キーリさんからの、過去編


「だれだ、お前」
「わからない。でも、きっと、君が呼んだからここに来た」
それはとても、とても不思議な出来事だった。



俺にとって世界とは、暗くて、湿っていて黴臭く。そこにいる、とそれだけの理由で思考さえも腐敗していくような組織と、そこにいる無駄に精強な男達で構成されていた。
日に日に、足の先から穢されていく。これがいつか頭にまで達したら、考え方さえこの世界に染まってしまいそうで、俺はいつも焦っていた。強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。誰にも何も言わせないくらいに、強く。
太陽の見えない俺の世界。外の世界とは隔絶されたクソみてェな世界。
けれど、俺はここで、太陽を見たことがある。
正確に、いつのことだったかは記憶がないが、ある日、一人でぼんやりと外の世界について考えていると、突然声をかけられた。「ねえ」人の気配も感じなかったから、俺は大層驚いて、座っていた岩の上から滑り落ちた。
「……ごめん、びっくりさせるつもりはなかったんだけど」
「だれだ、お前」
見たことのない顔をしていた。見たことのない服を着て、怖いくらいに綺麗で、優しい声をしている。女は俺のことをじっと見下ろして「さあ」とぐるりとこの部屋を見回した。
「わからない。でも、きっと、君が呼んだからここに来た」
「俺が?」
「たぶん」
女は、自分で自分が何を言っているのかわからない、と言う風に困った顔をしていた。そんな風にされたら俺の方もわからなくなってしまう。「外の世界から来たのか」女はふるふると首を振った。「それも、わからない。そんな気がするけど、なんだろう、その質問の答えは、上手く、取り出せない、感じ」と言うより、外の世界ってなに? と女は聞いた。地下ではないどこかのことだ。俺はもう一度岩によじ登った。
女がじっとこちらを見るので少し寄ると「ありがとう」とここへよじ登って来ようとした。自分より細い指だとか、柔らかそうな体だとか、そういうものを見ていて、俺はつい、その女に手を差し出した。女の体は中見がないみたいに軽くて、ふわりと浮き上がり、俺の隣に布のように座った。
「見つかったら、殺されるぞ」
「そうなの? 物騒なところだね」
「お前みたいなのが来るところじゃない」
「とは言っても。帰り道がわからないし。君は忙しいの?」
「別に今はなにもしてない。けど、俺はたぶん手伝ってやれない」
「ああ。いいよ。じゃあ、何か話をしよう」
「は?」
「君、名前は」
「……52」
「私は」
そこでぴたりと女は喋るのをやめて「名前、名前もうまく話せないからまた今度でいい?」と言った。なんだそれは。と思ったがその時は「それでいい」答えた。三日後には「今度っていつだ」と詰め寄る程にこいつに興味津々になるのだけれど、俺はこの時は、そんなことになるなんて気付かずに周囲を警戒しながら話をしていた。
あいつは大抵、話しの途中で映像が途切れるみたいに消えてしまった。
そして、また一日か二日経つと同じ場所に現れて「52」と手を振っている。
こいつがここに居る為には何かのルールに従うことが必要不可欠らしく、こいつは、自分から自分の話は出来なかった。俺が質問すると外の世界での生活を聞かせてくれた。ただ、個人を特定するような、店の名前や人の名前は喋れない。「ここが大事なんだけどな」とよく悔しそうにしていた。
彼女は俺に質問することはできた。許されていた、と言い換えることもできるだろう。
「52、誕生日はいつ?」
「誕生日……、六月十四日だ」
「えっもうすぐだね……?」
「ここでは誕生日なんて、なんの意味もない」
「それは」
寂しいな、と彼女は言って、それから「わかった」と頷いた。なにがわかったなのか。「なんとかしよう」「なんとかって」いつも通りに笑っているが、なにをどうするのか俺にはさっぱりわからない。
「どうするんだ」
「だから、なんとかする」
この状態も奇跡みたいなものだし、きっとなんとかなる、と言っていた。俺にはその笑顔は何よりも眩しく強く見えたから、彼女が言う通りになんとかなるような気持ちになって、こくりと頷いた。



その日に彼女が現れたのは夜だった。
「52」「52ってば」と俺を起こして「誕生日おめでとう」と何か甘い匂いのするものを差し出した。
「……なんだこれ」
「ショートケーキ。食べよう。今すぐ」
「今?」
「今」
勢いに押される形で向かい合って座った。「この赤いやつは?」「いちご」「白いのは?」「クリーム、大丈夫、全部食べられるから」「本当か……?」俺は彼女の持って来たフォークで一口ケーキを食べる。
彼女は「どう?」と聞いてくるが、俺はあっと言う間にケーキを一切れ食べ終えていた。それを答えとしてくれたのだろう、彼女は自分の分のケーキの、いちごの部分を俺に差し出した。「これも食べて」「お前のだろ」「ショートケーキのいちごというのは、大切な人に食べさせるものなんだよ」「……先に言えよ」ならば俺だってお前にやったのに、と言うと「まあまあ」とこいつは俺の口にいちごを押し付けた。甘くて、酸っぱい。
「これは、たぶんだけど」
「? ああ」
「きっともう、ここでは私と会えなくなる」
「え」
「これは奇跡。奇跡の時間はこれでおしまい」
「なんでそんな冗談を」言うんだ、と睨み付けてやろうとしたが、ところどころなまえの体が透けて、後ろの壁が見えていた。こんなことは、今まで一度もなかった。いつもと違うことが起ころうとしている。
俺はぎゅと唇を引き結んでこいつを見つめた。
こんな日が来るとわかってはいた。こいつは実際にはここにいない。夢のような存在だった。俺の夢だ、とこいつは言ったが、途中からはこいつの夢でもあったはずだ。
「願い事を叶えてくれた神様に、今日が最後でいいからってお願いしちゃったからかな。これは私のわがままだけど。私は、どうしても52の誕生日が祝いたかった」
「……俺は、お前がずっとここに来てくれるほうが嬉しかった」
「そっか」
そうだね、と笑っている。最初から最後まで勝手な奴だった。突然訪れたと思ったら、突然消えていくのだと言う。視線を落とす。ぽつ、と手の甲に落ちた涙は、俺のだったか、こいつのだったかわからない。
声がした。
「誕生日おめでとう。52。私、君が大好き」
俺も、と叫ぶような必死さで言ったのだけれど、もうそこには、誰もいなかった。食べかけのショートケーキだけ残っていて、あいつは。そう、あいつは、はじめからそこにはいなかった。
「名前くらい、教えて行けよ」
夢を見せられるのも突然なら、覚めるのはもっと突然だ。



「なあ」
「えっ」
その女は誰もいないと思っていた場所から声を掛けられたので驚いて、ずるりと座っていた段差から落ちた。「あの時とは逆だな」と笑うと、なんのことだかわからないという顔で首を傾げた。
「今、暇か」
「まあ、何も、してない、けど」
「何か話そうぜ。お前、名前は」
「……なまえ」
「そうか、俺はな、ジョーカーってんだ」
「へえ」なまえ。そうか。お前はなまえって名前だったんだな。「ジョーカー」確かめるようになまえは俺を呼んだ。
「ああ、ジョーカーだ」
同じ奴を見つけた時の興奮を、お前は一生知らなくていい。
と、思ってたはず、なんだがなあ。


----------
20200722:キーリさんにご許可頂いて書かせて頂きました…過去編…ですよね…。後から「なんだか雑なナンパだったね」となまえに言われて「お前の直伝だよ」と返して欲しいですね…妄想がひろがりんぐなんでこの辺にしておきます…。

 

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -