知らない誰かと幸せになるより早く/52


これが何という料理なのかとか。部屋が惜しげもなく温かいことだとか。貰った時より綺麗にされたシャツだとか。そういうものすべてに、正しく報いがあればと願う。



驚くほどにぐっすりと眠っていた。朝起きて体が軽いのなんて、もしかしたらはじめてかもしれない。そんな日々が数日続いている。寝具が高級であるとか、部屋の匂いが良いだとか、理由はそんなところにはない。ただ、この空間の主の気がいいのだともうわかっていた。
キッチンの方から音がして、必要最低限の身支度を整えて顔を出す「ああ、おはよう」と笑う彼女は変わらず穏やかだが、あまりにも邪気のない笑顔を向けられて目を逸らす。この人は、怪我をして弱っていた俺を迷いなく助け、傷の手当をして、「治るまでいたらいい」と笑っていた。暗部の連中を一撃ずつで倒す姿はしっかり脳裏に焼き付いて、それだけ強ければ、こんな風に、迷いなくどこの誰とも知れない人間を助けることができてしまうものなのだろうかと疑問だった。
そして、強すぎるが故に、助けられたわけではないのかもしれないとも考えた。すなわち、俺をどこかに売り飛ばすつもりだとか、何か別の目的があるのではと。しかし、三日が経過してもそんな素振りは全くなく、かなり手厚く手当されているので、その心配は二日と持たなかった。
はっきりとした性格のこの人は「どうして助けたんだ」と聞くと「どうして助けないでおくの」と逆に聞いてきた。その言葉は質問ではなく、なまえ(その人はなまえと言うらしい)は「傷だらけの美少年を助けることなんて、そうそうないよ」と続けた。
だから、これはただの『縁』なのだと、縁は円で、巡るものなのだからまあそういうこともあるのだと。

「そんなところで立ってないで座ったら?」
「……これ、もう使わないやつだろ。洗う」

朝食の用意はもうほとんど終わっているようだったが、サラダの用意をしているなまえの横に立って、蛇口をひねった。卵を焼いたのに使ったらしい小さいフライパンと、フライ返しが置いてある。「気が利くなあ。ありがとう。すごく助かる」と言われてしまった。「別に」と返してから、「おはよう」の挨拶を返していないことに気づく。明日こそは、と誓いを立てた。



なまえが仕事に行っている間は部屋で安静にしている。俺を追いかけている連中がいつ乗り込んでくるともわからないのだけれど、どうしてか、あまり気持ちが焦らないし、ここならば絶対に大丈夫だという安心感がある。
ただ、保証はないので警戒はするけれど、結局、なまえの作った空間や、自分ののついでに作って置いて行った弁当が美味くて忘れたりしている。……忘れる、だなんて、考えられないことだ。これがいいことか悪いことかはわからないが、その内また、追われる生活に戻ることを考えると、少し恐ろしい。あのひりひりした感覚を、忘れないようにしなければならない。
昼頃に腹が減って弁当箱を開けると、よくわからない形に切ってある赤いウインナーが入っている。はじめて食った時からなんだか面白くて気に入っていたのだが、今日は本数が増えている。気に入っているとバレているらしい。どうしてわかったのだろうか。なまえはもしかしたら、他人の考えていることがわかってしまうのかもしれない。




夕方頃になまえが返ってくると、ひょこりと玄関まで出迎えに行った。
俺の姿を確認すると、なまえは安心したようにふわりと笑う。
鬱陶しがられていないのがわかってむず痒い気持ちになる。

「ただいま。傷、痛まない?」
「痛まない」

そうだ、そう、昨日は、昨日はこれに「おかえり」と返せなくて今日こそはと思ったんだった。玄関で靴を脱ぐなまえに言う。「お、」

「おかえり」

なまえは「うん」と目を細めて口元を緩めて、

「ただいま」

と笑っていた。
俺にはもう、なまえが敵だとは思えないし、悪い人間だと言われても信じられない。これもきっと、俺のこれからのことを考えると良いことではないのだけれど、今だけだ、と思うと、堪能しておかなければ勿体ないような気もした。



夜には、丁寧すぎるくらいに丁寧に包帯を替えてもらうのだが、自分の指とも、他の誰の手とも違う熱いくらいの指先が体に触れると、怪我なんてもう治っているのではないかとさえ錯覚する。傷薬も沁みないし、包帯を替える手順も完璧だ。手当に慣れているのは何故なのだろう。聞いてみようかと思うのだけれど、なまえは俺に踏み込んだことを聞かないから、俺も聞かないほうが良いような気がしていた。
暗部の連中を一撃で倒すくらいに強いのだから、どこかの軍隊か、俺みたいに暗部だとか、特別な訓練を受けていることには違いがない。そうなれば、自分も怪我をしたのだろうし、怪我をした誰かを治療することもあったのだろう。……今、手当慣れしているのは俺にとってありがたいことのはずなのに、怪我をしていないところが痛むのは何故なんだろうか。



「じゃーん、栄養しっかり取れるといいと思って今日は八宝菜です」
「八宝菜」
「どうぞ召し上がれ」
「……」

スプーンを渡されてぴたりと止まる。ふと食器を下ろして手を合わせる。これも昨日は忘れていた。「いただきます」と言うとなまえは楽しそうに笑っていた。「君はいい子だねえ」と。

「いい子は、普通怪しい奴らに追われたりしない」
「いい子だから追われてるんじゃなくて?」
「話した方がいいか?」
「ああ、それはどっちでも。好きにしていいよ。例え『話を聞いた』ことを理由に私がその怪しい人たちに狙われたとしてもあの程度なら負けないもの」
「……なまえは強いんだな」
「まあまあ。えーっと、話した方がいい?」
「……」

聞きたい気もした。けれど、俺はもうとっくになまえのことは信じると決めている。それに、俺はなまえに話す気はないのに、俺だけ聞くというのもやはり、どこか不公平だ。ただでさえ、いろいろ貰ってしまっているのに。

「俺も、いい」

「そっか」と言ったなまえは、体の中にしっかり柱が立っているようにみえてかっこよかった。



包帯が取れた日は、なまえは一日中家に居て、これでもかというくらいに俺を構っていた。
髪を梳かしてみたり、頭を撫でてみたり、いつもより手の込んだ料理を作ったり、風呂から出るとタオルとドライヤーと櫛を持ってきて有無を言わさずソファに座らされて、髪を乾かして貰ったりもした。もしかしたら、これまでも、本当はこうしたかったのでは、と思ったのだけれど、なまえは何も言わないし、俺も嫌ではなかったから大人しくしていた。

「一緒に寝る?」

極めつけはそう聞かれて、俺は反射で。

「寝、ない……」

と答えていた。「そうか寝ないかー」となまえは明るく笑っていた。よく笑う人だ。俺はどうかわからない。

「おやすみ」
「おやすみ」

もう、うっかり挨拶を返し忘れることもない。
布団に潜り込んで、明日の朝にはここを出て行くのだと思うと、一緒に寝ておけばよかったかもしれない、と少し、ほんの少しだけ後悔した。



「じゃあ、出先で適当に食べてね」

と、渡されたサンドイッチを頬張りながら東京皇国を見下ろしている。
出先で適当に、だなんて、またいつでもここに来てもいいような言い方だった。
……実際、そういうつもりで言ったのかもしれない。
なまえは俺が「まだいてもいいか」と聞けば「いつまででもいたらいいよ」ときっと言ったのだろうけれど、甘えてばかりいるわけにはいかない。
俺はすっと立ち上がり、闇に紛れるようにこれからの事を考えた。

「あ、」

挨拶も自然にできるようになったし、手伝うと喜ばれることも覚えたのに。
しまった。
そうだ。

「ありがとうって、言ってない」

つい癖で、明日はきっとと思ってしまって愕然とする。
俺は、明日も明後日も、一人なのだ。



……。
懐かしい夢を見た。
秘密基地の天井を見詰めながら、大きく息を吐き出す。

「……なまえ、か」

思い出すと、今でも胸が熱くなる。
あの頃からちょっとも色褪せてくれないあいつの記憶をなぞると、後悔ばかりが浮かんでくる。

「ジョーカー? どうしたの? 変な顔してるけど」
「……お前、なまえって奴知ってるか?」
「なまえ……? なまえって灰島の?」
「灰島なのか?」
「え? 知ってて聞いたんじゃないの?」
「知らねェ。灰島に居るのか?」
「ジョーカーの言ってる人が同名の別人の可能性はあるけど。――なまえ黒野は、灰島の死神のお姉さんじゃん」
「あー……、そうか。通りで」

思わぬところで繋がっていた。聞いてみるもんだ、と思うと同時に、リヒトが知っているということはもしかしたら、こいつは日常的にあいつに会っていたのではと思い飛び起きる。

「おい」
「うわっ、なに?」
「お前はなまえと親しいのか?」
「え、いや、喋ったこともないよ。ただ、灰島じゃ有名な偉い人ってだけで」
「ならいい」
「なんなの?」

ソファに戻るが、なるほど、灰島。
……。
何度か、会いに行ってみようかと思ったことはある。
巻き込んでみたらなんと言うだろうかと思ったことも。
タイミングよく夢も見た。
灰島の人間、それも上層部なら今更敵が世界になったところで構いやしないのではないか。と言うかあいつはとんでもなく強い女だ。嫌なら嫌だと言うだろうし、そうでなければ協力を得られるだろう。なんだ。躊躇う理由を見つける方が難しいじゃねェか。「なあ、」

「そいつを仲間にできたらおもしれェと思わねェか?」

それが、再会する為に必要な口実だと知っているのは俺だけでいい。



これが何という料理なのかとか。部屋が惜しげもなく温かいことだとか。貰った時より綺麗にされたシャツだとか。そういうものすべてに、報いが訪れる日よ。少しだけ待っていて欲しい。
いつの日か、俺が、なまえに同じかそれ以上のものを返せる日まで。


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20200123:いちふじさんにリクエスト頂いていた52くんを……でろでろに……甘やかす話……? か? でろでろに甘やかす話チャレンジ二度目なのでもう許して下さい……。ありがとうございました!!!!!

↓おまけの黒野さん

「姉さん。最近おかしいんじゃないか」
「どこが?」
「煙草の臭いがする」
「ん?」
「煙草の臭いがする」
「えー……そう?」
「男か?」
「なに?」
「俺という弟がありながら、他所で男を作って来たのか?」
「君という弟がいることと、私に恋人ができることは関係なくない?」
「……」
「なに……」
「恋人、なのか……?」
「いや友達」
「そんな言葉が信用できるか。大人しく俺に紹介しろ」
「嫌だよ絶対喧嘩売るもの。弟が怪我させた相手の手当する私の身にもなってよ……」
「放っておけ」
「こっちのセリフですけど……、ほら、離して、もう行くから」
「待て。今日は俺とデートしてくれる約束だ」
「してませんけどそんな約束」
「今俺が決めた」
「優一郎、私そろそろ怒るけど……」
「……」
「なんか美味しいもの買って帰るから……」
「いるわけないだろうそんなもの。……、早く帰ってきてくれ」
「(なんでこんな風に育っちゃったんだろうなあ……、っていうかここ私の家……)」
「返事は」
「はいはい、わかったわかった」
「よし」


 

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