その他夢 | ナノ






東くんが、この間のお菓子のお礼にと桜餅を買ってきてくれた。神室町に最近できた人気店の品だった。「美味いといいんですけどね」私は紙袋をじっと見つめて、一緒に食べようと提案した。甘いものが嫌いでなければ。嫌いであっても彼はそうは言わないだろう。「是非」と笑う姿は懐っこい。
普段、日中はあまり家にいないのだが、丁度荷物を取りに来たタイミングで彼から連絡があった。いつもならすぐに出かけるところだが、折角だから時間までお茶でも飲んでゆっくりすることにした。東くんは「休んだ方がいいんじゃ」と言いかけたが「桜餅好きだって聞きました」と言い換えた。「うん。好きだ」生きていて、こんなに純粋な感情に触れることはまずない。あたたかすぎて瞼が痺れたようになる。涙は堪えた。
「気に入ったんなら、また買ってきますよ」
東くんはそう言ったが、素直に頼んでいいものか迷う。この和菓店はオープンしたてでいつも並んでいると聞いた。さおりちゃん情報だ。何も知らない顔をしてお願いするのがいいのか、気を使わないでいいと笑うのがいいのか、この店で買うのは大変でしょと指摘するべきか。まあ、最後のはいちばん可愛くない。黙っていたら「毎回同じがアレなら、別のもんでも」と余計に気を使わせてしまった。「ありがとう。嬉しいけど程々にね」自分の言葉で自分の立場がわからなくなったが、東くんが「俺がやりたくてやってんですよ」と疑う余地なく笑ってみせる。
うん。やっぱり、これは必要だ。
「東くん、これ持ってて」
「なんですか?」
「家の鍵」
職業柄、人の感情の動きには敏感な方だと思うのだが、それがどこから来るものなのか、ということを考えるのはいつも難しい。特に、自分に近くなればなるほど見えにくいので困ってしまう。
だから、今、目の前で少し困ったようにしている恋人が、どうして困っているのか私には分からない。突っ込んで聞いてみてもいいものかどうか考えて、結局。
「私何か変なことした?」
と聞いてしまった。こういう聞き方はずるいなと思う。東くんはきっとそんなことないと言って「そんなことありませんよ!」悪いのは自分なのだと「俺の方がなんつーか、その」上手く言葉にできなくて謝ってくれたりするのである。
「すんません」
「いや、こちらこそ」
「いやいや、こっちが悪いんですよ!」
「いやいやいや」
数度同じやり取りをして、何度やっても彼が真剣に否定するものだから私の方が先に面白くなって笑ってしまった。東くんも空気が抜けたように笑っている。
「知っての通り結構忙しくさせて貰ってて、なかなか捕まらないと思うんだよね。夜なら大抵帰ってきてるし」
夜なら大抵帰ってきているから、なんだ。ここまで喋ってなにもかも東くんに任せきりにしている自分に気がついた。彼の方が暇だと決めてかかっているような言い方だ。ぱし、と自分の頭を叩いて「……うーん」と唸る。
「なまえさん?」
なにか、小賢しいことをしようとしている。東くんは気にした様子がないが、それがまた申し訳ない。普段はもっと素直に話をしている気がするのに、恋愛というのは思っていたより難しい。
「家に帰ってきた時に、もし東くんがいてくれたら嬉しい」
よしこれだ。これが本音の本音である。胸を張って言い切った。鍵を渡すのはそういう理由だ。一人で納得していると、東くんは鍵を握りこんで項垂れた。
「俺が入り浸っても知りませんよ」
「どうぞどうぞ」
東くんがいるかもしれないと思えば、私が玄関で死んだように寝ていることも少なくなるだろう。片付けも今より頻繁にするかもしれないし、自分以外に食べてくれる人がいると思えば、料理も楽しい。想像だけで文化レベルが上がった気分だ。
「なら、俺の家の鍵もどうぞ。あっ、でも一週間、いや、三日くらい待ってください。色々片付けておくので三日後以降からは自由に出入りしてもらって」
「いやいや、そんな無理しなくても」
「なまえさんにこんな誠意の見せられ方したんです、この位はやるべきなんですよ」
やるべき。東くんの言葉が引っかかる。
やはりこの件がスムーズに行かないのは私のせいなのだと今わかった。困らせたのはびっくりさせたからだ。私が思い切り外れたことをやらかしたのだ。いや、外れ、と言うよりは空間を切り裂いて近寄ってきた、ような。地に足のついた行動ではなかった。
「……なるほど」
わかってきた。まだ付き合って一ヶ月も経っていない。なんならデートらしいデートもまだだ。付き合いだけは長かったせいでこのくらい普通かと思っていたが。
「やりすぎたね?」
「えっ」
「普通、いくら恋人だからってこんなに早々家の鍵は渡さないんだ」
「いや、そんなことは、」東くんは優しいので否定してくれようとしたが、私の視線に耐えかねて「まあ、そうでしょうね」と言った。やはり。普通はもっとそう、段階を踏むものだ。色々お互いに探りあったりルールを決めたりもするかもしれない。そうあったら嬉しいからと言って、一足飛びに行動を起こすとこういうことになるのだ。けれど、そうあったら本当に嬉しいし、行動までに迷いはなかった。つまり。
「これって、ーー重いのでは?」
「そっ」
東くんは私を見たまま考え込んでいる。これは本格的にやらかしている。フォローの言葉も出てこないとは。なかったことにしようと東くんに渡した鍵へ手を伸ばすと「そうじゃねえ!」と逃げられた。大事に鍵を握って彼は言う。
「いや、俺は嬉しいんすよ。本当に。ただ、いきなりいろいろ許してもらえて、びっくりしてるだけで。さっきはやるべき、なんて気取った言い方しましたけど、俺だってその、だから」
忙しなく動く腕だとか、クルクル変わる表情だとか、感情の籠った瞬きをひとつ残らず視界に入れる。私のどんな言葉も彼を追い詰めているように思えて恐ろしかったが、東くんは私よりいくらか年下なのに、私のやらかしたことを全部許してしまって言う。
「もしなまえさんがいてくれたら、嬉しいと思ったんですよ。無理とかじゃねえんです」
本当ですよ。そう念を押す東くんは何故か嬉しそうだ。見たことの無い顔をしている。私が気づいていないことに気が付いているのかもしれない。鍵がどうこうというよりは、全く別のことを彼は考えているような。
「それならいい」
けど、今、なんだか楽しそうなのはどうしてなのか。普段であれば迷いなく聞いているが。本当に、恋愛というのは厄介だなあ。普段使わない筋肉を使っているから、まあ楽しくもあるのだけれど。と言うか、私の中で東くんがここまで他と違うことに驚きっぱなしである。「けど、それは」ここまで甘えているのだし、怒ってはいないようだから大丈夫だろうと考えて口を開く。どうして笑っているのか。そう聞こうとした。
「なまえさんって、結構どうでもいいことで思い悩むんですね」
意外でした。と東くんは笑う。「どっ」どうでもいい、と言われたことにショックを受けながら、尚も楽しげな東くんを見た。
「どうでもよくはない」
真剣だったのに。失礼だ。抗議しようかと思うが、上手く言葉が出てこずにむすりと押し黙るしか無かった。どうでもよくはない。私はもう一度そう言うが、東くんはやはり「どうでもいいことです」と言い切る。勝手にショックを受ける。そういうことを言われてしまうのか。
「どうでもいいですよ。俺の事なんて、そんなに深く考えることねえんです」
幸せそうに笑う顔は、元極道とは思えないほど柔らかい。「桜餅食べて下さい」と言うので二人で桜餅を齧り、緑茶を飲んだ。桜の匂いと、さっぱりしたお茶の匂いが混ざり合う。
「……私、東くんの話してた?」
「違うんですか?」
ずっと自分の話をしていたと思ったが。「そうかな」東くんが「はい」と言うのでそうかもしれない。
「俺には、俺に合わせてくれてるように見えましたよ」
「そんな大層なことでは、しかも合わせられてはいないし……」
「俺は」すっきりした顔で笑う。ここにきたときはもっと緊張していたように見えたが。ひょっとして、私の方が緊張していて、だから彼は逆に余裕なのだろうか。
「俺はそう簡単に振り落とされませんし、なまえさんの男になったんだ。色々覚悟もしてるつもりですよ。ーーだから好きなようにやってください」
必死について行くつもりでいたのに、そんなに必死に様子を伺われては困ってしまう。それもまた勝手な話であるような気がしたけれど、指摘されてようやく気がつく。私は私の中の東くんへの感情を東くんに軽んじられてショックを受けていた、というわけだ。
「なるほど」
「今度はどうしました?」
「私はたぶん、東くんが思うよりずっと、東くんが好きなんだと思って」
東くんに言われなければ好意にも気付かずに居た。隆之に付き合うことになったと話したら「気に入ってたもんな、東のこと」と納得していた。周りから見た方が見えやすいことはどうしたってあるものだ。
初めて会った時にはろくに話もしなかったが、次に会った時には少しだけ話をした。「すごかったです、あの人数を」ロマンチックな出会いではなかった。あの時の私は女には見えなかったと思うのだが、彼は目を輝かせてそう言った。「怪我はもう平気ですか。頭から血流してましたけど」私は「大丈夫、ありがとう」と短く答えて、松金組の組長にお菓子を渡しておいてくれるように彼に頼んだ。隆之が世話になっているからせめて、というところで。
そんなことが何度かあると、使いっ走りにしてごめんと口実をつけて個人的に贈り物をしたこともある。気に入っていたし贔屓にもしていた。
「やっぱり、どうでもよくはない」
およそ近くの人間を顧みない人生を送っていたが、東くんが今、私が東くんのことで思い悩んでいるとわかってくれたなら、それは嬉しいことだ。大事にされているなと思って気分がいいなら、何よりだ。ただ、この空気をどうしたものか。二人だけの部屋の中は、やたらと温度が高い。頭はふわふわしているのに、胸が痛む。
「……キスでもしましょうか」
ああ、彼は私以外の誰かと恋をしたりもしたんだろうな。経験値が違うなあ。東くんはサングラスを外して、鍵と一緒にテーブルに置く。額をぶつけて、かすかに鼻先が擦れる。言葉にならなかった感情が行き交う気配がした。
東くんが私を見ているなあ、なんて考えている間に唇が触れて、離れる。そうしてもらってはじめて、私もキスをしたいと思っていたのだと気が付いた。「こういう気分の時は、こうしたら良いんだね」真面目な顔で呟いたせいで、東くんはまた笑っていた。


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202202:思い悩むタイプはたぶんどっちもな気が…

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