錆びついた約束03/ベクター


03---みっつだけ

数千年ぶりに引く、なまえの腕は記憶にあるものよりも若干細くなっているような気がした。元々肉付きが良い方ではないが、それにしたって、不健康な細さである。しかし、足取りは軽やかで、力は俺よりもあるのだから不思議なものだ。こんなことだから、なまえはきっと大丈夫だろう。なんて思ってしまう。
大丈夫か。そんなことを聞いたところで、「大丈夫」ときっと返してくる。そんな未来しか見えなくて、その言葉は言えなかった。
ならばどんな言葉ならかけてやれるのだろう。
やっと会えた、とか言ってたな。
やっと会えた。やっと、とは。もしかしなくても俺が王様をしていたときから数えた年月の話であろう。途方にくれる。一億ポイントなんて霞むくらい。俺がぐだぐだと考えている間に、家に着いて、俺は無言でなまえを脱衣所に放り込む。使い方くらい、まあ、なまえならすぐわかるだろう。扉越しに声を掛ける。

「服は、今日のところは俺のを着てな」

ややあって「ありがとう、ベクター」と返事があった。なまえもなまえで、俺と久しぶりに会えたはいいが、本調子とはいかないらしい。戸惑っているのはお互い様、というわけだ。そう思うと少しほっとする。「いや」俺はようやく肩の力が抜けるのを感じた。らしくもなく、ひどく緊張していた。
しばらく脱衣所の外に立っていたが、シャワーの水音が聞こえてきて、大丈夫そうだな、と俺も俺でなまえの着替えを用意したり、温かい茶を淹れたり、動いていると、気が紛れた。ゆっくりでいい。一つずつ、確認していこう。考える時間は、もう少しだけある。
なまえもなまえで、考えることがあったのかも知れない。たっぷり三十分くらいは風呂場から出てこなかった。俺に気を使っていた可能性もある。おかげで、どこから確認していくべきか、は、だいたい考えがまとまった。
風呂から上がったばかりの、俺の服を着たなまえを見たせいで、つい、考えがどこかへ飛びかけるが、必死に捕まえておく。細すぎる体も、確かに血が通っているとわかる程度に色づいて、そこになまえがいる、と強烈に知覚。なまえは相変わらず。ひどく、……いや、今はその話はよくて。

「腹、減ったか?」
「ううん。大丈夫」

なまえはまっすぐ立っているけれど、 何処に立ったらよいかわからないようで、とにかく座れ、とソファに座らせた。湯気が立つ赤いマグカップを渡すと、そこに一人分の居場所を見つけたようで落ち着いていた。傍目にはまったくわからないだろうが。そう空気が遷移するのがわかる。俺には。

「なまえ」

ずっと昔、そうしていたみたいに名前を呼んだ。なまえはきょとんとこちらを見上げて、やがて懐かしそうに目を細めた。どうにもずきずきと胸が痛むが、踏み出さなければならない。なまえというのは自分のことか、などと聞いてきたなまえ。こいつが、今、どこをどう彷徨っているのか。知らなければ。「お前、今、なにがわかる?」祈るような心持ちで言った。
なまえは、に、と笑って、悪戯っぽくこちらを指差す。

「君がベクターだってこと」

俺の「それだけか」という疑問はしっかり顔に出ていたらしい。「それから、」と続いた。

「自分のこともほんの少しだけ。名前は覚えてなかったけど」
「それで、」

なまえはずっと変わらない、強い瞳でこちらを見ていた。

「あとは、約束」

こちらを指差していた手がそうっと開かれる。あろうことか俺は、その手を取っていいのか迷う。迷って指先が中途半端な位置にあるまま、ただなまえの瞳を見つめ返した。遊馬とはまた違う輝きを持った瞳に飲まれそうになる。これは、本当になまえか? 感じたことのない威圧感がかけられて、首筋を冷や汗が伝う。

「約束?」
「うん」

なまえは、ただまた会えて嬉しいのだと、心の底から楽しげな笑顔で言った。

「世界を、ベクターにあげる」

俺は、ただ、なまえに圧倒されているだけ。

「約束したよね?」

俺があまりにも黙っているものだから、なまえは少し不安そうに首を傾げた。伸ばされていた手も引っ込めてしまった。この手は本当に、勝手な手だ。

「し、」

していない、とは言えない。
なまえが覚えている、たった三つのこと。俺のことと、自分のことを少しと、荒唐無稽にも程がある約束のこと。途端蘇る。「なまえ」俺がなまえを呼ぶと、少し前を歩いていたなまえはくるりと振り返る。この時の俺は、どっちだっただろう。肝心なところが抜け落ちているが、そのやりとりは俺も思い出せる。「世界が」大それたことを。世界がなんだって? 「世界が欲しい」俺はどんな表情で、そんな言葉を口にしたのだろう。俺は俺の表情がわからないけれど、なまえがどんな顔をしていたかはわかる。「世界」なまえは静かにそれだけ言った。俺の言葉を笑い飛ばすでも呆れるでもなく、ただそれだけ繰り返した。そう。世界。世界といえばなんだかいろいろあるけれど、この時の俺が口にしたのは、まあ、多分バリアンとかアストラルとかじゃなくって、ただ、この人間が山のように息衝くこの世界のことだろう。世界が欲しい。なるほど。「うん」なまえは真面目くさって爽やかに笑う。「きっと」きっとっていうのは、割と強い推量の言葉だ。なまえはこの短い思考の中で一体なにを決めたのか。約束だよ、なんてくだらない念の押し合いこそしなかったが。なまえが言った。「いつか、ね」その望みを持ち続けていればいつか。何年か、何十年か、来世か来来世か。いくつ年が巡っても願い続けて向かい続けたならば、いつか。なまえがそこまで言って、俺はなまえの言葉に満足して頷いた。だから、これは、約束だ。約束に間違いない。

「した」
「だよね」

していない、とは口が裂けても言えない。だが、その約束をした、と言い切るのも如何なものか。言い切ったあとで考える。

「……」

俺が黙っていると、なまえが言う。

「もういらない?」

もういらないか、となまえはゆるりと微笑んだ。いやいや。その笑顔の下にどんな感情を隠しているのかわからない俺ではない。お前は何か不安なことがあるとそういう顔をして笑うことくらいもう思い出している。
もう、考えている暇はない。
そろそろ、手を伸ばさなければまずい、気がした。
きっと今のなまえを支えているのは、俺とのその約束だ。
だから、つい。

「世界征服は、永遠のテーマだろうが」

などと。なまえの、細い手のひらをここに縫い付けるように押さえつけた。とんでもなく乱暴であったが、必死さだけはどうにか伝わった。

「なら、よかった」

なまえはほっと息を吐いて、胸をなでおろした。その姿はまるで年相応の様であった。俺もその姿に安心するが。安心したのも束の間、なまえはぐっと身を乗り出して。

「まず、なにをする?」

バリアンの頃の俺ならば、もっと素直に喜べたのだろうか。真っ直ぐな皇子の頃の俺ならば、なまえをそっと宥められただろうか。狂気に染まった王だった頃の俺ならば、このなまえを存分に活かすことができたのだろうか。真月零になってしまおうか。そうしたら、またなまえとは一からやり直すことができる。

「私、ベクターに世界をあげるために、なにができる?」

遊馬くん。俺はとうとう自分一人ではこの件を抱えきれない気がしてきて、ある友人の名前を心の中で叫ぶ。このなまえだって友人だけれど。ちょっと今と昔とでは状況が違う。俺は完全に言葉を失う。まるで呪いか。罰のようだ。なまえは、こいつは今、どこにいるのだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。俺がやるべきことは決まっている。やりたいこともはっきりある。ただ、俺にできるかはわからない。

「今度は絶対、この約束を果たすから」

なあ、遊馬くん。
俺はこいつを、救えるだろうか。


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20180317:今月中無理じゃない?
 
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