「わたしよりも、重症では……?」
「あはは、大丈夫だよ」
相変わらず荒く息をする夜子と、頭や腕に包帯を巻いた木舌。
夜子にはいまいち、状況が飲み込めずに木舌を見つめる。
仕事から帰ってきて、そのままここへ来たのだろうか。まさか何かやろうと夜子の部屋へ行こうとする平腹を押さえてできた傷であるとは思わず、首を傾げる。
木舌はいつものようににこにこと笑っていた。
「あの、わたしをみている場合では、」
「俺が嫌?」
「いえ、嫌というか、先輩、怪我、を」
「これは大丈夫だって。ね? それよりこれ、キリカさんがおかゆを作ってくれたよ。食べられる?」
「……はい」
しかし、夜子はどうしても木舌の傷が気になるようで、じっと血のにじむ包帯を見ている。
どうにもこの怪我のしかたには見覚えがあるような気がしているのだが、熱で頭がぼんやりするせいでわからない。
もうそこまで出てきていると思うのだが、いまいち思い出しきれなかった。
木舌はそんな夜子の様子に慌てず騒がずそっと、レンゲでおかゆをすくって、ふうふうと息を吹きかけて冷ました後に、それをそっと夜子の口元に持って行く。
「はい、じゃあ、あーん」
「そ、そこまでしていただかなくても、食べられますよ」
「いいからいいから。ほら。口開けて」
「……楽しそうですね?」
「え、ええ!? そんなことないよ、すごく心配してるって!! このおかゆ、さっき味見させてもらったけど、すごくおいしいよ」
確かに鮭が入っていてとてもおいしそうではある。
しかし、食べさせてもらう、というのがあまりにも慣れない。
今一度おかゆと、木舌の持つレンゲに手を伸ばすが、木舌はそっとそれを遠ざけて、夜子の手はなにもつかむことができなかった。
身を乗り出して、つかもうとする。
どうしても届かずに、ぐ、と力を入れた時、かくり、と手の力が抜けた。
そのまま、ぐらり、と体のバランスが崩れる。
「あ」
ど、
とぶつかったのは木舌の胸のあたりで、夜子はまだうまく力が入らなかったが、どうにか上を見て、木舌に言う。
「ご、ごめんなさい。今」
ぴしり、と木舌が固まる音がして、それから夜子は木舌から体を離す。
木舌が固まっているのを確認すると、声をかけようかと口を開くが、どうやら彼は放心しているようで、今のうちならばおかゆとレンゲを奪うことができるかもしれない、と口を閉じて手を伸ばす。
すんなりと、おかゆとレンゲは夜子の手に渡る。
固まっている木舌のことが多少気になりはするものの、そっと手を合わせて。
「いただきます」
と食べ始める。
表情が歪んでいる、わけではないため、傷が痛むということでもないのだろう。
食べている間、木舌は、ぎぎぎ、とレンゲを持っていた手を口元に持って行き、しばらく頭を抱えていたかと思ったら、夜子の部屋でのたうちまわり、夜子は、木舌の頭の傷は予想よりひどいのかもしれないと少しだけ心配になった。
「ごちそうさまでした」
からん、とレンゲをどんぶりの中に入れて。
ここでようやく、夜子は木舌の奇行に向き合うこととする。
「木舌先輩」
「ん!? おかわり!!?」
「いえ、もう大丈夫です……。私は大丈夫ですけど、木舌先輩、」
「あー、えーっと、ごめんね。本当にもう、さっきはなんというかいろいろ危なくて精神統一を、あ、ちょっと深呼吸するから待ってね」
「はい」
すー、はー。と、宣言通りに息を深く吸って、大きく吐き出すのは深呼吸で間違いないのだが、精神統一が図れたようには見えなかった。
「ふう。えっと。それで、あ、もう食べないなら薬持ってくるね。食器もらうよ」
「……本当に、大丈夫ですか?」
「やだな、大丈夫だよ。怪我ならもうほとんど治ってるし」
「そう、ですか?」
夜子の疑問は消えないが、そっと食器を木舌に渡す。
「いい子で待っててね」
ぱちり、と器用に片目を閉じてニコリと笑う。
夜子は、相変わらずに自由の効かない手足と思考を不便に思いながらも、なんだか今、すごく贅沢なことになっているようだと、息を吐く。
安心する、けれど不安になる。
今、迷惑をかけているには間違いなくて、優しいみんなはそうは言わないだろうが、役に立っていないことは確実である。
「この程度で、こんなふうになって……」
これからどうしようか。
元気になったら、はたして居場所はあるだろうか。
いや、こんなことを言ったら、きっと二重に怒られてしまうのだろうけれど。
「……」
眠りが浅かったせいだろうか。
何度も、どこか覚えのあるような夢を見た。
おそらく、人間だった時の記憶だ。
夜子は再びベッドに沈む。
見上げる天井はいつもよりはっきりと写らない。すこしぼやけてなんだか見ずらい。
目を閉じると、壊れたプロジェクターみたいに映像が通り過ぎていく。
無に還るような赤。
それから、壊れそうにない世界。
「夜子?」
「あ、木舌先輩」
「……大丈夫?」
「はい。平気で、」
食器を下げた、同じ盆の上には、透き通らないオレンジの液体の入ったグラス。
思わず言葉を失って、表情を変える気力もどこかへ飛んで行った。
木舌は笑顔でそのグラスを差し出して。
「これ、抹本がね。薬も飲みやすいように栄養ドリンクに混ぜてくれたんだって」
「あ、ああ。松本先輩、全開ですね……」
「はい」
夜子は再びそのほとんど固形の飲み物を飲み干す。
二度目のため、そのまま気絶するようなことはなかったし、口に微妙に広がる酸味について、これはどんな果物なのだろうと考える余裕すらあった。
うまい、とはとてもじゃあないが言えなくて、これもまた谷裂が味見をしたのだろうか。
夜子はグラスを木舌に返すと、大きく大きく息を吐いた。
「……よかった。それでも、だいぶ落ち着いたんだね」
もう、意識があちこちへ飛んだりはしていないようで、辛そうではあるがしっかりしたものだ。
「おかげさまで……、元気になったらまたがんばりますね」
「いいけど、もう倒れたりしないでね?」
「はい」
「倒れる前にちゃんと言うんだよ?」
「気をつけます」
木舌の大きな手が、夜子の頭にそっと触れる。
さらりと髪を撫で付けると、夜子は目を細めて木舌を見上げる。
木舌は、どこか寂しそうに笑った。
「夜子のことを、みんな助けたいと思ってるんだから」
夜子は、俯いて、自分の手のひらを見つめた後に、ぎゅ、と握る。
「……わたしも、みなさんを助けたいです」
役に立ちたくて、夜子ががんばっていたことをみんなが知っている。
こんなになるまで気付けなくて申し訳ないのはこちらの方だ、とは、誰も口にしないけれど思っている。
「知ってるよ」
夜子は、そっと木舌を見上げる。
小さくて可愛い後輩。
やわらかくて、あたたかい女の子。
彼女に抱く感情は、綺麗で汚くてきらきらとしている。
「でも、ごめんね。今のは少し嘘なんだ。みんながみんな夜子を助けたいと思ってるけど、そうじゃなくて。本当はね、夜子。俺たちはみんな、夜子に格好つけたいだけなんだよ。元気になったら、頼ってごらん。きっとみんなすごく喜ぶから」
夜子は難しそうな顔をして。
「頼る」
まるで斬島のように真面目くさって反復した。
「そう。難しかったら俺にだけでもいいよ。いつでも一緒においしいお酒を飲もう」
にこり、と笑う木舌は、夜子を寝かせると布団をかけ直した。
夜子はしばらくぼうっとしていたが。
遠慮がちに話し始める。
「あの」
「うん? なんだい?」
頼る。
夜子の脳内には、さきほど木舌に言われた言葉が浮かんでいた。
「今、すごく印象に残っている夢の話をしてもいいですか。きっと私の記憶だとは思うんですが、夢だから、忘れてしまう気もするんです。木舌先輩に覚えておいてもらえたら、後で忘れてしまう前にもう一度聞いて、紙に書いて日記にでも挟んでおきます」
そんなふうに頼まなくても、きっとこうして夜子と話をしたことはわすれないのに。
「うん。わかった。聞かせて」
夜子は目を閉じる。
「約束をしたんです」
戦う人間ではありましたが、ずっと1人だったわけじゃないんです。
夜子の声に抑揚はないし、それがどんな状況かもわからなかった。
後で肋角か、斬島に聞いたらわかるのかもしれないが、それも癪で。
「お酒を飲むのは二十歳になってからって、らしくないことを言って笑い合ったり、たぶん一緒に戦ったこともあって」
さいごに、と、夜子は言う。
声が、だんだんと小さくなっていく。
「手紙をもらったんです」
意識が沈んでいくのがわかる。
「ちゃんと読むことは、できなかったんですけど」
木舌は黙って聞いている。
これを彼女の口から聞けたのは、自分がはじめてだったらいいのに。こんな時でも、そんな感情は沸き上がる。
「その、手紙には」
そこで意識を手放した夜子が閉じた右目から、つう、と涙がこぼれ落ちた。
まるでそれは、流れ星のようだった。
------------------------
20161018:一緒にお酒が飲みたい。話すことなんてなんにもないんだけど、でも、きっと聞いていてくれるって確信がある。