→happy(追憶:5)/ベクター


あの日から、私は毎晩、悪夢を見た。
声を、闇の力を振り払って目を覚ますと、過去のベクターのことを一つずつ思い出せなくなっている。
ぼんやりと記憶にもやがかかって、映像から言葉が消えて表情が消えて、そして何も思い出せなくなる。起きてからも悪夢が続く。きっとあれが、ベクターの中にいる、闇の人格を呼び覚ました諸悪の根源であるとわかるのに。私程度では核心に迫れない。ただ、必死に自分を守ることしかできないでいた。
私はまだ私のまま。だが、体はだんだん弱ってきている。使った力を回復する暇もない。気付くと、足がうまく動かなくなっていた。
このままでは、きっと、戦う理由も奪われてしまう。記憶がなくなるとはそういうことだ。私の力は。動機は、少しずつ削がれている。いっそこのままベクターと同じようにあれに身を委ねてしまえば楽になるかもと思うけれど、それだけは、できなかった。
私は城内の、塔の上部の部屋に軟禁されている。
ベクターは時折帰ってきて、最近はどうにも、戦いもうまくいっていないようだった。私の前では極力見せないようにしているようだが、苛立っているのはすぐにわかる。

「なまえ。調子はどうだ」

ベクターは、ただ、私の体が何か病に侵されていると思っている。

「ん……? また薬を飲んでねえのか」

医者が何度か変わっている理由を、私は聞かないまま。

「大丈夫だよ。まったく動かないわけじゃないし」
「バカなこと言ってねえでさっさと飲め」
「うん。飲むから」

ベッドの傍に置かれた椅子に座って、甲斐甲斐しくも強引に、薬を手に握らせて、水の入ったコップを頬にぎゅうぎゅうと押し付けて来る。このまま放置しては無理やり飲まされかねないと早々に薬を飲み下す。
こちらのベクターのことも随分わかってきた。昔のベクターの心を、見る影もない、と言ってしまうこともできるが、何もかも忘れてしまったわけではないらしい。時折昔の話をしたりもする。私は相変わらずに迷ったまま。彼の元から逃げることも、彼を止めることも、彼の前に立ちはだかることも考えるのに、何一つ実行できないまま時は流れる。
なまえ、とベクターが私を呼んだ。

「お前は全く体を壊さなかったからなァ。俺が流行りの風邪で倒れた時のことを覚えてるか?」

もうあまり昔のことは思い出せないけれど、たった一度、ベッドで眠る私を、ベクターが覗き込んでいたことがあったような気もする。でも、それは一体、いつのことだっただろうか。なんで、だっただろう。
ベクターはといえば、体は弱い方ではなかったと記憶している、それでも彼が大きな怪我をしたり病気をしたりした時は、きっと私は傍に居たのだろう。居た、という確かな記憶が探せない。居たはずだ。私はベクターを守るものとして城に居たのだから。

「そんなことが、あったかな」

記憶の海の底は随分と闇に包まれて、宝物はなかなか見つけられなかった。

「あっただろうが。お前は専門でもないくせに医学書漁って、喉に良いっつー果物仕入れて来て……おい?」

遠く「喉、咳……?」と呟くと、ベクターはがちりと私の両肩を掴んだ。
思い切りがくがくと揺らされて頭が痛い。掴まれている肩も痛む。ベクターの深い紫色の目を見ると、ゆるく微笑まずにはいられない。そんなにも必死にならなくてもいい。不安がる必要はない。カラカラに乾いた喉から震えた声を出す。ベクターはぐっと私との距離を詰めた。

「おい、なまえ。お前、俺がわかるか?」

頭がぐらぐらとしたまま、私は額を彼の額にこつりと合わせた。

「わかるよ」

ここまで近付くと、彼からは、血の臭いがする。
でも、以前はどんな匂いをさせていたか、忘れてしまった。確か好きな香りがあったはず、私が自室で育てていたハーブ、その匂い袋を一緒に作ったことがあったはず。揃いで持っていた、はず。

「それなら、俺の名を呼べ」

以前のベクター、今のベクター。
どちらにも妙に納得できるのは、私が、傷付くのが怖いからだろうか。

「ベクター、」

私にはどちらもベクターである気がしてならない。
どうすることが、彼を救うことなのだろう。もう、わからない。どうしたら彼を助けることができるだろう。もう手遅れなのだろうか。迷って動くことをやめた私に、彼を助ける資格はないのだろうか。

「そうだ、なまえ。それでいい。それならばいい」

安心したみたいに大きく呼吸する、上下する胸を隠しもしない。
私は、まちがっている?

「そういえば今日は、いい土産があるぜ」

私は葛藤の中にいる。ベクターは次の瞬間には上機嫌に笑っていた。
どこからか取り出したのは、金色の指輪だった。
それは私のどの指にもはめられることはなく、ただ手渡された。くるくると回すと、小さな石が控えめに光る。凹凸の少ないシンプルなデザイン、いくつかラインが入っていて、内側にはなにか、文字が彫ってある。

「これを、お前にやる」

なまえ、と彫られている。

「……名前が彫ってあるね」
「ああ。お前の名前だ」
「私の……?」

思わず、少し笑ってしまう。彫られているのは私の名前だけだった。

「なにか、おかしいか」
「私は、私の名前の入った指輪をつけるの?」
「不満か」
「ううん、綺麗な指輪だね」
「そうだろうが」
「あの、ベクター?」
「なんだ」

これは、いつ、用意したものなのか。とは聞けなかった。渡されたのは今だが、これを作らせたのは。

「やっぱり、なんでもない。ありがとう」
「お前はずっと、そこでそうやってろ」

そしてこれが、ベクターと私の最期の記憶だ。
果たして、指輪に込められた願いはなんだったか。
出会った日ではなく、二人の名前ではなく、何かメッセージでもなく、私の名前だけが彫られたこの指輪に込められていた願いはなんだろう。
彼の想いをこの身に受けると、私は私を諦められない。
ここにやってくる彼の望みは、いつだって、いつもの私と出会うことだ。
必死に治療するのも、きっとその為。
だから私は最期まで戦った。
戦って、抗って、私は私を守り続けて、そうしていつか、全ての記憶を失って。この指輪だけを持った私は、今の私に生まれ変わった。


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20170507:たった一つだけお願いがある。
 
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