獄都事変 | ナノ


わたしをさらって/斬島  




一番星が輝くより早く、その背中に、きっと、告げる――。



「もういいんじゃないか」
斬島はそう言って私の背中をそっと撫でた。出会ってすぐは加減がわからないだとか、怪我をさせてしまいそうだとか言ってあまり触れてはこなかったのだけれど、もう随分前から、まるで同じ生き物のように触れられる。ただ、その指先は、私が知っているどの人間の手よりも優しい。だから、人間でないというのも納得だ。
「もういいって?」
「わかっていることを聞くな」
斬島は親しいモノにしかわからないくらいにわずかにむっと表情を曇らせてから、面倒くさがらずに何度でも聞いてくれる。
「好き好んで苦しむ必要はないだろう」
「好き好んで苦しんでいるわけじゃないんだけどね」
泣き腫らした目を冷やすように瞼に触れられて、情けなく跡が残ってしまった涙の痕を斬島の指が拭った。氷のように冷たくて心地よい。人の手など、生々しく熱くていつもぞわりとする。何故彼ら、彼女らの手は自分の手よりずっと熱いのだろう。いつもそれがわからなくて、気持ちが悪い。
「今日はどうした」
「はは、大丈夫。今日も、大したことじゃないから」
「……、泣いていたんだろう」
「泣いてはいたけれど、世界中で起きている理不尽の中で、私に当たった理不尽はまあ、せいぜい、蚊に刺されたくらいだよ」
どうしてこうも、生きていくのは難しいのか。私はぼうっと沈んでいく太陽を見る。もうそろそろ金星が見える頃だろうか。びっくりするくらいに当たり前に、いつも通りの空だ。ただ、私はもう、きっと一人ではこの夜を越えられないのだろう。昔は一人だったはずなのに、斬島くんが隣にいてくれるせいで、一人で夜を越える方法を忘れてしまった。
「……俺は今日もなにもできないのか」
それはこちらのセリフなのに。こんなに何もできない私の隣で、私を心配してくれる優しいモノに、私は今日も、なにもしてあげられないのに。
「斬島がいなかったら、私はとっくに生きてないよ」
「どういうことだ」
「一緒に居てくれるから、どうにか明日も生きていられるってこと」
「なんだと。ならば」
斬島は大変に複雑そうな顔をして、真っ直ぐこちらを見つめる。
「俺が来なければ、お前はあの世へ来るのか」
「かもね」
「俺がここに来なくなれば」
「うん」
「……」
「……」
「…………」
ああ考えている。こうして真剣になってくれるだけで、私がどれだけ救われているのかも知らないで。必死に考えてくれている。……彼が私をはじめて獄都(彼らが住んでいる場所らしい)に誘ってくれたのは、もう二年ほど前になるだろうか。私はその誘惑に飛びつきたくなって、でも二秒後にここに残っていたい気持ちにも気付いて、斬島とこういう逢瀬を続けている。私は毎日彼に言う。『まだ、人間として頑張ってみるよ』と。
「それは、できないな。俺はもう、ここに来ないで明日を迎えられる気がしない」
本当に、と反射で聞けたらよかったのだけれど、まさか、そんなことを言ってもらえると思っていないから、声が出ない。ただ、獄都へ帰るために(あるいは仕事へ行くために)立ち上がった斬島を見上げるだけ。いけない。また、泣いてしまいそうになる。けど、今込み上げるのは涙だけではない。――ああ、そうなの。私達を引き裂けるのは、もう私達だけなのね。なら、いいかなあ、と私は笑う。
「また来る。くれぐれも、俺の知らないところでは死ぬな」
ごめんね、誰かに、もしかしたら自分にそう繰り返す。ごめん。ごめんなさい。これは、この選択は間違っているのかもしれないけれど。もうだめだ。今日は、どうしても。どうしても。
「斬島」
「夜子?」
「ねえ、斬島」
今日より辛い地獄が待っていても、それを選びたい。地獄に落ちられるように、背中を押してもらってしまった。
「わたしを、さらって」
がんばって、がんばって、人間として少しくらいはどうにかなろうと、なにかになろうとしたけれど。もういい。そんなに想ってくれているなら。迷う事なんてない。私の人生はこっちだった。それだけの話だ。
斬島は「いいのか」だとか、そういう野暮なことは聞かずに、そっと私の手を握ってくれた。



そして、一番星が消える時には、私は、もう、この世にはいない。


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20191207:文字書きワーードパレット弐のやつです。
12.ペリペティア 「一番星 背中 告げる」暁美さんから頂きました

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