ココロノアリカ・後


「お前は時々、心がここにねェみたいな顔してんな」

なまえは無心で木刀を素振りしている腕を止めて振り返る。まだここが第七特殊消防隊ではなかった時、強くなりたいからと転がり込んで来た声のない女。出身は修道院で、その育った修道院も生き残り三人を除いて全員焼け死んだと聞いている。
やはり、強くなければ守れるものはないのだと、なまえはいつも笑っている。
修道院育ちの女なんぞすぐ出て行くに決まっていると思っていたが、それが、第七の隊員の世話までできるようになってしまった。能力は戦闘向きではないが、並の奴ではなまえの相手にはならないだろう。
そこまでになっても、なまえは毎日。毎日体を鍛えて、強くあろうと努力している。
ポケットから紙を取り出して文字を書く。
ここぞとばかりに近くへ寄って、紅丸はなまえの手元を覗き込んだ。
一つずつ文字が足されていく。

「あ?」

わざわざ紙に書いた割には短い言葉だった。

『あげた』

たった三文字だ。あげたとは。人にやったということだろうか。誰に。なんの為に。問い詰めたいが、月明りの下で、静かに、美しく笑うせいで次の言葉を続けられない。いつもそうだ。もう何年もなまえを見て来た紅丸にはよくわかっている。
なまえには、大切で大切で堪らない、『誰か』が居るのだ。
余程の事情があるのか、会っている様子はない。会っている様子がないからこそ、強く強く存在が浮き彫りになる。なまえが強くなりたい本当の理由は、きっと、そいつと深く繋がっている。

「一生そのままなのか」

せめてもの足掻きで聞いてみるが、なまえはそっと首を振って、どれだけ鍛えてもあまり太くならなかった指先を自分の胸にあてる。これだ。この顔を見てしまうと、紅丸はもう何もできなくなってしまう。どれだけ、自分が彼女を欲しいと思っても、どれだけ、こちらを見ていて欲しいと思っても。自分では、なまえが血反吐を吐いて、食事も喉を通らないくらい体を痛めつけられても、強くなろうと前を向く、その理由には、なり得ない。
懐かしそうに、愛おしそうにただ笑う。

「そうか」

その胸に、俺の心が入る隙間は、存在しない。



最近、第七特殊消防隊はにぎやかだ。
第八と交流があるおかげで、なんとなく疎遠になっていた義妹たちとも頻繁に会えるようになり、なまえとしては良いことしかない。ヒバナは第五で立派に大隊長をやっていて、アイリスは第八になくてはならない存在なのだとシンラに言われ誇らしかった。
血は繋がらなくとも、二人ともなまえを「義姉さん」と呼ぶかわいい義妹だった。

「あ、なまえ義姉さん! こっちですよ!」

なまえはひらりと手を振って、アイリスの傍へと走り寄る。もう既にヒバナも到着しており「遅いぞ、義姉さん」と腕を組んでいた。女子らしい服装の二人に癒されながら、体だけなら二人のほうがずっと大人の女性らしいなと、なまえはぼんやり遠くを見つめた。第八のマキも筋肉がついて良い体だったな、などと思うと、自分の腕などはあまり視界に入れたくなくなる。昔に比べたら肉も付いたが、とにかく不健康に細い。

「? どうしたんですか? 体調、良くないですか?」
「なんだとっ!? よし、今すぐ病院に行くぞ!」
「ヒバナ義姉さん、そっち持ってください!」

なまえは急いで首を振った。二人はほっとしてなまえから手を離し「それならよかったです」「そうじゃないのならもっと早くに言ってくれ」と口々に安心していた。

「さて、それじゃあ行くか」
「はい! 今日は食べますよ!」

なまえは行先を詳しく聞いていないが、なんでも最近できたおしゃれなケーキバイキングに連れて行ってくれるそうである。なまえにしてみれば夢のような話だ。女の子と一緒に昼間、まさしく女の子らしい店に繰り出そうというのだから。二人の義妹の後ろ姿を眺めていると二人は同時に振り返って、それぞれがなまえの両腕を掴む。

「義姉さんは相変わらず、ぼうっとしてますね!」
「まったくだ。ここからは戦いだぞ」

三人だけ生き残って、しばらくは離れ離れになっていたのに、離れていたのが嘘のようにこうしている。

(だから。きっと)

いつか心を交換し合った彼とも、こうして、また、必ず。



平坦ではなかった。
聖陽の影の奴隷であった時も、逃げ出した時も、修道院で生活をはじめて、強くなりたくて浅草に来た後も。毎日。毎日52の無事を祈っていた。感覚として、生きていることはわかっていたけれど、元気にしているかどうかはわからない。
ただ、少し前、紅丸が聖陽教に殴り込みに言ったと話していた。よくよく話を聞いてみれば唆したのはジョーカーという男で、長髪に、左目を隠した怪しい男であったらしい。バーンズとも知り合いで、皇王庁の地下のことにもやたらと詳しかったのだとか。それは、52なのではないかとなまえは考えているのだが、いかんせん、なまえのあずかり知らぬところで全て終わっていた為、百パーセント確実にそうだとは言えない。
紅丸を信用していないわけではないが、自分もそこの出身であるということは言い辛かった。彼はとても優しい。きっと心を痛めるだろう。
太陽の下で暮らすようになって大分経つが、太陽の光に慣れることはまだまだない。くっと空を仰いで目を細め、第七特殊消防隊の詰所の扉をがらりと開ける。

「お、帰ってきたのかい」

紺炉がひょいと手を上げる。ただいま戻りましたと頭を下げると「若が探してたぜ」と言われた。紅丸くんが。首を傾げると、

「裏庭にいるからよ、茶でも持ってくついでに会いに行ってやってくれ」

シンラとアーサー、それからタマキもいるからな、とも言われ、お茶は五つか、と考えながら頷いた。火事場の馬鹿力の習得のために数日前から寝泊まりしている。筋がいいと褒められていたので、羨ましくなってしまう。なまえは稽古をつけてもらえるようになってから今日まで、戦闘技術に関して褒められたことはない。
曰く、まあ、それなりにできるようにはなった、とのことだが、何度思い返しても「やめちまえ」と言われたことの方が多い。
思わずため息が漏れそうになるが、それも過去のことだとぐっと上を向いて、お茶とお茶菓子を持って裏庭に向かった。

「あ、なまえさん」

タマキの座る縁側の傍におぼんを置いて、一つ湯呑を差し出す。

「ありがとうございますッ!」

湯呑を受け取って貰ったら、こっそり好きなお菓子を選ばせてあげた。饅頭やせんべいなどもあったが、タマキは猫の肉球のついたどらやきを選んでいた。なまえはにこりと笑って、タマキの隣に座る。
シンラとアーサーの相手をする紅丸は、気配でなまえが来ていることに気付いた。稽古は一時休憩時間となり、タマキとなまえはそれぞれお茶とお茶菓子とを配って回った。なまえがシンラに湯呑を渡すと、シンラはぱっと笑って「ありがとうございます!」とお茶を飲み始めた「あちちっ」何を急いでいるのだろう。なまえが不思議がっていると、視線の先にアーサーがいることに気付く。

(ああ)

こういう関係もあるんだよなあ、と、思わずにはいられない。自分と52はどうしようもなく守るものと守られるものに別れてしまっていたけれど。

「!」

ふと、シンラの顔に切り傷を見つけて、なまえがちょいちょいと手招きをする。そっと手を翳して小さく炎を出すと、傷は消えるように塞がった。

「あ、怪我してましたか? ありがとうございます! 相変わらずすごい能力ですね!」

能力的には、第六の大隊長と近い、と分析したのはヒバナであった。すごい、とは言うものの残念ながら戦闘では全くと言って良いほど役にたたない為、戦闘となればなまえはほぼ無能力者である。能力者故多少の耐性はあるが、それすらも並み以下という有様だった。
修道院暮らしの中で能力に目覚めたはいいものの、いまいち、52と並び立てるイメージは持てなかった。
なまえがシンラの言葉に「そんなことはない」と首を振ると「ええ? すごいのになァ」と不満気だった。第八の人たちは皆びっくりするくらい優しい。アイリスはこの隊のシスターなのだと思うと心の底から安心できる。

「オイ」
「うわ、新門大隊長」
「そんな怪我いちいち治さなくていい。すぐに治る」

チッ、と舌打ちまでして不機嫌を前面に押し出している。
なまえは紙とペンを取り出してさらさらと文章を書く。

『紅丸くんはケガしてない?』
「あ? なんで俺がこいつらの相手で怪我すんだ」

それならよかった、と笑って、そう言えば用事があると聞いていたのだが、とじっと見つめる。紅丸はその視線の意味をしばらく考えて、その内「ああ」と思い出す。

「ちょっとこっち来い」
「?」

三人には聞かれたくない会話なのだろう。やや離れた場所で紅丸は言う。

「明日。甘いモンでも食いにいかねェか」
「?」

甘いもの。なまえはまた紙にペンを走らせる。

『甘いもの、苦手だよね?』
「……第五の大隊長と、第八の嬢ちゃんとは行ったんだろ」

それなら俺とも行けるだろうが、と紅丸は続けて、なまえは目を丸くする。流れで食事を共にすることはあっても、改まって誘われるのははじめてだった。本当に甘いものでいいのだろうかとは思うが、「どうなんだ」と答えを催促されて頷いた。

「よし」

ほっとしたようにそう言って、紅丸は三人のところへ戻って行った。



「なまえ義姉さんは手を繋ぐのが嫌いなの?」

そう言ったのはアイリスだった。そんなことはないよと首を振ってアイリスと手を繋いだが、三秒後に涙を流してしまって心配されたのを覚えている。

(ごめんね)

アイリスが悪いわけじゃないんだよ。と伝えて、そっと頭を撫でる。ただ、その距離は。52との距離だったから。だから。

「……そうか」

差し出された手のひらを掴むことはできない。
何年も面倒を見てくれて、楽しく一緒に生活してきた人が相手であっても、形だけでも、許すことはできない。紅丸と約束通り甘味を食べた帰り道、ふと、真剣な顔で振り返って向けられた真っすぐな気持ちを、そっと首を振って堰き止めた。「悪かった」と紅丸は謝ったが、謝るべきは自分の方だと、なまえは口元だけで「ごめん」と伝えた。
手のひらはなにも掴まず、くし、と紅丸の髪の間に沈んでいった。

「わかっちゃいたが、案外シンドいもんだな」

なまえはもう一度「ごめん」と繰り返す。
彼の気持ちには、なんとなしに気付いていただけに余計に罪悪感が増す。なまえはせめて目だけは逸らさないようにとじっと紅丸を見詰めていた。
どんな顔をしているのか、自分で自分のことはわからないが、紅丸はふ、と口元を緩めてなまえの横を通り過ぎて行った。

「気にすんな。満足だ」

なまえはしばらく、足元にきらきらしたものが散らばっている気がして、動けなかった。



それはどうなんだ。と、第七の大隊長新門紅丸改め、むーんらいと仮面が作り上げられるのを見送ったのは少し前。その外見には不安を煽られたが、中身は紅丸故、心配はいらないと言い聞かせる。
喉に手を当てて、じっと待つ。
何処に行っても、結局自分は強い人を待つだけの存在なのかと苦しくなる。命を使い潰してしまいたい衝動は、52の心がここにあるのだと思い出すと収まった。
炎の匂いがして、顔を上げる。

「帰って来たか!?」
「!」

桜備は、と紺炉が言うが、なまえはただじっと一人の男に目を奪われていた。

(……?)

黒い帽子に、部屋着のようなゆるりとした服。黒一色の長髪の男だ。左目を隠していて、右目の色は。

(52……!)

真っ先に駆け寄るが、シンラはぐったりとしているし、いいやシンラ以外の皆も怪我をしている。「義姉さん!」アイリスに呼ばれて、優先事項が切り替わる。切り替わって、しまう。

「手当してやれ」

射貫くような紅丸の言葉に、なまえはすぐさま頷いた。
頷いて、しまった。



しばらくは浅草に居るらしい、その男の名前はジョーカーと言うそうだが、あれは間違いなく52だ。やはりジョーカーは52だった。無事でよかった。まずはそれだが、だんだんと怪我人の容体が落ち着いてくると、間が空いて、話しかけ辛くなってしまった。それは向こうも同じなようで、忙しくしていると時折目が合う。どちらともなく駆け寄りそうになるのだけれど、毎回誰かに呼ばれるだとか、荷物を運んでいるとかで近付けない。

(やっと会えたんだけどな)

ふう、と調理場で溜息を吐くと「義姉さんッ!」とアイリスが顔を覗き込んで来た。

「今の話聞いてましたか?」

素直に、聞いていなかったと首を振る。「もう、そんなことだと思いましたけど」とすぐに許されて、もう一度話をしてくれた。アーサーの元気がないらしい。怪我は治せても気力まではと考えていると、アイリスはこん、と肘でなまえをつつく。

「義姉さんも、元気ないですね?」

なまえはきゅ、と水道の水を止めて曖昧に笑う。
どうしたらいいかわからない。
アイリスや、ヒバナと再会した時のように、自然にうまくいくと思っていたのだが、まずなんと言って声をかけていいのかわからない。久しぶり、元気だった、怪我はない、いろいろあるけれど、そもそも、なまえには声がない。

「あの人とお話したいんですよね?」

ね? とアイリスは笑っている。その通りだ。そして、きっと、向こうもそうだと思う。それなのに上手くいかないのは、いつもは彼がなまえを呼んでくれていたからだ。なまえから52を呼んだことはない。呼べない。
改めて、どうするかなあと肩を落とす。
アイリスは「うーん」と真面目に考えて、ふと、洗って乾かしてある食器に目をとめる。「あっ!」

「これ! これですよ義姉さん!」

これってどれだ。ぱちくりとまばたきを繰り返すと、アイリスはおたまを持ってきゅっとポーズを決める。

「ご飯! 渡してみるっていうのはどうですか! 名付けてお弁当作戦です!」

アイリスの勢いが受け止めきれず「名案でしょう!?」と詰め寄られるまま頷く。「よーし! 善は急げですよ!」はじめこそ勢いだったが、弁当を作るうちに、本当に名案であるような気がしてきた。そして、完成が近付くにつれて、不安になってくる。
受け取って貰えなかったらどうしたらいいのだろう。わからない。こんなことをするのははじめてだ。言われて用意することはあっても、近付く為に用意するだなんて。

「……義姉さん? なんで二つなんですか?」

一つは手伝ってくれたお礼にアイリスにと思ったのだが「なら、新門大隊長に渡すといいですよ」と突き返されてしまった。その人も今は話しかけ辛いのだけれど。なまえが無言で渋っていると、アイリスは手際よく弁当を包んで、なまえに持たせ、外に放り出した。

「いってらっしゃい! 元気になるまで帰ってきちゃだめですよ!」

天使の笑顔で、崖から突き落とされた気分だ。



ジョーカーは、紅丸と一緒にやぐらの上にいるらしい。すぐに場所が割れてしまって、足が重くなる。

(どう、する)

どくどくと心臓がうるさくて、一つ呼吸をするのも一苦労だ。体に酸素を巡らせて、自然にいくように段取りを考える。と言っても、身振り手振りで伝えるしかないので、二つ弁当を見せて、届けに来たという風にするのがいいのだろうか。いや、むしろそれしかないのでは。
なまえはぐるぐると何度も何度も同じことを考えながら、梯子を上り、やぐらによじ登る。

「なまえ」

と先に名前を呼んだのは紅丸だった。52はちらりと一瞥をくれただけで、すぐふいと目を逸らして煙草をふかしている。

「どうした? 何かあったか?」

体についた埃を払って、包んで貰った弁当箱を二つ、二人の前に差し出す。紅丸は中身が何かすぐにわかって「ああ。弁当か」とその内一つを受け取った。「弁当?」声は、何故今弁当なんだと問うていたが、なまえはぐっと唇を引き結んで52の方へ足を進める。
最悪、手渡すだけでもと腕を持ち上げると「俺はいい」とひらりとやぐらから降りてしまった。

「!」

逃げられた。
だが、悲しくはない。
むしろ、堪らなく懐かしかった。
その、「俺はいい」は、ずっと昔、自分も空腹のくせにいらないと言い張っていた時と同じ声だ。舐めて貰っては困る。こちらには52の心があるのだから。そんな嘘くらいお見通しだ。
なまえはすぐにやぐらから降りようとはしごへ手を掛ける。
その手を、紅丸の手が掴んだ。
ぱっと、顔を上げると、鮮やかな紅の瞳と視線がぶつかる。

「……行くのか」

本当に言いたい言葉は「行くな」であろうことくらいわかる。
それでも、行かないわけにはいかなくて、なまえはコク、と頷いた。
紅丸は「フー……」と長い長い溜息を吐いて、ゆっくりとなまえの腕から手を引く。

「わかった」

私はまた梯子を使って地面まで降りて、52の背中を追いかけた。



走ったから弁当の中身が心配だが、背に腹はかえられない。全力で走ったおかげで52の背中はすぐに見つけることができた。
背が、伸びた。
それから体も段違いに大きくなっている。
人通りは多いが、今のなまえならば人を避けながら走ることもできる。
闇に紛れるように路地を曲がった背中を追って。
そして。
すう。
と、大きく息を吸い込んだ。

「52!!!!」

52はばっとなまえを振り返った。

「52」

確かめるようにもう一度呼ぶと、複雑に絡まっていた思考が一つの道となって二人を繋ぐ。52はもう、なまえの方へ向かおうとする足を止められなかった。

「……なまえ」

どちらからともなく手のひらを重ね合わせて、いつかと同じようにぴたりと額をくっつけた。

「なまえ」

久しぶりに、自分の心に触れた。



「練習したら、声は出るようになるわ」
「本当ですか!」

そう、なまえの代わりに叫んだのはヒバナだった。
ドッペルゲンガーの調査の為に訪れた火代子に、ものはついでにと喉を見て貰ったのだが、持ち前の治癒の力を当て続けていたこともあって、訓練次第でもう声が出るようになる状態だという。
ただ、ややコツが必要らしく、普通の人のように話ができるようになるまで、一年はかかると考えてほしい、と火代子は言った。

「そうね。まず声にしたい言葉はある?」

なまえはじっと考えて、紙切れに『52』と書き込んだ。

「これは、ごじゅうに?」

ああ、そうか、となまえはその横に文字を足す。

『five two』
「わかったわ。ファイブツーね。じゃあちょっと練習してみましょうか」
「義姉さん? それはひょっとして男の、砂利の名前か? 義姉さん!」

その日から、暇さえあれば練習していた甲斐があった。



浅草に居ることは知っていた。だが、姿を確認したことはない。元気にやっているのならそれでよかった。
しかし。
何度も何度も盗み見る。
能力が発現しているのは知らなかった。浅草を走り回る姿はもう完全に普通の女だ。全体的に細いのは相変わらずだが、肌の色艶も良いし、スラリとしていてイイ女だ。いいや自分はなまえであればどれだけガリガリでも興奮していたから、今更体がどうと言うこともないが。
加えて、義姉さん、などと呼ばれてもいる。更に、更にだ。第七の大隊長にはそれはそれは大切にされているようだった。
再会を喜ぶタイミングを逃したのはよかったのかもしれないと思う事もあった。このまま、ここで、最強の男に守られていればいい。それはきっと幸せなことだ。そう考えてどうにか背を向けることに成功したのに、はじめて聞くなまえの声で呼び止められて、感情を縛り付けていたロープがどこかへ行ってしまった。

「弁当、だったな」

急いでここまで走って来たせいで、開けると、思い切り中身が崩れている。なまえはへら、と笑った。話せる言葉はまだ多くないようだ。そんなことはいい。それよりも。言いたいこと、言ってやりたいことがありすぎて、上手く言葉にならない。
生まれた時から今日まで何不自由なく声を出せていた自分でさえこうなのだから、なまえはさぞ、困っていることだろう。
なまえは52の腕に怪我があるのを見つけてさらりと触れて治してしまった。第三世代の発火能力。自然治癒力を増す能力だ。

「お前らしい、いい能力だ」
「……」

なまえは不満気に52を見詰め、しかし素直に52の肩を叩いた。肩こりとかにもものすごく効く、おそらくなまえはそう言った。
内心では安心していた。戦える能力だと、戦わなければならなくなる。最も、浅草で大層鍛えられて、体術なんかはそれなりになってしまったようだが。

「……綺麗になったな」

なまえは恥ずかしそうにゆるーく笑う。

「なあ」

弁当はそっと横に置いておいて、雫が伝うなまえの頬に指を這わせる。

「抱きしめてもいいか」

なまえははっきりと頷いた。
こんなことができる程度には大人になった。気持ちと体がちぐはぐで、愛情の表現方法がわからなかったあの頃とは違う。ただ大切で、守りたくて、守れなくて。力も知識もないまま縛り付けた。縛られてくれていた。
腕を引いて体を引き寄せて、自分の胸に押し付ける。壊れないように思い切り抱きしめる。もう、離れている必要はない。見た目は変わらないが腕の中にある体はしっかりしたもので、きっとなまえがここまでになるには並大抵の努力では足らなかったはずだ。

「なまえ」

もう、言いたいこととか言うべきこととか、そういう小難しいことは考えていない。今までの話は、このあと夜通しだって聞けるのだから。

「キス、してもいいか」

なまえは目を閉じて、くっと52に唇を寄せた。

「ん、ぅ」

枷は溶けてなくなった。強さ、弱さ、立場、知識、世界、あらゆる枷が、時間の経過と共に外れていった。本能のまま、なまえの感情の全てを飲み込まんと貪った。そうして、自分にも、今までの全ての感情を押し込んでくれたらいいと、目の前の女に願っていた。

「はっ、……はあ、ふ」

名残惜しいがここは外だし、いつ誰が通りかかるとも知れない。52は抱えて走って詰所に帰ってしまいたい気持ちをぐっと押さえて、久しぶりに、本当に久しぶりに、なまえへと手を差し出す。

「……続きは帰ってからだ」
「ん」

なまえは待っていましたと言わないばかりに強く強く手を握って、練習中の二つ目の言葉を声にする。

「はなさ、なぃ、で」

52と、離さないで。それから、好き、という言葉も練習していたけれど、最後のは、わざわざ言う必要もないかと飲み込んだ。詰所までの道を52と歩く。懐かしさに胸がいっぱいになって、太陽の眩しさは祝福のようであった。

「馬鹿言うな」

泣きそうな笑顔で52が言う。

「ずっと、一緒だっただろ」

離さねェし、もう待つ必要はねェよ、と続けたので、言いたいことがありすぎることがバレてしまった。
面白がって、ふ、と笑うなまえを「なに笑ってんだ」と小突くと、昔とはくらべものにならないくらいの力で小突き返された。



はじめて見る顔を、よくするようになった。心をあげてしまった相手は間違いなくジョーカーで、ジョーカーもなまえに心を預けているそうだ。通りで入り込む余地がないわけである。二人は、なまえがせっせとつけていた日記や、こつこつ撮りだめていた写真を眺めている。

「……楽しそうにしてんな」
「あァ」
「いいのか?」

いいのか、紺炉の問いは、紅丸も、自分自身に問うてきた。よくはない。だが、もうけじめはつけてある。真正面から振られてもいる。現状、どうすることもできやしないし、何をしたとしても揺らがないだろう。

「いい」

何年も、何年も離れていた二人は、一つずつ、一つずつ取り戻している。

「これでいい」

声は、思ったよりもきっぱりと出て安心する。

「そうかい」
「まあ、隙見せたら奪ってやるけどな」
「はは。そいつァいいな」

あるいは、ジョーカーがなまえを残して死ぬようなことがあれば。
だから、それまでは。

「これでいいんだよ」


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20200317:此処まで読んで頂いてありがとうございました!もしよろしければ適当に感想投げて頂けると大変に喜びます……。

 

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