君に世話される諸々の日々06/デニス


想像したことはあるが、それは初めての体験だった。

「言っとくけど、わたしの痛みはこんなもんじゃないわ」

ぱたぱたと、体から冷たい水が滴る。
ちなみにここは街中で、私は柚子と今から遊勝塾へ遊びに行くところだった。
柚子も事態が飲み込めないようで目を見開いて硬直している。
目の前には一人の女性。
知らない女性だ。とても綺麗な格好をしていて、いかにも女子という雰囲気のお姉さん。
けれど、泣いていたのだろうか、少し目は腫れて化粧が崩れて、髪も乱れてしまっている。
私は彼女を知らなくても、彼女は私を知っているらしい。
私はただ、私を叩きのめすような意思を前面に押し出して私を見つめるその女性の視線を受け止めていた。

「わたしはずっと前から見てたのに、どうしてあんたなの!!!??」

口を開きかけてやめた。
前髪から水が滴って地面に落ちる。
「ちょっと貴女…」と私のかわりに怒ってくれようとした柚子を手で制して私は前に出る。
格好に不似合いなバケツを持って泣いている姿を見ると、どうにも並々ならぬ状況なのだと感じた。

「……デニスくんのこと?」
「そうよ!! それ以外になにがあるの!!?」
「……」

かけるべき言葉なんてものはないのかもしれない。
きっと私が何を言ったところで、彼女の気持ちは収まらないし、だからこそ、こうして私に水をかけに来たのだろう。硫酸だったら大火傷だ。
なにか硬いものが当たった気がしたけれど、と、改めて見れば、周囲にからからと透明な塊がいくつか転がっていた。
なるほど氷水。冷たいわけだ。
氷水をわざわざここまで運んで私にかけた彼女は、いまどんな気持ちでいるのだろうか。
私がそっと彼女を見ると、彼女はびくりと一歩後ずさるが、それよりも大きな1歩でこちらに迫る。

「あんたなんか、死ねばいい!!」

柚子はどんな顔をしているだろうか。
わからないが、私が手で制したから私に任せてくれている。
本当に、よく気が付くいい子だ。
私が柚子なら、柚子が私の立場だったなら、私はこうして耐えていられるのだろうか。理由なんかわからなくても、平手の一発や二発お見舞しているかも知れない。
私は妙に冷静だった。
氷水をかぶったからだろうか。

「うん」

私は言いながら首を左右に降る。
つう、と首筋を冷たい水が伝っていった。
一歩彼女に近付くと、彼女も負けじと一歩踏み出す。
体が震える。
理由はいまいちわからない。氷水をかけられたからかもしれないし、実はムカついているのかもしれない。どの可能性もありえたけれど、そうではなくて、体を芯から震わせる激情には、もっと別の名前がついているような気もしていた。

「あんたにはわからないわ! わたしが最近どんな気持ちで彼を見ていたかなんて!! わたしがどれだけ絶望したかなんて、わからないのよ!!」

氷水をかぶった程度では済まされないくらいに、寒かったに違いない。
今なら少し、彼女の気持ちがわかる気がしたけれど、私からの「わかるよ」なんて言葉は爆弾でしかないのだろう。それは私が言うべき言葉ではない。
私はまた、「うん」と言うだけ言って、歩を進める。
とうとうお互いの手が届くくらいの距離まで来ると、彼女は右手を振り上げて。
私はそれを見あげてそっと目を瞑った。

「なまえっ!!」

柚子はとうとう私の名前を呼んだ。大丈夫。
ぱぁん、
冷たい頬に熱い平手が叩き込まれる。
乾いた空気に、乾いた音。
右によろめくと、程なく左頬がひりひりと痛み出す。
見上げた私に、彼女は息を飲んで、また手を振りあげる。
今度はそれをしっかり見て、パシリと手首を掴んで受け止めた。
涙を溜めた彼女の目と、私の目がかちりと合わさり、彼女はぎり、と歯を鳴らす。
「離せ」と言われるより早く、私は言った。

「ありがとう。あなたのおかげで、こわがってる場合じゃないなって」
「っはあ!!?」
「ありがとう」

私は感情のままにそっと笑って、彼女は感情のままに叫んでいた。

「アッタマおかしいんじゃないの!!? 自分が今何されたかわかってんの!?」
「そうだね、すごい寒い。風邪ひくかも」
「〜〜〜っバーカ!!!」

彼女は私の手を振り払うと、ポケットからハンカチとティッシュを投げ付けた。ハンカチが右目を覆うように張り付いて、ティッシュは頭でぽかんと跳ねて手の上に落ちてきた。
彼女を見ると、すっかり頬は涙に濡れていて、今にもどうにもならない気持ちに任せて地団駄でも踏みそうな顔をしていた。
涙目のままこちらを睨んで、涙声で、やはり叫ぶ。

「風邪でもなんでもこじらせて死ね!!!!」

私が手を振ると、彼女は早足に人混みに消えていった。
柚子を振り返ると、彼女も彼女で怒っていて、今日はなんだかよく、いたっ。

「ちょっと、いい加減に……!!!」

柚子はとうとう声を荒らげて。
私はくるりと振り返る。
何かが頭に当たったと思ったら、彼女が持ってきたバケツだった。
あの人はもう遠くにいるが、あの位置から投げたのだろうか。
ソフトボールでもやっていたのかも知れない。すごいコントロールですべてこちらに当ててくる。
どんな言葉を投げつけるべきか、とうとう浮かぶ言葉はなかったみたいでそのままもう1度口元だけで死ねと言って、べ、と舌を突き出して今度こそ走り去って行った。

「……さむ」
「当たり前でしょ!! ほら、はやく!! ほんとにバカなんだから!!!」

たしかに馬鹿だとは思うが。
そんなことよりもただ、彼女の傷がいつか癒えることを願った。
私が願うことは嫌味だろうが、思っていることなんて会いもしない人に伝わるわけもない。せいぜい神様が知っているくらいだ。
そして加えて思うのは。

「よかった」

私のつぶやきに、柚子は一つ息を吐く。
こちらを振り返ることはしなかった。

「……なにが?」

私は答える。

「ここに、デニスくんがいなくて」

柚子は少しだけ、私を引っ張る力を強めた。
私には声しか聞こえないが、柚子は泣いているのかもしれなかった。

「ほんと、バカね……」

私は盛大にくしゃみをして。
案の定一週間寝込むほどの大風邪をひいたのだった。
少し延期になってしまったが、ほどなく、その日はやってくる。


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20161217:皆様も風邪にはお気をつけ下さい…
 
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