こちらはお客様限定商品です/ジョーカー


俺じゃなくてもいいだろ?
そうかもしれない。
でも――。
私は。



オフィスにまで雨音が聞こえていたから知っていたけれど、雨が降りすぎて水たまりが存在しない。道路が等しく一センチ程冠水している。
なまえは、知ったことか帰宅するのが最優先だと道路に踏み込むが、三秒で靴が浸水した。大したことではないと大自然相手に強がってみせるのは早々に止める。大粒の雨が傘に落ちて来る音を聞きながら、隣を歩く人間に聞こえるくらいの音量で溜息を吐いた。
気圧の変化、なんていうものを気にし始めたのは最近だけれど、そうでなくても雨の日は憂鬱だ。荷物も増えるし歩き方が余程ヘタクソなのか靴も濡れる。だというのに、梅雨の季節は殊更雨の日が増えると言う。
こんな日は誰かが隣を一緒に歩いてくれたら気が紛れるのかもしれないが、ないものねだりをしても家は迎えに来てくれないのだと足を進める。ふうッ、と口をすぼめて鋭く息を吐き出すことで気合を入れる。
雨の日には外出したくない。買い足さなければいけなかったものはなかっただろうか。なまえは今日これからをできるだけスムーズに生き抜くために思考する。ひとまず買い物は必要ない。早々に片付けなければならない用事もない。帰ったら、靴を乾燥機の上の乗せて、着替えて、そうしたら。
ざり、と重たい足音が雨音の踏みつぶすように聞こえて来て、なまえはぱっと顔を上げる。
男の子だ。
傘も指さずに、髪も体も服も全部ぐっしょりと濡れている。左目の上の眼帯と、艶々とした黒髪が妙に色っぽい。右目は、見つめているとくらっとするような鮮やかな紫で、口元は一切の弱さを吐き出すまいときゅ、と引き結ばれていた。
男の子は、ぽたぽたと雨水を滴らせながら、真っ直ぐになまえを見ている。

「なあ」

あまりに真っ直ぐなものだから、周囲を確認する余裕もない。男の子から目が離せないまま、なまえはごくりと唾を飲み込んだ。とても、綺麗な子だ。

「俺を、一晩買ってくれ」

ざああああ。雨がひどい。なまえは目を見開いて、ようやく周囲を確認する。なまえが借りているアパートの前。御近所さんの姿はない。いや、ちっとも安心できないが。

「……なんて?」
「聞こえなかったのか? 俺を一晩買って欲しいって言ったんだ」
「いや、いやいや。そんなバカな」

そんなバカな。改めて男の子を見る。雨がひどくて全身びしょぬれで、なまえはさっきまで靴が濡れただけで嫌で嫌で堪らなかったと言うのに、この子、は……。

「買ってくれるのか?」

男の子に、自分の傘を差しだしたせいで、頭、肩、スーツにシャツ、全部が風雨にさらされ水の色が足されていく。体は水を含んで重くなっていくが、頭は冷静になってきた。

「私は、未成年に手を出す趣味はないよ」
「……未成年じゃない。もう二十歳は過ぎてる」
「そもそも、そんなもの」

私じゃなくてもいい。
なまえはそう言いかけてぐっと言葉を飲み込んだ。東京皇国はそこそこに広い。だというのに、私だったのだ、と考え直す。私だった。何人目なのかはわからないが、今日、この日は私だった。なまえはじっと男の子を見詰めていると、「あ」と、小さく声を漏らした。

「?」

首を傾げる男の子に向かって、なまえは、に、と笑って見せる。
今日この日だったことは、かなりラッキーなのかもしれない。発想は見事に転換された。今家に、こんな雨などくらべものにならないくらいの苦行が待っているのを思い出した。

「よし! じゃあ買った! 今日はよろしく!」
「……ああ」



「風邪引かれたら嫌だから」と男の子を風呂に押し込み、家族が来る時に使われている部屋着を貸し与えた。なまえも濡れたが、彼程ではない。タオルで簡単に拭き上げてジャージに着替える。部屋を温めて、適当にあたたかいココアとお茶(どちらかは飲めるだろう)を用意して、キッチンの隅に追いやってあった段ボールを三つ、リビングに持ってくる。

「……」

タオルで髪を拭きながら、男の子がリビングに入って来る。目で、なにをやっているんだと問うている。なまえは「ああ、ドライヤーそこに出しといたから」と、去年の冬のボーナスで物は試しだと衝動買いしたピンク色のドライヤーを指さした。
男の子は素直に髪を乾かしながら、なまえの様子を観察していた。
リビングに古い新聞紙を敷き詰めて、その上に段ボールをひっくり返す。ごろごろと出て来たのは大量のとうもろこし。とうもろこしだ。皮も髭もついている。
ここで、ようやく。

「なに、やってんだ」

男の子の声に、なまえは「ああ!」と目を輝かせて答える。

「実家から送られて来たんだけどちょっと量がね。だからこれ、手伝って」
「なんで俺が」
「なんでって。今晩は私が君、ええと、君なんて呼んだらいい?」
「……52でいい」
「52くんを買ったから。だから手伝ってよ。手伝ってくれたら今日は泊まって行ってもいいし、食事も用意します」
「……」

52はじっとなまえを見ていたが、とうもろこしを一つ掴んでくるくると回しながら言った。

「これを、どうすればいいんだ」
「皮を剥いで髭をむしって欲しい」
「え?」
「一つやってみるから見てて」
「わかった」



なまえは顔の中心に影を集めて、まるで親の仇討ちでもするかのような顔をしてとうもろこしの皮を剥いていた。52となまえとの間に会話はなく、ほぼ無言だった。なまえはどうやら、この作業が嫌いなようだ。とうもろこしの皮を剥きながら何度かなまえを盗み見るが、今にも発狂しそうなのを押さえて手を動かしていた。
皮むきは、ぎっつり一時間もかかったけれど、なまえがおかしくなることもなく無事に終了した。なまえは山積みになった皮と髭とをゴミ袋に押し込みながら「終わった!」「すごい!」「土日潰して頑張らなきゃいけないと思ってたのに一時間で!」「助かったァ!」と楽し気に後片付けをしている。それを真似て手伝うと、なまえとぱちっと目が合った。

「ありがとう! 52くん!」

はじめて言われたわけではないのに、響きが、他とは全く違っている。
ぎゅ、と胸の辺りが苦しくなって目を逸らす。その笑顔はただ目先の面倒事が片付いて嬉しくて堪らない、という笑顔だとは思うのに、彼女の持つきらきらした全てのものが、自分に向いたような気がして熱くなる。――あの時と似ている。

「さて、次なんだけど」
「まだあるのか」
「52くん、料理したことある?」
「……料理?」

地下での生活を思い出す。できると言って丸ごと任されても困る。しかし、ここで叩き出されるのはもっと困る。隠し事はたくさんあるが、嘘を吐くのは気が進まなかった。数秒考えて、恐る恐る首を左右に振る。なまえは「よっしゃ!」と袖を巻くって、俺に黒いエプロンを被せて。

「ふふふ、今日はとうもろこしのフルコースだよ」

友達にするように、に、と笑う。
へんなやつ。フツウは、突然押しかけて来た男に、こんな風に笑ったりできないはずなのに。



「秘蔵のメンチカツも揚げよう」
「それは何分揚げるんだ?」
「えーっと、百七十度五分」
「よし」

雨の中で濡れながら突っ立っていた男の子とは別人のようだ。52はとうもろこしの皮むきも始終楽しそうにしていたし、なまえの後に続いてなまえがやることを予測したり、わからなければ次はどうするのかと聞いたりしている。

(楽しそうだ)

危ないかもしれない、とも思ったのだけれど、危なくないかもしれない、とも思った。つまるところ、なまえにはこの先どうなるのかわからなかった。わからないのならしかたない。彼が声をかけたのは自分だった。偶然か狙っていたのかわからないが、自分だったのだから。
心に従って、それでひどい目に遭うのなら仕方がない。その時呪うのは自分でいい。

「はい、完成」

今日の晩御飯はコーンクリームコロッケと茹でたトウモロコシ、コーンサラダと白米だ。自分一人ならばこれでいいのだが、52がいることを考えて冷凍のメンチカツ(明日の弁当用だったが問題ない)を揚げた。
テーブルに二人分用意すると、52は居心地が悪そうに眉間に皺を寄せた。

「……、誰か帰って来るのか?」
「へ?」
「二人分」

なまえは思わず52の両肩を掴む。

「君の!」

驚き過ぎて必死な声が出た。
これだけ手伝っておいて、なんで自分のじゃないと思うんだ。……、過去にそういうことがあったのかもしれない、と、余計なことを考えると、つい、頭を撫でてしまった。今度は52が目を丸くしてなまえを見る。

「……そういうわけだから、ほら、食べよう」

いやしかし、まあきっと。
弟が居たらこんな感じなのかもしれない。親戚の子供と仲がよかったらこんな感じなのかも。頭を撫でるくらい大したことではない。なまえは必要以上に大袈裟にはせず、ぱっと頭から手を離した。



出て行く時も、雨が降っていた。
昨日程の勢いはないが、それでも何も持たずに外に出たら、すぐに全身ぐしゃぐしゃに濡れてしまうだろう。音のしない部屋を振り返る。
なまえは本当に俺には指一本触れず(肩を掴んで頭を撫でただけだ)、寝る場所もしっかり別々だった。着て来た服も洗濯されてしっかり乾いていて、袖を顔に近付けるとなまえと同じ匂いがする。
濡らしてしまうのは惜しいが、こればかりは仕方がない。いつの間にやってくれたのか、泥も砂も落とされた、何日ぶりかの乾いた靴に足を入れる。
玄関の扉にかかっているものを退かそうと持ち上げると、メモが張り付けられていることに気づく。「ありがとう。助かりました。よかったら」とだけ書かれたメモ。「よかったら」なまえの声で再生される。

「!」

ビニール袋の中身は、おにぎりが二つと、黒い折り畳み傘。それから、薄い茶封筒。封筒の中にはいくらかの現金が入っていた。驚いてまたなまえの寝室の方を振り返る。「よかったら」言葉の意味はわかる。邪魔になるようなら持って行かなくてもいいということだ。でも、そうでないなら、貰ってくれと、そういう意味でもある。

「……本当に、変な奴だな」

どう考えたって厄介者なのに。
とうもろこしの皮むきは、きっとなまえにとって、とんでもなく苦行だったに違いない。52は現金をポケットに捻じ込んで外に出た。
昼頃までは確かに、体からあの家の匂いがしたのだけれど、その日の夜にはすっかりわからなくなってしまった。



52とはおそらくそれきりになるだろうと思ったのだが、予想に反して二週間後にまたふらりと現れた。「俺を一晩買ってくれ」とそう言う声は、はじめて会った時に比べたら大分柔らかくなっていた。
間隔は、三日だったり、一週間だったり。一か月間が空いたこともある。けれど、ふらりとやってくるのは変わらなくて、彼が家に泊まって行った日が片手では数えられなくなった頃、なまえもすっかり慣れてしまって52の姿を見つけると手を振って駆け寄った。

「いいところに来たね」
「今日はなんだ?」
「じゃがいもの皮むき」
「じゃあ今日はじゃがいものフルコースか」

52の方もすっかり要領を掴んでおり、なまえがやってほしいこと、やりたいこと、普段やっていることを理解していた。会う回数が増えれば必然気安くなる。今日が何度目だったか数えるの止めた頃、52を撫でる手にも迷いがなくなっていた。
52もなまえに撫でられるのが嫌いではないようで、手伝いを終えると、すっとなまえの右側に寄り、なまえのやわらかい手のひらが頭に乗るのを待っていた。なまえがそれに気付かないとそれまでだったのだけれど、回数を重ねるととうとう52から強請るようになった。

「あれ、やってくれ」
「あれ?」
「ん」

頭をさし出されて、なまえは「ああ」と納得しながら頭を撫でる。
しばらくそうしていると、52はぽそりと「アンタ、ほんとうにへんなやつだよな」と。

(あ、)

笑った。
ように見えた。

「……」
「……なんだその顔?」

笑っているところは見たことがないが、感情はよく顔に出ているから、なんとなくわかっている気でいたのだが。こうして、実際笑っているところを見てしまう、と。なまえはじっと心の底から湧き上がる四文字の言葉を首の辺りで留めていた。

「すごく、言いたいことがあるんだけど、言われても52くんはきっと嬉しくないと思うから、黙ってる、顔」
「言えばいいだろ」
「いやいや。きっと嬉しくないよ」
「教えてくれ」

なまえは52から目を逸らしていたが、くい、と服を引っ張られて目を合わせる。52の考えていることは大方なまえにわかってしまうのだけれど、なまえの考えていることは52にはわからないらしい。
現に今も、自分がなにかなまえの気に障ることをしたのではと不安がっている顔をしている。
そうじゃない。
そうじゃなくて。

「かわいい」
「か……」

52はなまえから手を離して、視線を下方に泳がせる。

「かわいくなんかない……」

落ち込んだようにいじけたようにソファの方へ行って丸くなっている。笑ってはいけない、となまえは飲み物の用意をし始めるのだけれど、いつもならばなまえのやることなすこと全て52が手伝うものだから、落ち着かないのだろう。52はちらちらとなまえの方を振り向いてなまえの動向を気にしている。
かわいい。
つい口から出そうになるがどうにか飲み込んで。なまえはマグカップを二つ持ってをソファに近付く。

「ごめんね」

自分以外の誰かに、俺を一晩買って欲しい、と言って、その言葉通りに、甚振られたりすることもあるのだろうか、と思うと、何度だって胸が痛んだ。



次、来た時。「ずっとここにいてもいいよ」と言ってみようかとなまえは考えていた。だから、なのだろう。52はなまえの家の前で立っていることはなくなった。町に出れば姿を探したけれど、何年も、一度も見かけることはなかった。
元気にやっていればいいのだけれど。
できることならば、もう、自分を買って、なんて言っていなければいいのだけれど。
太陽神様に申し訳程度にでも彼の無事をお願いしておこうと教会に通った日もあったけれど、時間が経つと思い出す頻度も減ってしまったし、教会に足を運ぶこともなくなってしまった。
それでも今日思い出したのは、目の前に差し出された宝石の色から、雨の音がした気がしたからだ。

「受け取ってくれ」

目の前に座る男の顔を見るのも忘れて、宝石を見ていた。
幻想の世界、星の輝く夜の様な紫色。

「……なまえさん?」

名前を呼ばれてはっとする。
そう言えば、彼には名前を名乗らなかったし、彼にそう呼ばれることもなかったな、と。
なまえは慌てて顔を上げて「ありがとう」と頷いた。「俺が付けるよ」と細いチェーンが首に巻かれて、鎖骨の上でちゃり、と音を立てる。

「似合ってる」

あの子は。上手く、笑えるようになっただろうか。

「ありがとう」
(ごめん)



その日の夜は夢を見た。
過去の出来事を夢で見るのははじめてだった。
折角忘れていたのにひどいことをする。

「お前には、俺じゃなくてもいいだろう?」

そうかもしれない。
と、私は言った。そうかもしれない。貴方じゃなくてもいいように、私でなくてもいいのかもしれない。

(でも、)

私は続けるつもりだった。そんなことははじめからわかっていたことでしょう。貴方じゃなくてもいいかもしれない、私じゃなくてもいいかもしれない。人間ってそういうものだ。でも、好きだと、付き合おうと決めた瞬間は、貴方がいいと思っていたし、私がいいと思ったはず。
貴方じゃなくてもいいかもしれない。でも、私は。

(貴方が、よかったよ)

俺じゃなくてもいいだろう? 呪いのようにエコーがかかる。
私の最後の告白は言葉にするのも許されないまま「ここまでだ」とばっさり打ち切られた。そこまで言われたら、縋りつく気にはなれなかった。私は、そういう女だった。



飲み過ぎたらしい。最悪の目覚めだ。そして仕事だ。
頭の痛みをどうにかしようと暇さえあれば水を飲んでいたのが功を奏したのか、昼過ぎにはもう二日酔いのことは忘れていた。
ただ、夢の事は覚えている。夢と言うかあれは現実にあったことだ。
雨の中、首に張り付く髪を指先で流すと、髪と一緒に細いチェーンが引っかかる。その、紫色にはやや勇気を貰えるけれど、だんだん後悔しはじめていた。こんなもの、受け取ってよかったのだろうか。
いや、おそらく色が紫でなければ受け取っていない。

(最低なんじゃないか……? いや、最低だ……)

落ち込んで来た。
このネックレスは気に入ったが、それを贈られる意味というものにようやく考え至り、今この場に居ない人間にごめんなさい、と繰り返す。うまくいった、と思われていたらどうしよう。いいやどうしようもこうしようも。

「よう。辛気臭い顔してどうした?」

顔をあげるとまず、見覚えのある傘の持ち手だ。なんだったか、と考えながらもう少し視線を上へ。黒髪に、隻眼。瞳の色は。

「……随分」
「ん?」
「随分、悪い顔して笑うようになったね」
「なんだそりゃ」
「今日は、そう、だなあ。掃除くらいしかやってもらえることはないかなあ。先週だったらミニコーンの地獄の耐久皮むきレースできたけど……」
「いいや、今日は俺を買って欲しいわけじゃねェよ」

懐かしいなあ、とその気持ち一つでなまえは笑った。

「ああ、そうなの?」
「そうだ」

なまえはじっと、その男の人を見上げていた。髪もそうだが。背も伸びて、纏う雰囲気も大人っぽくなった。いやもう立派な大人か。それから体。体も成長している。これだけの体を作るためには、一体、何が必要だったのだろう。
全く知らない人間が目の前に立っているような気も、家族同然の人間が目の前に立っているような気もした。
ふる、と彼の唇が震える。
あれ、それは、あの子もよくやっていた。

「今日は」

それは。

「今日はアンタの人生全部売って欲しいって口説きにきたんだ。入れてくれ」

あの男の子が、勇気を振り絞る時にしていた、動作だ。



なまえは俺の顔を見上げながら、いつだかと同じ顔で目を見開いて口を開けている。……ちょっとくらい、照れるとかなんとかして欲しいもんだが。やっぱり今のところは、弟のようなものに見えているのかもしれない。見た目で態度を変えてくれるような女でないことは、よく知っている、けれど。

「あ、ああー、ええ? そういうことを言えるようになってしまわれたの?」

あの時、俺はどうやってこいつに甘えていたか思い出す。

「……好みじゃなかったか?」
「いや、いやあー……」

……もしかしたら、アリなのかもしれない。
俺は一歩なまえに近付く、なまえは逃げずに俺を見上げた。照れていない、わけではないらしい。ひとまずほっとするが、その胸元に、なんだか。どうにも、見過ごせないものが光っていて動揺してしまう。嫌な予感。これは男の気配だ。

「それ、貰ったのか?」
「え、ああ、あー、これね。いやこれはまあ、気にしないで」
「あ? 気にしないでってのはどういうことだ?」
「これはあれ。ちょっと。ほら。いろいろあるじゃんね?」
「……」
「大丈夫大丈夫。うん。ちゃんする。ちゃんと……」

意気揚々と(実際はかなり葛藤があったし、待っている間も落ち着かなくて有体に言えば緊張していた。恐らく人生で一番緊張した)口説きに来ておいて、まさか。いや、そうだ、あの日だってなまえには好きな奴がいたわけで……。今、フリーでいる保証などどこにも……。

「男、か……?」
「えッ」

なまえはしまったという顔を隠しもせず俺を見つめる。「あー」とか「うーん」とか唸った後。ぴと、となまえの指が俺の頬に触れた。一秒後に、むに、と頬をつままれる。

「なんて顔してるの」
「なあ、男に貰ったんじゃねェのか」
「まあまあまあまあ、これはまあ、なんにもないから大丈夫だって」
「おい、なまえ、」

誤魔化すな、と続けようとして、今度は俺がしまったと言う顔で固まる番だった。

「ん? ああ、私の名前知ってたの?」

俺は大きく溜息を吐いた。クソ。そんなのははじめて家に行く前から知っていた。こいつはなまえだ。八つ当たりも上手くできないような不器用な奴で、涙の一滴で人を許してしまう優しい奴で、ただ自分のところに来たという理由だけで親切にしてしまうお人よしだ。知っていた。知っていたが、いろいろ世話になりすぎていたのもあって聞かないでいた。いつか、いつか「買ってくれ」なんて方法じゃなくて、真正面から人間として、名前を教えて貰おうと思っていたからだ。
俺があまりに落ち込むせいで、なまえは慌てて見当違いのフォローをしている。

「え、なに? 別に知ってても引いたり驚いたりしないけど……、免許書とか社員証とか、名前なんていくらでも……」
「違う。名前は、アンタに教えて貰ってから呼ぼうと思ってただけだ……」

なまえは「あー……」と納得したんだか空気が抜けたんだかわからない声を出して、ふく、と笑顔を堪えていた。ああ。その顔。

「なんだそれ……かわいい……」

なまえは俺の頬(頭には届かないから)を撫でながら「安心した。相変わらずかわいい」と頷いている。

「何にも嬉しくねェし俺は安心できねェよ」
「実は結構変わってないね?」
「かわ……って、ねェ、ことはねェだろ。いろいろ」
「そう?」
「そうだよ」

そうかもしれないね。
なまえがそう言ったからドキリとした。なまえをはじめてみた時、なまえが最初に言った言葉がそれだった。そうかもしれない。なまえはそう言って、じっと眼の前に座る男を見ていた。
同じ店に居合わせたのは、その日はその店で雑用をしていたからで、会話を聞いていたのはたまたまだった。「俺じゃなくてもいいだろう?」と、それは別れの言葉だと俺にもわかった。
女の方は怒るのか悲しむのか、気になって見ていると、女はただそっと微笑みながら「そうかもしれない」と言った。「でも、」と、何かを続けようとしていたから、俺はつい身を乗り出してしまっていて店主に殴られた。顔を上げると会話はもう終わっていた。「でも、」なんだったのだろう。何か言ったのだろうか。言わなかったのだろうか。……言えたのだろうか。言えなかったのだろうか。わからないまま。
女はしばらく一人でその席でぼうっとしていたが、その内、つ、と涙を一滴だけテーブルに落として、すぐに立ち上がった。
俺はその女の後ろ姿をじっと見ていて、店から出て行く背中をつい追いかけてしまう。袖を引いてただ隣に居てやりたいような気持になった。しかし、五歩進んだところでまた店主に殴られてその日は何もできなかった。

「うん。元気でよかった。大きくなったね」
「……だろうが」
「うん」

部屋に入るなまえに続いて、いつだかと同じようにかちゃりと鍵をかける。

「あー、掃除、してやろうか」
「口説きに来たのに?」
「……口説いていいのか」
「っ」

なまえはコートをハンガーにかけてからその場に崩れ落ちる。何事かと近寄ると小刻みに震えている。こいつ……、笑っていやがるな……。人が格好付けようと必死になっているっていうのに。なんて呑気な。無理矢理組み敷いて襲うことだってでき……、まあそれは、あの時でもできたけれど。

「笑ってんじゃねェよ」
「わ、わらってない、わらってない」
「笑ってんじゃねェか!」
「笑ってはないって、ただ、かわいいなあと思って……」
「かわいいはやめろ!」
「だってかわいいんだもの……、頭撫でてもいい?」
「だからやめ……なくてもいいけどだ!」
「ふ、ふふ……、やめなくてもいいんだ……」
「……」

顔を上げたなまえがあまりにも楽しそうに笑っているので、もうなんでもいいかと大人しく頭をさし出した。帽子を取られて、さらさらと撫でられる。今顔を見たら、また間抜けな顔で笑っているのだろうか、と、ちらりと視線を上げる。
細められた目と、無邪気な口元、そして作られる柔らかい空気に、体の中心がどきどき言い始めた。ああ、だから。そうじゃねェよ。俺はもう恋に落ちなくてもよくて。そうじゃなくて。

「かわいいって言っていい?」
「駄目だ。かわいいは禁止」
「そんな……、こんなにかわいいのに……?」
「嬉しくねえんだよ」
「そうかあ……、私はかわいいひと大好きだけどね」

直視できなくて逸らしていた顔を、ば、と元に戻す。好き?

「今、好きって言ったか?」

俺はどんな顔をしてなまえを見ていたのだろう。なまえは一瞬固まったと思ったら、また腹を抱えて笑い出す。

「っ、う、ふは、あははははは!」
「このやろっ、年下の男をからかって遊ぶんじゃねェ!」
「いや、からかってる、つもり、は、ふふ、あははは」

なまえはひいひい言いながら、笑いすぎて遂には涙が出て来たらしかった。また素直に俺の心臓がどきりと言う。ああ。泣き笑いにも種類があるんだな。
今日のところはとても口説くなんて雰囲気ではなくなってしまったが、まだ機会はある。必ず、必ず口説き落として……。

「ふ、ふふ。ああ、楽しい」

悪戯に、なまえがぎゅ、と俺を抱きしめた。時間にしたら五秒に満たない時間だったのだけれど、52の時にはなかった触れ合いだ。……だと言うのに、驚きすぎて抱きしめ返せなかった。前途多難じゃねえか。俺は自棄になって言う。

「おら、楽しんだんならなんか礼寄越せ」
「よし、じゃあ夕飯にしよう!」

そうじゃねえ。俺はまた変な顔でなまえを見詰めたのだろう。
なまえは俺が居る間中、ずっと笑顔でいた。



俺じゃなくてもいいだろう?
そうかもしれない。
でも。
その場面を見ていたことは、まだなまえには教えていない。どんな言葉を続けようとしたのかいつか聞きたいと思っていたが、いつの間にか、その答えは俺の中に存在した。
だから。答えはわかりきっているが、してみたいやりとりがある、となまえに言った。なまえはきょとんとしていたが、言って欲しい言葉を伝えると全て得心したと言う笑顔で頷いた。
細められた目が、俺を見ている。

「私じゃなくても、いいんじゃない?」
「そうかもしれねェな」

でも。

「俺は、なまえがいいんだよ」

お前があの日、続けたかった言葉はきっとこれだろう? なまえはふ、となんのしがらみもないまっさらな笑顔で泣いていた。

「私も、君がいいよ」

教会には、俺となまえ。
白いドレスを着たなまえを引き寄せて、人生を誓う、キスをした。


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20200127-8:求婚の日と、いちふじ先生に頂いたあらすじで夢書かせて頂きました。

 

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