二人分を皿に盛る。スプーンと一緒に差し出すと、彼女は黒野とカレーとを見比べながら「食べてもいいんですか?」などと言う。
「? 駄目だったら渡すわけないだろう」
 言いながら、いや、彼女じゃなければ渡した上でお預けにするということもしたかもしれないと思う。だが、彼女は、ここ一年、毎週水曜日にはかかさず黒野に安眠を届けてくれた恩人である。ここぞとばかりに虐めようとは思わなかった。
 彼女はぺたりと座って「いただきます」と手を合わせた。
 黙々と食べ進め、米粒一つ残さず綺麗に食べ終えた彼女はぐっと水を一杯飲み干して「それで」と改まる。背筋を伸ばして、真っ直ぐ黒野を見る目は若干不安そうである。
「明日一日、外で営業したら、とりあえずもうこちらにお世話にならなくても良いくらいは稼げるはずです。ちょっと余裕ができるまで待ってもらったら、ちゃんと、お礼ができると思います。だから、いくらか稼いでくるまで、お礼は待って頂けませんか。もちろん、置いていただいてますから今日は、家事でもなんでも、やれとおっしゃるならやらせて頂きます」
「……今、なんでもと言ったか?」
 ぐ、と彼女は身構える。
 黒野にはいまいち、彼女が緊張している理由がわからなかった。いつもは、どれだけ人が集まっても堂々としているのに。懐事情というのは、こんなにも人間を変えてしまうのだろうか。
「はい。あのままじゃ、凍死していたかもしれませんし。命の恩人ですよ、黒野さんは」
「なら、一ついいか。いやその前に、別に出て行かなくてもいい。明日からもここに帰って来てくれ」
「いやそれは」
「俺は、お前の歌が聴きたい」
 よく目を丸くしているな、と黒野は彼女の目を見下ろす。くるり、と光が回って、彼女は絞り出すような声で確認した。
「……歌?」
「歌だ」
「歌、で、いいんですか……?」
「歌でいいとはどういうことだ。お前の歌がどれほどか、知らないわけじゃないだろう」
 広告なしであれだけ客を呼んでいたら天狗になってもよさそうなものだが、彼女は自分の歌の価値をわかっていないのだろうか。社長にどれだけ怒られようが、部長にどれだけこき使われようが、水曜日に、彼女の歌を聴いただけで嘘のように疲れが取れるのに。
 むっとした黒野を前に、彼女は目を逸らして頭を下げた。
「あー……、いや、黒野さん……、黒野さんってケースに札束捻じ込んで来たりファンレターが平気で百枚綴りだったりする人なので、やばい人だと思ってたんですが……、良い人だったんですね……、ごめんなさい、誤解してました……」
「それのどこがやばいんだ。むしろ、俺の方がこれからどこに振り込めばいいのか教えて欲しいくらいだが」
「いや、だから口座はないんですけど……」
「なら、現金だな」
 彼女はふ、と体全部から力を抜いて「黒野さんから現金なんて受け取れませんよ」と笑った。自分で使った食器と黒野の食器を慣れない手つきで洗って乾すと、しっかりと水分を拭きとってギターのチューニングをはじめたのだった。



 優一郎黒野は本当に彼女がこの部屋に居ることを有難がっているようだった。毎日機嫌も良いように思えて、彼女は、なんて幸運なんだろう、と自分や黒野、いるかわからないが神様に感謝した。
 拾って貰って一週間ほどが経過し、もう既に、また以前のようにふらふらと東京皇国を渡り歩くこともできそうだった。出て行くことももちろん考えたのだが、黒野があまりにも彼女に好意的である故に出て行く理由を見つけることが困難だった。
 黒野は彼女がどれだけお礼にとお金を出そうとしても受け取らないし、なんなら家事を手伝うのも嫌がっている。料理はあまり得意ではないので、掃除をしたり洗濯をしたりするのだがあまり良い顔はしない。「俺はもう充分宿代以上のものを貰っている」と言うのである。その言葉に甘えそうになる自分を必死に押さえて、空いている時間に家のことをやった。
 もう一週間程営業を続ければ、奪われた機材のいくつかは新調することができるだろう。これについても黒野は「いくら必要だ? いや、いい。これで必要なものを買えばいい」とすかさずカードを差し出し、彼女を絶句させていた。これも断ると「そうか」と残念そうであった。とんでもないファンに囲われている、という恐怖感は少し、本当に少しだけ感じるけれど、黒野に悪意の類は欠片もなさそうだった。
 好きに使え、と貸して貰った部屋には、何故か物があふれている。
 全て黒野が買って来たものだ。
 寝泊まりするならベッドはいる、部屋着に下着に、外に出るからコートと、冷やしてはいけないからマフラー手袋耳当て、何を買うべきかわからなかったのか、セーターやトレーナー、ブラウスなどが一通りそろっている。日に日にものは増えており、とてもじゃあないが出て行く時には大量に残していくことになりそうだった。元々ほとんど身一つで居た。
 黒野は今、少なくとも自分に対してはとても良い人だ。出て行く理由は特にない。それでも、出て行ったほうがいいだろう、と考えていた。一通りの機材を買い揃えたらまた、当てのない生活をする。一度帰る場所ができてしまうとその生活に戻るのはやや不安だったが、そういう生活ができなくなってしまうことも怖かった。
「邪魔じゃないのか?」
「えっ、なんですか?」
 今日も一曲、昨日できたばかりの曲を歌った。歌い終わると、黒野は彼女の前髪を一房摘まんで耳にかける。今のところなにもないが、距離がだんだん近くなっている。そうっと体を後ろに引くと、黒野の指先からぱらりと髪が落ちる。
「髪」
「ああ、髪は、そうですね、何度か切ってもらおうと思ったことはありますけど、なんだか勿体なくて。縛ってしまえば同じですし」
「服も、いつも簡単なものばかりだったな。俺が買って来たのは好みじゃなかったか」
「いやいや。そんなことは」
「明日、行くか」
「どこにです?」
「今の口振りだと自分に金はかけてこなかったんだろう。安心してくれ。俺が貢ぐ」
「いやあ、黒野さん……、黒野さんはいい人なんだか悪い人なんだかわかんないですけど、やっぱりやばい人だったって思いますよね……」
「ありがとう」
 褒めてはいない。が、掘り下げても良いことはないだろう。黙って従っておくことにした。こうして面と向かって話をするようになって一週間、こうなった彼が生半可な制止では止まってくれないことはもうわかっている。



 我ながら天才である、と優一郎黒野は満足気に頷いた。
 美容室にエステにブティックにと連れまわした結果、彼女は通行人が振り返るような少女へと変貌を遂げた。元々が良いのはわかっていたが、手を加えると華やかさが増す。化粧品も一式買うと、彼女は泣きそうになりながら「もう、もう勘弁してください」と黒野の腕を引いていた。泣かれると興奮するのでやめるが、次はアクセサリーだろうか、と考えている。イヤリングなら邪魔にならないだろう。
 無言でショーケースを見ていると、彼女はとんでもなくか弱い力で黒野を押す。
「黒野さん、極端だって言われませんか?」
「質が悪いとはよく言われるな」
「それは、どうなんですか」
「どうということもない。お前はどう思う?」
「え、うーん、黒野さん、やりすぎる人だな、とは」
「どのあたりがやりすぎなんだ。全てにおいて適当だと思うが」
「そ、そうですかね……。普通、ただの居候の小娘にこんなにお金かけませんよ」
「そのことか。そのことに関してはまだまだ足らないと思っている。適当には程遠い」
 同じような話は何度かした。何度しても彼女は最後、複雑そうな顔で俯いて、それから「出て行ったら全部は持って行けませんよ」とこれもまた何度も聞いたことを繰り返す。黒野も、全部を持って行ってもらおうとは最初から思っていない。どれか一つでも気に入ればいいと思って渡しているので、何の問題もなかった。正直な話、手放す気はない。
「昼はどうする? どこかで食べるか? 何が食べたい? なんでもいいぞ」
「いえ、いえ、いえ本当に黒野さん、やりすぎなんですって、黒野さんの好きにして下さいよ」
「なら、そうだな。鰻でも食うか」
「え、好きなんですか? 鰻」
「いいや。だが、お前は好きだろう。少し前にテレビでやっているのを食い入るように見ていた」
「全然、それ、ぜんっぜん黒野さんの好きにしてないじゃないですか」
「している。俺はお前に鰻を食わせたい」
「あーーーーもうっ」
 彼女はがりがりと頭を掻こうとして、綺麗にセットされているのを思い出してやめていた。行き場のない手は伸びあがる様に上に伸ばされて、ぱたりと落ちる。嬉しくなかっただろうか。いいや、鰻と言った時嬉しそうな顔をしたから、嬉しくないわけではないはずだ。
「黒野さん。私はどうしたらいいんですかねえ」
「? 俺の家に帰ってきて一曲歌ってくれたら、それだけでいい」
 本当に、どうしたらいいんでしょうねえ。ときっとこれは独り言だった。



 黒野は浪費癖でもあるのでは、と思うくらいに彼女にいろいろと物を買って来た。ただ、とうとう部屋に入りきらなくなってきた為、心を鬼にして使わないものは使わない、とはっきりと伝えるようにした。服なども、そのまま返品したらまた欲しい人が買って行くだろう。かなり、とても、心苦しいことだったが、仕方がない。このまま物が増え続けていたら出て行けない。
 どうにか元々の荷物程の物量にものを減らしたところで、用意した封筒の中見を確認する。結構入っている。一月の家賃と食費と、それからいろいろと買い揃えて貰ったものを合わせても、おつりがくるだろう。
「黒野さん」
「どうした。夜食でも作るか」
「さ、さっき晩御飯頂きましたよ……。そうじゃなくて、これ」
「なんだこれは?」
 中身が何かわかるのだろうか。彼はこちらに手を伸ばそうともしない。
「ここ一月で私にかけて貰ったお金と、少ないですけどプラスいくらか入ってます。お世話になりました。感謝してもしきれません」
「受け取らないぞ」
「いえ、受け取って頂きますよ」
「受け取ったらお前は出て行くんだろう」
「これ以上ご迷惑はかけられませんから」
「どこが迷惑なのか言ってみろ」
「いや、どう考えても邪魔で」
「俺は邪魔なんて一度も思ったことはない。むしろ、お前を家に囲えてラッキーだと思ったくらいだ。世界で一番運がいい、と」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿はお前だ。また追剥にあったらどうする」
「そう何度も遭いません」
「追剥じゃなくても悪い奴はそこら中にいる。お前は弱い。ここを出て行ったら余計に狙われやすくなるだけだ」
「そうは言いますけど、黒野さん、もう気付いてますよね? 私、この国に戸籍もなければ育った家もないんですよ。なんとか音楽で生き長らえていますけど、それだけの女です。そんなもの、守っていたって荷物にこそなれ黒野さんの役に立つことなんて一つもありませんよ」
「嫌だ。とにかく俺は、お前から金なんて受け取らない」
「私の気が収まらないんですって」
「最初に言っただろう。一生だってここにいて欲しい」
「そんなこと」
 できるはずがない。どういうつもりでそんなことを言っているのか知らないが、どれだけ望んでも、望まなくても、どうしようもないことと言うのは存在する。そんな約束はとてもじゃあないができなかった。
 ぎゅ、と拳を握って黒野から目を逸らす。
 一人の人の隣になど、居られるはずがない。
 世界だって、いつ、どう変わるかわからないのに。


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20200412:黒野さんサンプルです。


 

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