実験にはちょうどいい距離/リヒト


まあそれはきっと、事故のようなものだったのだと私は思っている。ぼうっとしていて転びそうになって、少しの間手を引かれた。その子がまた学校でなかなか人気のある男子だったものだから、見ていた友達に「流石のなまえもあれにはドキドキしたんじゃない?」とからかわれてしまった。
どきっとする、と言うよりは。

「どうしたの? なんかぼうっとしてない?」
「え、ああ、すいません」
「ううん。大丈夫? 体調良くない?」
「いえ、そんなことは」
「ちょっと休憩しようか。はい、あーん」
「……」

この人はまた。と思うが、大人しくぱか、と口を開く。リヒト先生は迷いなく私の口に青い飴玉を押し込んだ。

「……まだ早いんじゃなかったんですか?」

からからと飴玉を舐めながら言うと、先生は椅子を回して私に背を向け「なにか飲み物持ってきてあげるよ」と部屋から出ていった。がん、と一度壁にぶつかっていたが大丈夫だろうか。……どう見ても動揺している……。

「ふ、」

面白い人だな。
あの人はいつも私の前で何と戦っているのだろう。なんだか底が見えなくて怖いなと思ったこともあったのだけれど、今となってはよくわからないところもそのまま面白がれるようになった。

「お待たせ」
「ありがとうございます、ところで、先生」
「ん?」
「先生は誰の口にもこうやって軽率に飴玉突っ込んだりするんですか?」
「ええ……? するわけないじゃないこんなこと……君の前でだけだよ僕がこんなんなのは……」

それもどうなのだろう。嘘か本当かわからないけど、本当の言葉っぽいな、と思いながら本題に行く。できるだけするりと聞いてしまいたい。「じゃあ、」

「バランスを崩して、その時支える、だけならともかくしばらく手を引かれるっていうのは、どうなんですかね」
「……、え? 手を引かれた? だ、誰に?」
「クラスメイトの」
「男の子……?」

こく、と頷くと、リヒト先生は若干赤かった顔を青くして私の顔をじっと覗き込んでいた。私は少し疲れているのかもしれない。今とても不思議なことを考えた。……この人に、抱きしめて貰えたら、落ち着くかもしれない。なんて。

「それはおいておいて、先生」
「置いとくの……」
「先生の手、触っていいですか」
「だっ……!?」

駄目、の頭文字かと思ったが「そんな大胆な……」「ド直球だし……」「これはどう解釈したら……?」とブツブツ言っている。駄目では無さそうだ。
あの時。
手を握られた時、は。

「や、優しくしてね……?」
「なんですかそれ……」

差し出された手に、そっと触れる。細くて長いけど私の手よりずっと硬い。きゅ、と指を絡めてみると、大きさの違いがよくわかる。

「先生の手、結構大きいんですねえ」

咳払いを更に圧縮したような呻き声が聞こえて顔を上げると、先生は私から思い切り顔を逸らして、反対の手で顔を覆っていた。

「……だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫。気にしないで。僕のことはいいから続けて」
「でももう、いいですよ」
「もういいの!?」
「?」
「ええと、それで、なにかわかった?」

「ええっと、」身を乗り出して答えを待つリヒト先生を見ていると、焦って大きく開かれた黒い瞳と目が合った。何を考えてるのかはわからないが、ふふ、と笑ってしまう。

「あれは別に、大した出来事じゃなかったってわかりました」

あの時はなんでかヒヤリと、いや、ぞくりと? したけれど、リヒト先生の手に触れるととても安心した。友達に言われて不安だったが、手を引かれたくらいでは、恋に落ちてはいなかった。

「私、リヒト先生の手、好きかもしれません」
「え? 僕が好き?」
「手が好きです」
「本体も好きになってくれていいんだよ?」

うっかり心がどきりと音を立てた気がしたけれど、聞こえなかったフリをした。


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20200130:ヴィクトルリヒトを測りかねてる(私も)

 

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