次は逃がさないからな/大黒


「いつもそれだな?」

灰島の食堂で一人、ぼうっとパンを齧っていた私は顔を上げた。声をかけて来た人はにやりと笑って私の隣に腰を下ろす。細い腕をテーブルについてこちらを覗き込むように見ている。現実にこんなことをする人間はいないとは思うが、どうしてもやりたくなって私はぐっと後ろを見た。誰も居ない。
新しく来た人たちもこのあたりを避けるように席に座るし、なんならさっきまで居た人もいつの間にか食堂の端の方まで移動している。いやいや。

「あ、はい。たまに、違う時もありますけど」
「そうなのか。俺が見かけるときはいつもそれだから、そういうルーティンなのかと思った」
「いえ、そんな、大層なものでは」

食べるのを止めてまじまじと顔を見てしまう。こんなに近くでこの人を見たのははじめてだし、なんなら話をするのもはじめてだ。裏のありそうなにこにこ笑顔は正直怖いし、灰島の大黒部長と言えば灰島内外で悪名轟く有名人だ。良い噂はあまり聞かない。その全てが本当であるとも思わないが、火のないところに煙は立たないのである。
対する私は灰島の社員ですらない。派遣で週に三、四日働かせてもらっているだけの小娘だ。
一体何の用事で、と思うのだが、部長はこちらを観察したままいろいろと質問を投げて来る。そのあんぱんはこしあんかつぶあんか。他にはどんなものが好きなのか。それはそんなに美味いのか。
面接だってこんなにいろいろ聞かれなかった。

「どこのパン屋で買って来たんだ?」
「今日は、その、駅の前の。木曜日は百円なので」
「そうなのか! その口振りだとあれか? もう明日買うものも決まってるのか?」
「明日は早起きして商店街の方に……」
「どうして?」
「あーっと、金曜日は数量限定のクリームパンが、あそこ、美味しくて」
「詳しいな!」

ははは、と部長は大袈裟に笑う。そこで会話が途切れた。……私からもなにか話をしたほうが良いのだろうか。とは言っても、仕事で関わることはない。できることなら、こういう大物とはあまり仲良くならないほうが平和なのだけれど。

「明日の朝か……」
「?」
「よし、俺も行こう」
「へっ!?」
「駅まで迎えに行くし、明日の昼は俺の奢りになる。どうだ?」
「ええ、いや、」

今日突然話しかけられたと思ったら明日一緒にパンを買いに行くことになりかけている。一体どうして。話しかけられるくらいならまあ、そういう気分だったのだろうと思う事ができるけれど、これは意味がわからない。し、正直気を使うから嫌だ。それはもう仕事だ。時間外労働だ。

「いえ、明日は、そういう予定ではありますけど、多分、朝起きれないので」

じっと見つめて来る視線は「どういうこと?」と説明を求めている。「私、」

「朝弱くて。早く起きてあれをやろうとかっていう予定は八割くらい駄目なんです。だから、やめたほうがいいですよ。行くなら、もっと、確実な人を連れてった方が」
「オイオイ、勘違いするなよ。俺は別にパン屋に行きたくて君に付いて行こうとしてるわけじゃあない。俺は、君が言うから一緒に行こうって言ってるんだぜ」
「……それは、」

誰でもいいわけではない、と彼は言っている。喜べばいいのか悲しめばいいのかわからない。ただ一つ、ここで流されるのは大変にまずい予感がする。絶対にろくなことにならない。

「ならこうしよう! 連絡先を教えてくれ。寝坊したら俺に連絡をくれればいい。どうだ? これなら君の心配事はきれいさっぱり消えるだろう?」
「いえそのだから連絡先、……連絡先?」
「連絡先だ」

私の平和なランチタイムはいつの間にか部長に乗っ取られてしまっている。うまく断ろうと思ったら事態は悪化に次ぐ悪化でもうそろそろ手が付けられなくなってきた。
それにしても大黒部長。部署は違う。関わることはない。私の仕事ぶりだってこの人は知らないはず。力はある人だが、まさか私が連絡先の交換を断ったり、パン屋への同行を断ったくらいで首が飛んだりしないはずだ。
たぶん、ここでしっかり断っておかなければ後々酷い目に遭う。こういう勘は良く当たるし、これで仕事がやりづらくなるのなら転職したら良い話だ。そのための派遣社員でもある。ここでなければならない理由は一つもない。よって、無理して部長に付き合う理由も一つもない。よし。

「あっ、社長」
「なに? 社長?」

二秒、UFOと迷ったが騙されてくれそうなのはこっちだと判断して、部長が私から目を切った瞬間に走って逃げた。言葉にはしていなかったがここまで露骨にしたらわかってもらえるはずだ。パン屋についてこられるのも連絡先を交換するのも嫌だ。その気になれば私の連絡先くらいわかりそうなものだから、この行為に意味があるかはわからないけれど。

「……しまった。逃げられた」

オフィスに戻って自分の椅子に座る。ああ、なんだったんだあれは。あの人実は暇なのだろうか。
隣の席のお姉さんに「どうしたの?」と聞かれたので、私は「なんでもないです」と答えておいた。
なんでもなかったらよかったのだけれど、一時間後には『あいつは大黒部長のお気に入り』という謎の噂が流れていた。「本当?」と聞かれたのだが、私には「嘘ですよ」と希望を言うことしかできない。嘘であってくれ。


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20200409:初テキストライブでやったやつ。大黒部長マジであの、大黒部長…。

 

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