その他夢 | ナノ






八神さん、と言った時、俺は余程言い辛そうにしていたのだろう。実際、弟の方の八神を思い出すから微妙だった。なまえさんはすぐにそれに気付いて「なまえでいいよ」と笑ったのだ。
そして、一人でさっさと進んで行く姿を純粋に格好いいものだと思い、また、その背中が少し、ほんの少しだけ寂しそうにも見えた。見えてしまった寂しさは幻想だったのかもしれないが、いつも一人でやってきて、一人で去っていくなまえさんのことがどうにも気になって。
「お前はホント、なまえちゃんが好きだよなあ」
と、兄貴にまで言われる始末であった。兄貴の奢りでキャバクラに行った帰りだった。
「かわいい女の子に囲まれてるって時に何を探してんだよ。ったく、嫌なら断ってくれてよかったんだぜ?」
「……そんな風に見えましたか?」
「見えたよ。新しい子が近くに来る度顔じっと見て、ああ違うなこの子じゃねえなって確認するみてえだったぜ。失礼だろ」
「ああ。だから、失恋でもしたのかって聞かれたんですね」
「その上突っ込まれてるじゃねえか」
兄貴は大きく体を伸ばして「ん……」と何かに気が付いたような声を出して、慌てて俺を振り返った。ひょっとしてまずいことを聞いてしまったのでは、と顔に書いてある。やや声を潜めてこっそりと言う。
「したのか? 失恋」
「してませんよ。まだ」
してない。という返事に安堵し、まだ。という消極的な言葉に過剰に反応している。ぐわ、と目を開いて俺の背を叩く。軽くよろめくくらいの衝撃が背骨を襲う。まるで中坊のようなノリでもって兄貴は言う。
「おま、わっかんねえだろうが! 一回告ってみろよ! 案外、うまくいくかもしれねえだろうが」
「あり得ませんよ。あの人が。俺なんて」
たまたま、運良く名前を憶えて貰っているだけだ。海藤の兄貴のついでである。それ以上はあり得ない。それ以上があり得る理由が一つとして思い当たらなくていっそ清々しい。あの人の隣に立つ自分は全く想像できなかった。必要ないだろうが、ボディガードとかで傍に控えるのは割とハマる可能性があった。兄貴に話すと溜息を吐かれて、また背中を叩かれる。今度はやや加減してくれていた。
「折角堅気になったんだしよ。ちょっと気持ち伝えるくらい罰はあたらねえって」
「寂れたゲーセンの店長ですけどね」
「子供に好かれる男はポイント高いぜ!?」
「え、そうなんですか?」
「知らんけど。星野くんが置いてった雑誌に書いてあったぜ」
星野くんか。世間一般の女がどうかは知らないが、なまえさんがそういう、どこか一点を見て人を好きになるとは思えなかった。ならばどういう人を好きになるのかと言われれば、それもわからない。ただ、その理論でいくと、誰であっても可能性がゼロということはない気もした。
「俺を信じて、一回告ってみろって。な?」
「簡単に言いますけど、まず次会えるのがいつになるのか」
「まあなあ。ター坊のとこに届く土産、週ごとに違う県だったりするもんなあ」
「俺んとこもそうですよ」
「個人的に土産貰ってんのか!?」
「シャルルにですよ! 従業員みんなでどうぞってことでしょ! 源田法律事務所とか、ちょっと前まで松金組とかにも送ってましたよ!」
「ふーむ。そう言われればそうか。いや、でもなあ」
源田事務所と松金の親っさんはわかるが、シャルルはなあ。と、まだ言っている。その内考えるのが面倒になったようで、ニッと笑って俺と肩を組む。
「案外、明日にでも会えるかもな」
「あり得ません」
「あり得たらどうする?」
「もし、そんなことがあったら」
「あったら?」
もし、明日会えたら。いつだって会える日を楽しみにしているつもりだったが、そんな風に考えてみるのははじめてかもしれなかった。次に会えたらこの話を伝えなければ、と思うことはあっても、明日会えたらどうするか、というのは。
「兄貴の言う通りに、当たって砕けて見せますよ」
「言ったな?」と兄貴は言って、俺の髪をぐしゃぐしゃにした。



あるわけがない。と思っていたから言ったのに。事前の連絡はなにもなしでなまえさんが尋ねて来た。両手にいくつも紙袋を持っている。「京都行っててさ」と菓子だの酒だのを渡された。
朗らかにシャルルに訪れたなまえさんはいつも通りで、海藤の兄貴はもしかして、なまえさんが今日神室町に来ることを知っていたのかもしれなかった。そうだとしたらなんてことだ。そうじゃなかったとしたら、いや、どちらにしても。
「嘘だろ」
告白する、ことになっている。
俺が挙動不審にしているせいで、なまえさんは首を傾げてこちらの心配をしてくれてしまった。
「ん? ごめん、タイミング悪かった?」
「いや、そんなことはなくて……あー、えっと、土産、いつもどうもすんません。ありがとうございます」
「いやいや、好きでやってるから」
大抵の場合、このあたりで「それじゃあ次は隆之のところに行くから」とかなんとかなまえさんが言うのでもう一度お礼を言って見送ったり、荷物持ちを買って出たりするわけだが、今から八神のところにいくとしたら、兄貴も事務所にいるだろう。兄貴がいるということは、昨日の約束を守ったかどうか、すぐにばれてしまうということで。「なまえさん!」勢いに任せて名前を呼ぶ。
「よかったら、中で話しませんか。――あ、でも、忙しかったら全然」
「ううん。今は大丈夫。ていうか、そんなに気を使ってもらわなくても大丈夫だよ」
話くらいいつでも聞く、と言われてしまって、そうだったのかと肩を落とした。なら、もっといろいろ話をしておけばよかった。社交辞令かもしれないが、勿体ないことをしていたかもしれない。
狭い事務所に入って貰って、できるだけ綺麗なグラスでお茶を出す。……なまえさんが口をつけたグラスが残るのか。いや、なに考えてんだ。そうじゃなくてだ。
「あの」
「うん?」
なまえさんは市販のお茶を大変に美味しそうに飲み込んでから俺と視線を合わせた。サングラス越しなのに、視線が合っていることが妙に気恥ずかしくて、目を逸らしそうになる。
「ちょっと、お話が、あるんですけど」
「うん。なんだろう?」
話がある。さして大事でもない話だ。日取りは勢いで決めたし、台詞だって考えていない。気の利いたプレゼントなんかもちろんない。特別良い格好をしているということもない。場所だって、ロマンチックとは程遠い。ないものばかりが目について泣きたくなってきた。
「八神なまえさん」
「はい」
「あなたが、好きです」
なまえさんは困るだろうか。それとも、こんな展開には慣れていて、わかりやすく振ってくれるのだろうか。誤魔化されてしまうだろうか。聞こえなかったことにされるかもしれない。いいや、なまえさんならばきっと、誰からの好意も真正面から受け止めて、適当にする、ということはしない気がした。そう思うと少し楽になった。視線が動かないように眼と、余計な言葉を付け足さないように口、それからしっかり背筋を伸ばす為に腹に力を込めてなまえさんからの言葉を待つ。
なまえさんは目を大きく開いて黙っていたが、その内、その眼をくるりと光が回って、頬を伝ってぽたりと落ちた。
「なまえさん!?」
「あ、ごめん。びっくりして」
俺の声にハッとして、なまえさんは涙を拭いながら呆然としている。じわりと色の濃くなった袖を見つめてもう一度言う。
「びっくりしてる」
「そりゃ俺のほうですよ。どっか調子悪いとかならすぐ病院」
「いや、違くて。ちょっと時間が欲しい。整理するから」
日を改めて、という感じではない。ソファに座ってじっと考え込む。何を考えることがあるのだろうか。なにを、整理しなければならないようなことがあるというのか。本当に体調に異常はないのだろうか。それだけが心配でなまえさんを覗き込む。顔色は悪くない。真剣な顔をしている。空気が張り詰めて、邪魔できないという雰囲気だった。やっぱりだ。適当にはされなかった。
「あの、もしかしなくても迷惑でしたよね。俺はもう、そんなに悩んでもらえただけで充分ですから」
「違う」
ぴしゃりと言われて黙るしかなくなる。「違う」らしい。そんなにハッキリ俺の言葉を否定してもよかったのだろうか。もういい、と言おうとした俺に「違う」と言い放つということは。
「東くん」
「はい」
「ちょっと手、貸して」
「手、ですか? ええっと」
貸すとは。片手か両手か。どちらの手か。差し出せばいいのか、手伝ってほしいというような意味か。なまえさんはテーブルの上あたりを彷徨っている俺の手をぱしりと掴んでぎゅっと握る。細い、白く、手入れされた指先は柔らかい。ぶわ、と体温が上がるのを感じるが、なまえさんは平気そうだ。確かめるように俺の手を撫でて「うん」と言った後、顔を上げた。
「私はこの手を、離し難いと思ってるんだけど、どう思う」
「えっ、ええ?」
どうでもいい男の手を離したくない、はないだろう。マジか。そんなことが。どう思う、と聞かれている。質問だ。いや、けど、まだそうと決まったわけではない。ただ、掴んでいるのに丁度いい手だったとか、そういう。俺の往生際の悪い思考を見透かしたように、なまえさんは言葉を足した。
「私も、東くんが好きだ。お恥ずかしながら、今気が付いた」
「ええええっ!?」
嘘だろ。俺に都合が良すぎやしないか。ドッキリだろうか。そう思ってすぐにその考えを否定する。この人はそんなことはしない。そういう質の悪い冗談を言うような人ではない。「あの」どうして。なんで。俺の一体どこが。「えーっと」聞きたいことが渋滞しており頭を掻いた。それが困っているように見えたのか、なまえさんは俺の手を握る力を少し弱めた。
「……まずいかな?」
「いや、そんなの願ったり叶ったりっつーか! そんなことあってもいいのかっつーか……!」
「大丈夫?」
「大丈夫に決まってますよ、だって俺あ」
改めて目を合わせて驚いた。なまえさんのこんなに不安そうな顔ははじめて見たからだ。八神の野郎関連でだってこんな顔はしたことがなかった。いつも一人でやってきて、一人で去っていく、寂しそうな背中を思い出した。
「ほんとうに?」
テーブルを乗り越えてなまえさんに両腕を伸ばし、小さな体を抱きしめた。果物みたいに爽やかな甘い香りだと思ったが、上質な木材の心を落ち着ける香りもしている気がした。力を込めてぴたりとくっつく。玉砕する覚悟ばかり決めていた。けれどこれからは、別の覚悟が必要になる。
「好きです。はじめてあんたを見た時から惚れてました」
さっきまで俺の手を撫でていた指先が俺の背に触れた。「ふっ」なまえさんが笑ったのは、きっと俺の心臓が煩いからだろう。なまえさんの方は――自分の心音がうるさすぎてわからない。が、なまえさんの指が微かに震えてるのはわかった。
「そっか。これは、そういうことだったのか」
なまえさんが楽し気に笑ったから、俺もつられて笑っていたと思う。
この後、今日もまたいつものようになまえさんを見送ったが、今日のなまえさんの背中はあまり寂しそうには見えなかった。これはやはり、俺の都合の良い幻覚なのかもしれないが、もし、なまえさんが俺の気持ちを持ってってくれているからなのだとしたら、それはとても嬉しいことだ。
シャルルに戻ると「東さんおめでとうございます」とバカでかい声で言われて、ああ、まったく今日はよく人の泣き顔を見る日である。


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20220203:東徹がかわいすぎる件について

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