20200703@


人間でないことは、彼女の前ではあまりプラスに働かない。無力である、と、俺は膝をつき、変わり果てたなまえの体をそうっと撫でた。
なまえはなまえの面影の残る丸い両目で俺を見上げている。獣らしいぎらぎらとした光がないのは、これがなまえである何よりの証拠である。「にゃあ」と小さく鳴く声はか細く、俺は勝手に寂しいような気持ちになった。なまえの言葉が、俺に、何一つ届かない。それは間違いなく悲しいことであった。

「なまえ、大丈夫か」

俺の言うことがわかるのだろうか。なまえは再び「にゃあ」と短く鳴いた。
抹本の診断では、こうである。『一種の呪いのようなものだから、その内には解けるよ。え、い、いつになるか? う、うーん。呪いの元はもう斬島が始末してるでしょ、だから、その内、い、いや、だから、いつになるかはわからなくて、きっと近いうちにはって、あの、ご、ごめん、俺にもわからない。あんまり長引くようなら先生にも見て貰ったほうが、え、いますぐ行く? そ、そっか、気を付けてね……』俺はなまえをそうっと抱き上げて頭を撫でる。ぐるぐると低い音がしているが、これは猫が気分が良い時に出す音だとなまえが教えてくれたので、きっと異常事態ではない。

「そろそろ腹が減ったか……?」

なまえは元々人間で、猫ではない。なまえの姿を見ていて餌の場所だとかトイレの場所だとか、そういうものはわかっているけれど、猫ではないなまえは何を食べるのだろう。「塩は駄目なんだよ」とはなまえの言葉だ。なまえは猫ではなくとも、身体は猫である。人間の消化器官と同じではないはずで。そうなるとなまえの家にストックされている猫の餌だろうか。俺はしかし、なまえに猫の餌を与えることに抵抗があった。
何かないだろうかとひとり、なまえの部屋で立ち上がると、なまえはすかさず俺の肩に飛び乗った。器用にバランスを取って立っている。「気を付けろよ」台所に行くと炊飯器の中に白米を見つけた。棚の中にはそうめんがある。

「このあたりはどうだ?」
「にゃあ」
「どう思う?」

俺はこの家に元々飼われている猫に聞いてみた。あいつはなまえを見ても我関せずという風に、ふす、と鼻を鳴らすと静かに眠りこけていた。今回もまた返事はない。ちなみに、先生は『まあ、今日いっぱいで無理なら薬を試してみようか』と大体抹本と同じようなことを言っていた。戻らなかったら、と俺は不安になるが、きっと俺よりもなまえの方が不安であろう。俺の手から若干食い辛そうに白米を食べる姿を見ているとなんとも言えない気持ちになる。俺はやれるのか。
いいや。けれども。これはなまえなのだから。次は新しい器に水を入れた。なまえは水面に顔を近付けて水を飲み始める。なまえもまた猫の体の使い方は猫を見て知っているようではあるが、見たからといって完全に真似できるわけはない。飲みにくそうに何度も顔の角度を調整している。そして俺は、それをなすすべもなく見守っている。

「すまない」

自然と漏れ出したのは謝罪であった。俺がもっとしっかりしていれば、こんな呪いを受けることもなかっただろうに。一生懸命に水を飲むなまえを至近距離でじっと見つめながら「すまない」もう一度言う。すると、ぱし、と左の頬をなまえの右の前足が触れた。ぐっと手を押さえられて、痛くはないが困惑する。どうしたのだろうか。「大丈夫か、どこか、痛むのか」なまえはひとしきり俺の頬を押さえていると、そのうちぱっと手を離した。

「あははは! 肉球のあとついてるよ!」

「!」驚いて目を見開くが、なまえはまだ猫のままだ。しかし、今鮮明に、からからと笑うなまえの姿が見えて、声が聞こえた。「なまえ?」俺が呼ぶと、なまえは「にゃあ」と猫の声で応えた。
何を言っているのか、やはりわからないが、これは食事を共にしたからだろうか。さっきよりはわかる気がする。今、きっとなまえは機嫌がいい。それは、きっとという不確かな、感覚だけの話ではあるものの、今度はあまり寂しい気持ちにはならなかった。俺はなまえの頭をゆっくりと撫でる。苦労することはあるかもしれないが、大丈夫だ。もし万が一戻らなくても、俺と、なまえならば。むしろ、そうなればずっと傍に居られて万々歳なのではないか。そんな風に開き直った時、ぱっと、なまえが目の前に現れた。

「ただいま」


 

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