罪状:抱えきれない程の優しさ03


探す必要があるのか、となまえは仕事中ずっと、いなくなった男の子について考えていた。
あの灰の匂いは依然しているが、空気が湿っているからかやや嗅ぎ取り辛い。何も言わずに出て行ったのは探してほしくないからでは。帰るところがあるのでは。行く当てがあるのでは。何も聞かないでいたのは彼はとても複雑そうだと直感したからだが、それでも、少しくらいは。例えば、名前くらいは聞いておくべきだったのでは。
終業時間になってしばらくぼうっとしていたが、家に猫がいることを思い出して急いで帰宅する。もしかしたら帰ってきているかも、と思ったけれど、やっぱり、猫達がいるだけで、彼の姿はなかった。



夕飯を一人で食べ終えると、雨が降り出した。
集まって丸くなって眠っている猫を撫でる。子猫三匹は起きる度に彼の姿を探している。母親はじっとなまえと目を合わせて一人と一匹で一抹の不安を分け合う。心配ではある。テレビを観て、窓から外を眺めて、所在なさげに部屋で猫と戯れていた姿を思い出すと、今もどこかで雨に打たれているのでは、と。

「……留守番、頼める?」

母猫は一鳴きしてから丸くなった。コートを羽織って、クローゼットから父が使っていたコートを引っ張り出してきた。処分するのを忘れていた物だったが、こんなところで役に立つとは。玄関で傘を二本持って、外に出る。
不安で寂しくてどうしようもないくせに、ちっとも揺れない紫の目がちらついて、雨を掻き分けて進む足は速くなるばかりだった。



ここはどこなのだろう。と改めて考えてみる。
テレビを観ていても、部屋にある本を読んでみても、どうにも、俺が居た場所の常識とはなにもかも異なっている。まるで、まったく違う世界の話をされているような。

「世界が違う……?」

そんなことがありえるのだろうか。起きると突然知らない場所で。ここが外かと歩き回ったがどうしたら良いかわからなくて。しかし。戻りたいとも思えないまま。
けれど、あのままあの場所にいてはいけないような気がして飛び出した。また、なにもすることがないし、できることもないし、行きたい場所もない。状況はなにも変わっていないはずなのに、あいつのことを知った今、世界が突然広く広く、怖いものであるような気がしてならない。
足は、あの場所に戻ろうとする。

「……」

雨が降り出したから、橋の下に入り込む。
そしてやっぱり、思い出すのはあいつのことだ。
出会ってたったの三日だと言うのに、あいつのことばかり思い出す。何も聞かないで、ただ俺に居場所と飯とを与えてくれた女。
聞かれないのは興味がないからかと思ったが、そうではないことはすぐにわかる。ケーキを買ってきてくれたこともそうだが、俺が読み漁ったりしている雑誌の傾向を見たり、飯の時にはどういうものが先に減るのかを見ていたりする。どうでもいい奴にはそんなことをしない。とんでもなく遠回りに、出来るだけ居心地が良いようにと考えられている。
ぐ、と膝を抱く。
昨日までは隣に居て、……、ただ、隣に居た。
部屋とか、飯とか、そういうのではない。
その、ただ隣に居た、というのがあたたかかった。
いろいろ聞いてみたい気はしたのだが、何をどう伝えるべきなのかわからない。何をどう問うべきなのかわからない。言葉はそれなりに知っているはずなのに、使うべき言葉がわからない。
……伝えたい感情はいくつもあった、と思う。

「もう、会うこともないか」

少し冷えるが、どうということはない。
そっと目を閉じると、朝が来るまでじっとしていた。
感じ始めた空腹は、気にならないフリをした。



あたたかい。やわらかい。やさしい。そして、ただの笑顔。
もう少し居てもよかったのかもしれない。
ここでどう生き抜くべきかわかるまでは。
ここがどういう場所か、わかるまでは。
どれだけ、未知でこわいものが一緒でも。あれは、きっと、俺に、痛みも苦しみも与えないでおいてくれるだろうから――。

「!」

足音が近付いてくる音がして、顔を上げた。
……、ふらついているのか足音が一定ではない。息も荒いし、何かおかしい。

「あ」

声を発したのは同時だった。
橋の下をひょこりと覗き込んだそいつは、「ああ、見つけた」と言いながら大きく息を吐いた。安心した顔で笑って、土手を滑って、俺の前に立つ。

「行く場所がないなら、ここよりは、私の家の方がまだ、雨風が凌げていいと思うけど」

鳥が鳴く声がどこからともなく聞こえてくる。雨はいつの間にか止んでいて、夜の闇は太陽から逃げるように引き払っている。白いもやが訪れた朝の空気の中に漂っていた。

「……ずっと、探してたのか」
「仕事終わってからだから、ずっと、ではないのかも」

などと、こいつは言うが、細い両足は雨でぐっしょりと濡れているし、今土手を滑ったからと言うだけではない、泥や砂が裾や靴についてしまっている。仕事が終わる時間、というのは夕方のはずだ。それから探していた? と言う事は。

「一晩中探してたのか。俺を」
「ん、ああ、朝になっちゃったね」
「……」

ぐ、と胸のあたりで言葉が詰まる。
笑った顔を、随分久しぶりに見たような気持ちになる。
どうして、とか、なんで、とか、喉のあたりまで出てきているのに、言葉にならない。

「ところで」

「君の名前はなんて言うの」
「っ、俺、俺は、52」

俺にも。聞きたいことがたくさんある。「そう、52か」と、彼女は笑っていた。きっと名前としてはおかしいのに。「ねえ、52」

「実はね。家のアパート動物駄目なんだよね」
「え」

言葉の意味はよくわからないが、アパートは、彼女の家のことで、動物はあの猫のこと。本当は、飼ってはいけないのか……?

「里親探し。手伝ってくれる?」

差し出された手に、ゆっくり、ゆっくり手を伸ばす。
本当に掴んでもいいのか。
これを掴むと、きっともう、昔の自分には戻れない気がした。
何が問題かわからない。
何を恐れているのか、自分で自分がわからないけれど。ちょん、と指先が触れて、覚悟をする。俺とこいつはお互いの手のひらを力強く掴み合った。

「わかった」

なんでもやる、何故か、俺はそう思って。
いろいろと伝えたいことがあるはずなのに、やっぱり上手く言葉にならない。「それから」この人は始終穏やかで、一つだって強制しない。「私の所が嫌で嫌でしょうがないんじゃないのなら、本当に行かなきゃいけないとか、帰らなきゃいけない時が来るまで家にいてよ」ぎゅ、と握る手のひらに力を込める。「帰ったら52がいてくれて、ここ二日、すごく楽しかった」それは「一人じゃないっていいね」こちらのセリフだ、と思うのに、一つも言葉に、たった一音の声にさえならなくて、俺は、ただ一つだけ頷いた。

「よかった。改めてよろしく」

よろしく、なんて、まるで対等のような言葉を使う気になれなくて、代わりの言葉を全力で探した。よろしく。仲良くやろう。つまり、俺は、俺にも、この人のことを教えて欲しい。

「……アンタの、名前は」

俺の気持ちは伝わっただろうか。
伝わっていてくれと願う。

「私は、みょうじなまえ。なまえでいいよ」

なまえ。なまえ。なまえ。この人は、なまえ。
何度も繰り返し心の中で確認して「なまえ」と恐々呼んでみる。なまえは「うん」と嬉しそうに笑って持っていたコートを俺の肩に引っ掛けた。
なまえの家の、匂いがした。


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20200117:さてこっからだぞ!

 

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