ココロノアリカ・前


ただ、強く、在りたい。



待っているのは得意ではない。それでも待つのはそれがなまえの戦いだからだった。
例え隣の部屋でどんな怒鳴り声が聞こえても、ドアを蹴破る音が聞こえても。同じくらいの子供の悲鳴が聞こえても。肉を裂いて骨を砕く音が聞こえても。すぐそばまで足音が迫っても。そこで待つことが、なまえにとっての戦いで、唯一できることであった。
今日も、じわりと汗が滲むような狭い場所で、騒音や吐き気に耐えながら待つ。湿気と自らの呼気で居心地はどんどん悪くなるが、ひたすらに待つ。
部屋はしばらく騒がしかったが、太陽が落ちて温度がだんだん低くなってくると静かになった。それでも、なまえに部屋の全容はわからないからじっと待つ。

「なまえ?」

名前を呼ばれたらようやく出ていく、狭くて埃っぽいベッドの下から這い出すと、なまえを呼んだ少年はほっとしてなまえに近づき、頭や服に着いた埃を払った。

「良かった。見つからなかったんだな」

急いで帰ってきてくれたのだろう、なまえは彼を労うように頷くと、ふと部屋の様子を確認する。部屋の隅に使い捨てられた人間が転がっている。
少年はなまえの視線を遮るように立って、「もう少しマシな部屋に移動して、飯にしよう」そうしたら、ここからも離れなければ、明日も見つからないとは限らない。



少年は黒い髪に黒い眼帯、切なくなるくらいに鮮やかな紫の右目を持っていた。52と名乗っている。彼のような少年のことを、美少年、と言うのだとなまえは最近気が付いた。

「ほら、なまえ、これ好きだろ」

差し出された缶詰を受け取る。彼と勉強した甲斐もあり、これがなんの缶詰なのかわかるようになっていた。イワシ、と書いてある。魚の名前だ。どんな魚なのかは二人とも知らない。
なまえがありがとう、と笑顔を作って頭を下げて、かこ、と缶詰を開ける。そっと両手を合わせて、そこで、なまえはふと気付く。52はをじっと自分を見ているだけだ。

「ああ、俺はいいんだ。腹減ってないからな。なまえが全部食えばいい」
「……」
「ほら」

なまえは二匹入っているうちの一匹を摘んで52の口元に押し付ける。「あ、こら、お前っ」なまえは「あ、」と口を開けるよう52をじとりと睨む。「……しょうがないな」観念したように開いた口にイワシを放り込んだ。一口であった。

「お前も食えよ」

なまえはもう一匹も52の口に突っ込もうとするが、それはさせずに取り上げて、なまえが先ほどしたのと同じように口を開けさせて手でイワシを口に詰めた。なまえは一口では無理で、半分ほどが52の手に残る。

「残りも」

なまえが素直に口を開けると、52は「よし」と笑ってどこからかくすねてきた布でなまえと自分の指を拭った。
残った汁の譲り合いも熾烈だったことは、説明するまでもない。



「よし、そろそろ行くか」

いつも通りになまえに手を伸ばすと、なまえは52の手を握った。移動する時は大体こうして手を握っている。暗部からなまえを連れ出した時からずっとだ。
52や他大多数の影の連中と同じように孤児だったらしいなまえは、暗部における雑務を、奴隷のように繰り返す日々を送っていた。意味など欠片も存在しない暴力を振るわれているところも見たことがある。
なまえはなんの文句も言わない。……言えない。誰がそうしたのかなまえは声帯を焼かれてしまっていて声を出せない。助けも呼べない助けを求めることもできない状態で、52と出会った。
52はどうしても他の影と同じようになまえを粗末に、あるいは物のように扱う気になれず、暇さえあればなまえと一緒に居た。交流を重ねた結果、52にとってもなまえにとっても、お互いは大切な存在になった。黴臭い地下から抜け出す時、なまえは、自分は置いていけばいい、と首を振ったが、52には、なまえを一人で置いていく道など考えることすら出来なかった。

「待ってる間、もう少し静かな方がいいよな」

なまえは大丈夫だと首を振る。

「大丈夫じゃない。一歩間違えばお前がああなってたかも知れないんだぞ」

なまえはまた同じように首を振った。付き合いは長くて、考えていることも大体わかるが、52にはただ一つ、なまえがここまで強い理由がわからない。同じことをしろと言われた時、自分にはきっとできない。ある程度なら戦えるが、それ以上の人間が居たとしたら、恐怖を感じるままに飛び出して、一人になってしまうだろう。

「……本当に危ない時は、全力で逃げろよ」

逃げても、なまえの足では追いつかれてしまうだろうが。それでも、少しでも時間を稼いでくれたなら、助けに行くことができるかもしれない。
なまえはぎゅ、と手の力を強めた。俺も応えて強くする。
夜明け前の真っ暗の中を、たった二人で、そうっとそうっと歩いていく。なまえは空を見ているようだった。「何か見えるか?」と聞いてみるとへらりと笑っている。
ああ、どうして、こんなに綺麗に笑えるのだろう。



ある日、なまえを待たせている場所へ帰ると部屋がやけに騒がしかった。無法者の考えることと言うのはだいたい同じなのだろうか。事前にどれだけ確認してもどれだけ気を付けても遭遇してしまうことがある。考える事は後でなまえと一緒にやるとして、部屋に飛び込む。男三人が何かを真ん中で押さえつけている。犬や猫ならまだ良いが。
まず、手前の奴を吹き飛ばす。襲われていたのは。「っ!」

「 なまえっ!」

なまえだった。
52は感情のまま二人目の首をかき切り、三人目の心臓を刺した。吹き飛ばした一人目は血を吹いている。首がぐるりと回転して背中の方に顔があるから、生きてはいないだろう。
なまえの傍に寄ると、なまえはよろよろと体を起こして52の腕を掴んだ。

「痛いところは? どこを触られた?」

なまえは52と目を合わせると、心配ないとにこりと笑い、服は乱れているが平気だと、自分の腕や足を叩いて示す。
本当に間一髪であったらしく、下着やズボンは放り投げられているが、なまえの体に傷は無さそうだ。

「……ごめんな」

なまえは謝る必要は無いと首を振るが、そんなわけは無い。部屋に入って、押さえつけられていたなまえの表情は恐怖で歪んでいたし、ぼろぼろと涙を流していた。大丈夫ではないし平気ではないし、もう少し帰って来るのが遅ければなまえへ語りかけることは一生出来なくなっていたかもしれない。
逃げようとした痕跡は見つけられなくて苦しくなる。
自分を一番に考えて欲しいのだが、どうしたらいいのだろうか。

「ごめん」

両手を掴んでそう繰り返す。
怖い思いをしたとわかっているのに、乱れた服、そこから覗く肌があまりに白くてどきっとしてしまう。本当にごめん、心の中で繰り返す。なまえは先程までの出来事が嘘のように穏やかに笑っているが、52は抱き締めてやることもできないままそっとなまえの体から目をそらす。
栄養不足で女らしいとは言えないなまえの体だが、どうしようもなく興奮している自分がいる。

「ん、」

なまえは立ち上がり、座り込んでいる52に、手を伸ばした。行こう、と口元だけで言っている。
もし、死んでしまっていたとしても、なまえはこんなふうに笑うのだろうと確信できてしまって怖かった。しかし、泣いてもいいと言えるほどの余裕もなくて、二人はぎゅ、と手を握った。



「どうしてなまえはこんなに強いんだろうな」
「?」

出会ってすぐの時は、もっと弱々しくて、頼りなくて、自分が守ってやらなければいけないと思っていたのに。いや、もしかしたら、昔からなまえはこうだったのかもしれない。俺もなまえも成長して、18ともなれば、心の有り様について考えることもできるようになっているから、変わったのは、自分なのかもしれない。

「普通、殴られたり、怖かったり、痛い思いをしたすぐ後に笑うことなんかできない」

それを、なまえは平気でやって、52が弱っていると見れば気を使ってより元気に振舞ったりするのである。そういうところを、強いと呼ばずしてなんと呼ぶのか52にはわからなかった。

「……」

なまえは少し考えて、正面に座る52の胸の真ん中辺りを指でついて、ぐっと押し込んだ。

「? それは、体は俺の方が強いけど。お前のはそうじゃないだろ。もっとこう。人間の中心みたいな。心、みたいなものが」

強いんだ、と言おうとすると、なまえは改めてぴっと指をさし直した。心の話をしたいらしい。

「心?」

なまえは頷く、心がどうかしたのかと首を傾げると、なまえは手のひらに何かを乗せるような仕草をして、何も乗っていない手のひらを上にあげた。

「ああ!」

52はぽん、と手を打つ。

「そう言えば俺が貰ったんだったな」

なまえは、忘れていたのか、とショックを受けたような顔をした。「忘れてないぞ」と慌てて言うがなまえは、じとりとこちらを見るばかりだ。
あの儀式は、そんなに大切な事だったのか。
あれは確か、そうだ、暗部を出てすぐの頃、どこにでもなまえを連れていくのは危険だと気付いて、比較的安全と思われる場所で待っていてもらうようにした。町の郊外というのはどうにも、素の治安が悪いのであまり安全では無いのだけれど、ついて来るよりはずっと安全だった。

「っ、」

なまえは一人で行こうとする俺を掴んで首を振った。こんなふうに我儘を言うことは珍しくて、しかし、次の行き先の目処をつけるだとか、明日も生きていくためにしなければならない事は山のようにある。
なまえはいざと言う時声も出ない、戦えないし女だから、半端に賢しい連中には弱味に見える。余計に狙われることになるし、52は動き辛くなってしまう。
こんこんと理由を話していると、なまえはそっと自分の胸に手を置いて、その後、何かを押し込むように52の胸に触れた。

「痛むのか?」

違う、と首を振る。完全に読める訳では無いが短文でよく使う言葉ならわかる。ぱか、と口を開く、音はしない。あ、その次は口を横に広げて、最後に口をすぼめて見せる。

「あ、げ、る」

こく、となまえは何度も頷いて笑っていた。なまえが52の胸から手を離すが何も無い。何を貰ったのかすぐには理解できなかったが、その日から一人でいるのになまえが近くにいるみたいにあたたかい。これは一体どういうことかと考えると、胸に手を当てて微笑んだなまえを思い出す。そうかなまえの心を貰ったのだと気付いた。

「心を持ってるのは俺だから怖くも痛くもないってことか?」

なまえが勢いよく頷いたので、ぴし、と指でなまえの額を小突いておいた。それは嘘だ。

「そんなわけないだろ」

なまえはへらりと笑って、何か言った。こちらに伝える気のない独り言だ。

「なんだ?」
「……」
「なんだよ」

首を左右に振るばかりで、肘でつついても楽しそうに笑うばかりで教えてくれなかった。



例え自分が死んでしまっても、52が心を持っていてくれたのなら、どんな時も52を一人にすることはないから怖くは無いのだと。そんなことを言ったらきっと彼は怒っただろう。
なまえはいつも通りに52を待ちながらぼうっとしていた。できるだけ体力を使わないように気を付ける。一度、自分も別行動でできることを探す、と言ったことがあったのだが、52は血相を変えてそれだけはやめてくれとなまえに言った。女なのだから、この体にもいくらかの価値が、と。そこまで伝えると52は泣きそうな顔でなまえの手を握った。

「駄目だ。それだけは。ごめんな。大丈夫。俺が上手くやればいいだけの話なんだから気にするな。頼むから、空とか、花とか眺めながら、待っててくれ」

そこまで言われたら、黙って待っているのは自分の戦いであると思うことにするしかない。
冷たい、朽ちかけのコンクリートにぺたりと座っていた。せめて発火能力くらいあれば、野草を調理することも出来たかも知れないのに。
52の前では決して聞かせないため息は、一人でいる間に吐ききってしまって膝を抱く。
窓から顔を出さないように外を見る。いい天気だ。こんな天気の日のことは、きっとそう言う。たまには早く帰ってきて、ふらりと太陽の下を散歩したりできないだろうか。

「!」

じっとしていると、いくつか足音と声が近付いてくる。「昨日の餓鬼はこの辺にいるのか」「見たってやつがいるから間違いねェ」いくつか使われていない箪笥やベッドが転がっている。建物に入られる前に隠れなければ。大抵の場合、わざわざベッドの位置を変えたり、ひっくり返っている箪笥を戻したりはしない。なまえはそっと開け口が下になっている箪笥の下に潜り込んだ。
なまえにできることは、52が帰ってくるのを待つことだけだ。
逃げたら、52とはぐれたら、きっともう二度と会うことはできない。そう思うと、逃げ出すことはできなかった。
なまえでは、町で、52の名前を叫ぶこともできないのだから。



突然、胸を刺されたみたいな痛みが全身を走った。身体に異常は無い。52にはないが、予感がする。嫌な予感だ。今すぐになまえの居るところに帰らなければまずい。
ギャンブルの戦績は上々だし、こんな時に限って賭け麻雀は役満を上がれそうな手だ。いや、こんな手が来た時点で疑うべきだった。今日はおかしい。

「悪いがここまでだ」

52はすぐに道中で絡んできたやつから奪ったコートを羽織り、全速力でなまえの待つ場所へと向かう。誰かいるなら、声で怯んでくれることを期待して叫ぶ。

「なまえー!!!!」

声に焦って致命傷、なんてことになれば目も当てられないがなまえに届けばこちらに逃げてくるかもしれない。
(俺からだって逃げていいのに、あいつは)
なまえは逃げない。逃げないでじっと待っている。日に日にその両目の光が飢えた獣のように研ぎ澄まされていくのを見ている。だから今日も、待っているのだ。

「なまえ!!!」

なまえを置いて出ていった部屋に滑るように入り込む。
なまえは微笑みながら、ゆるりと52に手をあげた。あまりにもいつも通りのなまえの態度に言葉を失うが、すぐに、自分を叱咤して一刻も猶予もないと走って駆け寄る。
なまえの体から吹き出た、血溜まりの中に飛び込んだ。



音のない夜の道を二人で歩いていた。
なまえは暗部に居た時からよくバランスを崩して転んでいた。52が手を引いていても時々足をもつれさせているので、単純に運動が苦手なのだろう。ただ、52が手を引いていれば転ぶことはない。だから安心して、なまえは夜空を見ながら歩いていた。地下の空はいつ見ても同じだったが、外に出ると、空は毎回形が違っている。濁って錆びた空気しか知らなかったけれど、その空気すら、日ごとに違うから驚きだ。
がく、とまた足元の小石を踏んでバランスを崩す。すかさず、52はぐっと腕に力を入れてなまえを支えていた。

「大丈夫か?」

大丈夫、と頷いて、また空を見上げる。

「俺が一緒の時はそれでいいけど、一人の時にそんなことしてるとすぐ転ぶぞ」

52は想像もしていないだろうが、なまえは52程優しい人間を他に知らない。奴隷同然の自分と仲良くなってくれたのもそうだが、今だって、普通はちゃんと前を見ていろと怒るところだ。それを、自分と一緒ならばそれでいいと言った。
なまえは嬉しくなってへらりと笑う。「しょうがないな」と52も笑っていた。

「……」

朝が来なければいいと思う。
なまえは52に手を引かれている時、このまま、どこまででも歩いて行けるような気持ちになる。
歩いて歩いて、それでも歩いて、でもちっともしんどくはない。転びそうになっても52がいる。52が転びそうになった時に支えられるかどうかはわからないが、一緒にいることと、一緒に転ぶことならできる。
朝が来たら、今日を、あるいは明日、明後日を生きる為に52はどこかへ行ってしまうので、なまえには手を繋いで歩いているこの瞬間がなによりも幸せだった。
ふと、足を止めたら太陽も登るのを待ってくれるかもしれないと立ち止まってみる。
52は振り返って心配そうになまえを覗き込んだ。

「どうした? 疲れたか?」

どこか痛むか、体の調子が悪いのか。さっきどこか捻ったのか。右側だけになってしまった紫色が不安で歪んでいた。

「なまえ?」

空が明るくなってくる。
足を止めても、やはり、時間は止まらないらしい。なまえは大丈夫だと首を振って歩き出した。52はぎゅ、となまえの手を握り直す。

「離すなよ」

時々言ってくれるその言葉に、本当は声で、自分の言葉で「離さないよ」と応えたいのだけれど。ぎゅ、と52に比べたらささやかすぎる力で手を握り返すことしかできない。
52が前を向いて歩き出したから、ばれないようにほっと息を吐く。
今日も、離すな、と言ってくれるんだね。今日も、離さないでいいんだね。52はなまえを置いていくことも、なまえの手を振り解くこともできるのに、必ずこうして手を握って進んでいく。ああ。離したくない。離さないで欲しい。
二、三歩小走りになって52の傍に寄る。
普段日の当たらない場所にいることが多いせいで、太陽の光が目に沁みる。太陽神様。
太陽神さま、どうかお願い。

私達を、引き裂かないで。



なまえはぼんやりとこちらを見上げていた。
52はそっとなまえの手に触れる。

「ごめんな、なまえ」

なにを謝られているのか、なまえにはわからない。ただ、ぽた、と手の甲に水が落ちた気がした。元々、何かを言う、ことはできないけれど、何かを言わなければいけない気がして口を開く。「ふぁいぶつー」声にはならない。

「ごめん」

謝らないで欲しくて手を握り返そうとするのだが、上手く力が入らない。なにがあったんだったか、上手く思い出せないまま、ただ、52の顔を見上げている。52にこんなに悲しい顔をさせているのは誰だろう。笑っていて欲しいのに、指の一本もまともに動かない。

「俺の心を置いていくから、許してくれ」

52のちょっと広めの額と、なまえの額とが触れて、52の手のひらがなまえの胸の真ん中に置かれる。なにか、あたたかいものを渡された。52の炎に似ていて、熱が全身に広がる。

「だいすきだ、なまえ」

とてもあたたかくなったから、目を閉じてしまった。
私もすきだ。声に出して言いたくて、なんとかできないかと練習したりもしたけれど、とうとう自分の声で伝えることはできなかった。きっと次に目を開けた時、52はどこにもいないし、迎えに来てはくれないのだろう。
私を一人にしない為に、心だけ置いて、行ってしまった。

「……ぅ」

嗚咽になりきらない、空気のような音が漏れる。
あたたかいベッドの中で目を覚ますと、やっぱり、予感通り、52の姿はない。今日からは、52の無事を祈ることしかできない。痛くても疲れても、大丈夫かと聞いてくれる人がいなくなってしまった。強がりを聞いてくれる人も。小さな幸せを分け合える人も。なのに。ああ、それなのに。
こんなに寂しいのに安心している自分もいる。自分の心の代わりに、52の心が入った胸を撫でる。

52は、私の心を持ったままだ。

返す、とは一言も言わなかった。
それがなによりも嬉しくて。
どうにか、起き上がれそうだった。
とは言え、寂しくて悲しいのは本当だ。何でだったか全身も痛い。つ、と頬を水が伝うと、知らない女の子が、それをハンカチで優しく拭ってくれた。
なまえはその女の子の姿をようやく、しっかりと確認する。気弱そうな細い体。大きな目は快晴の空のように澄んで、金色の髪が朝日を受けてキラキラ光っている。着ている服は、修道服だ。声が出ないが、この言葉くらいなら通じるだろうか。へらりと笑って、口を動かす。

「!」

通じた。
通じてしまった。だろうか。なまえの世界が一つ広がった。52でなくても、このくらいの意思疎通なら簡単にできてしまうのだと、また、涙が出そうになったけれど。

「ありがとう……? 今、ありがとうって言ったんですか?!」

女の子があまりに嬉しそうに笑うから、泣くのはやめた。



「ジョーカーって、たまに、心がここにないみたいな顔してるよね」

当然だ。心はここにはないのだから。流石に鋭い。ジョーカーはそう思うが「何言ってんだ」と誤魔化しておいた。誤魔化してから、この男にならば話してしまっても良かったのかもしれないと後悔する。
自分の心は、一人の女が大事に大事に持ってくれている。そして自分は、その女の心をそれはそれは大切に持っている。だから、だろうか。心がここにないような感覚は時折あるが、別に寒さは感じない。なまえもそうであればいいと願うしかできないが、この状態が不自由だと思ったことは一度もない。……いいや、嘘だ。だが、本当だ。

「わざわざ誤魔化すところとか、なんか怪しいけど」
「なにもねェよ」

なまえが言った通りに、心はなまえが持っていると思うと、色々なことが思う通りにできるようになった。大して面白くない時に笑う事も簡単にできるし、痛みにも苦しみにも強くなった。そして何より。

(俺が志半ばで死んだとしても、なまえを一人にしないでおける)

ああ、と思う。きっとなまえも同じようなことを考えていたに違いない。

「もしかして、誰かにあげちゃったとか」

そしてこの科学者様はつくづく勘が良い。話してやってもいいが、話してしまうと思い出になってしまいそうだった。

「そんなことするような男に見えるか?」

人が必死に誤魔化そうとしていると言うのに、何を言ってもヴィクトル・リヒトは納得せず、更にはこんなことを言ってのける。

「君の心、迎えに行ってあげないの?」

はッ。と、思わず笑ってしまう。誤魔化すのも流してしまうのも忘れて、あの夜、なまえに心を押し付けた夜から何度も何度も繰り返している言葉を声に出す。

「これでいい」

それは肯定のようなものだが、関係ない。
そう言わずにはいられなかった。

「俺達は、これでいい」

リヒトはようやく込み入った事情があるのだと察してくれたらしく、すっと真面目な顔になった。そうだとも。心はここにないし、自分はと言えば愛してやまない女の心を持っている。リヒトから「そうなんだ」と律儀に返事が返ってくる。これがなまえならば、こくりと静かに頷くのだろう。「そうだ」

「これで、いいんだ」


 

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