20221130/帝統と左馬刻


 ヨコハマのオフィス街、新しくも古くもないビルの九階が私の職場だ。昼休みには外に出て、ビルの合間にある公園へ向かう。スーツを着た人が多い。隅の方には喫煙所もあるから、子供の遊び場と言うよりは、大人の溜まり場という感じだ。散歩している人の中には子供を連れた母親もいるが、さほど多くはない。噴水のそばにあるベンチに座る。ここは特等席だ。水音が他の音をかき消してくれる。
 私はいつもここで、水の音を聞きながら本を読む。昼はあまりお腹が空かないので昼食は食べない日が多い。体質、と言うよりは、朝、食べすぎているからかもしれない。
 足元を鳩が歩いていくのを見送ってから文庫本を開く。何年も前に買った安っぽいブックカバーがかかっていて、どんな本でも手に馴染む。いつも通りにページをめくる。しばらくそうしていると、隣に誰かが座った気配があった。そういうことは時々ある。気にするようなことでもないが、今日は何故か、公園にいる人たちがざわついていた。声と視線は私の隣に向いている。気付かないフリでページをめくると、目の前を通り過ぎた子供が、私の隣を指さして。
「あっ、左馬刻」
 と、言った。さまとき。左馬刻? 碧棺? まさかそんな。
「左馬刻様な」
 左馬刻様だ。私は必死に冷静なフリをする。なんでこんなところにいるのか知らないが、わざわざ公園のベンチに座るんだから疲れているのだろう。私は同じ行に何度も読みながら思った。ちっとも次のページにたどり着かない。
「なあ」
 平常心。変にリアクションする方が失礼だ。多分待ち合わせで、今きっと誰か来たのだろう。それか、電話をしているとかそういう事だ。そうに違いない。
「今隣で座って本読んでるてめーに話しかけてんだわ」
 ようやくページをめくろうとしたが驚きすぎて本を落とした。横を見ると確かにMAD TRIGGER CREWの碧棺左馬刻だ。なんと返事したものかわからず無言でいると、碧棺左馬刻、様は私が落とした本を指さす。「落としたぞ」「あっはい拾います」細かい砂を払ってもう一度碧棺左馬刻様と視線を合わせる。
「ええと、あ、退いた方がいいとか?」
「あ? んなこと一言も言ってねえだろが。ただ世間話しよーと思っただけだ悪ィか?」
「ああ、世間話」
 世間話。世間話? 何故? あまりにも予想外の言葉で余計なことをあれこれ考え、納得できそうな理由を探してしまう。私のようなOLに話しかける理由。話しかけなければならない理由。
「あっ、情報収集?」
「世間話しにきたっつってんだろ」
 出すぎた事を、と口元を押さえる。彼が世間話だと言ったら世間話だ。もう一度、改めて碧棺左馬刻様と目を合わせる。
「……何読んでんだ」
「……本?」
「見りゃわかるわそんなもん舐めてんのか」
「小説です……」
 改めて砂がついていないか確認してから本を渡した。本を読むイメージはないが、実は読書家なのだろうか。そう思ったが、本を受け取った彼の指先はもの慣れない様子だ。その姿は、少し、面白い。彼は一ページ目を開いてタイトルを確認する。「ミステリか」ジャンルのわかりやすい本を読んでいてよかった。
「はい」
「おもしれーのか」
「私は好きです。何回か読んでるんですけど、何回読んでも面白いんですよね。文も読みやすいし」
「へえ」
 碧棺左馬刻様と会話をしてしまっているが大丈夫か。不安になってみたり、この際だからこの距離感を楽しんでみようかと逆に余裕が出てきたりと心の中が忙しい。びっくりするくらい綺麗な顔だ。
「もし興味があるようなら持って行ってください、その本」
 碧棺左馬刻様は私と本とを交互に見る。
「なら、借りてくわ」
 彼はすっと本を持って立ち上がる。衝撃の出会いから数分、さらりと去って行く姿にようやく合点がいった。きっと、暇潰しだったのだ。背を向けたまま手を振られる。見えていないと分かっていたが私も、彼の背中に向かって手を振った。彼が手を振るのをやめるのと同じタイミングで同じように手を下ろす。「あ」間違いなくこちらへ振り返った碧棺左馬刻様は言う。
「ちゃんと返すから、本読む場所変えんじゃねーぞ」
 碧棺左馬刻様はそう言って、微かに笑ったようだった。子供へ向けた、柔らかい声音が思い出される。MAD TRIGGER CREWの碧棺左馬刻様がわかったような気になる、とんでもない日だったなあ。本を渡してしまって、やることのなくなった手のひらを見てハッとする。
「あ、カバーも持ってかれちゃった」

 帰りの電車でカバンに手を突っ込んで本を探す。なかなか手に当たらないので不思議に思ってカバンの中を見ると、いつもよりがらんとしている。そう言えば、碧棺左馬刻様に本を貸したんだったと思い出した。碧棺左馬刻様に本を貸した? まるで友達みたいだと面白くなって笑いを堪えた。
 二十分程電車に揺られ、最寄り駅で電車を降りる。ほとんど自動的に体が動く。これは、大学を出て社会人になって三年、借りているアパートから会社への往復で体に染み付いた動きである。駅から出るとぐるりと周囲を見る。こっちは、割合に最近できた習慣だ。時々、ここで私を待ち伏せしている人がいる。連絡をしてくれればいいのに、事前に連絡は一切ない。一度気付かず帰宅し、勝手に心配され大事になったことがあるから、確認するようになった。
 ベンチに、深い緑のコートを着た男が座っている。フードについたファーで顔が半分隠れているが、長い足やら跳ねた髪ですぐにわかる。手に持っているのは拾ったパチンコ雑誌だろうか。
「帝統くん」
 有栖川帝統くんはパッと顔を上げた。私と目が合うと「おう!」と笑って立ち上がる。相変わらず犬みたいだ。はじめのうちは、私でない誰かとの待ち合わせである可能性も考えたが、最近は気にせず声をかけている。軽快な足取りで私の前にやってくると、満面の笑顔だ。
「オツカレ! 晩飯食わしてくれ! ついでに泊めてくれ!」
 シブヤからの交通費でご飯くらいは余裕だっただろうに、わざわざ来たのだろう。要求は全て受け入れられるとわかっている頼み方に力が抜ける。
「はいはい」
「よっしゃーっ! サンキュー!」
 当然のように隣に並んで歩き始める。あまり詳しく聞いたことはないが、彼は日々ギャンブルをして生活しているらしい。勝つことの方が多いようだが、負けて素寒貧になることもあるそうだ。彼の中で私がどういう立ち位置の人間かはわからないけれど、時々こうして遊びに来る。お金は常に無いイメージだ。ほとんど身一つみたいな格好で、見かける度に今日も生きていたな、と思う。近所の野良猫を見るような気持ちだ。
「今日の晩飯は?」
「昨日の残りのカレー」
「おお!」
 一人であればそれで終わりだったけれど、冷蔵庫の中身を思い出しながら付け足す。
「と、ブロッコリーのサラダ」
「おおおお!」
 あまりに盛り上げてくれるものだからさらに何かつけたいような気もするが、デザートになりそうなものはミルクティーくらいしかない。
「あんたは相変わらず、めちゃくちゃちゃんと生きてんなあ」
 一体誰と比べてそんなことを言っているやら。「ありがとう」しかし、帝統くんにだけは暮らしぶりを心配されたくない。
「腹減ったなあ」
「そうだねえ」
 帝統くんもすっかり歩き慣れた道だ。お腹を撫でながら、期待感を込めた声と表情をしている。晩御飯と泊まる場所が決まって余裕があるのだろう。昨日の残りと簡単なサラダだが、私まで楽しみになってきた。
「いつもよりご機嫌じゃん。なんかいい事でもあったのか?」
 いつもこんなものだろうと思ったが、帝統くんには私が楽しそうに見えるらしい。思い当たることはある。
「いい事っていうか。面白いこと?」
「おっ、いいな。なにがあったんだよ。俺にも教えてくれ」
 思い当たることはあるけれど、やや言い難い。MAD TRIGGER CREWの碧棺左馬刻様と話した、のはすごいことだが、今まさにFlingPosseの有栖川帝統くんと話しているので、わざわざ語るのは恥ずかしい気もした。
「秘密」
「なんだよいいだろ?」
 唇をとがらせてぶうぶう言っている。足元を動き回る小動物が連想された。私はぐっと拳を握り合図をする。帝統くんも合図に気付いてぴくりとする。
「じゃあ帝統くんが私にジャンケンで勝ったら教える」
「よっしゃ乗ったぜ! 何本勝負にする?」
「三本」
「最初はグーな!」
 帝統くんはこのジャンケン勝負でいつも私に負けているのだが、毎回二つ返事で受けて立つ。勝負方法を変更しようかと提案したこともある。「今日は勝つんだよ。勝ちづけられる勝負なんてねえからな」とか何とか言いながら、罰ゲームの腕立て伏せをしていた。思い出しているうちに三本勝負はすぐに終わる。
 帝統くんは最後に自分が出したパーを眺めながら「もっとしっかり握っておけば」と悔しがっている。何度でも喜んでいるし、何度でも悔しがっている。項垂れているので軽く背を叩いてにやりと笑う。
「やっぱり秘密」
「クソー!!」
 そうも悔しがられると秘密にすることでもなかったかとは思うのだが、勝負は勝負だ。今日のところは秘密にしておく。帝統くんは、MAD TRIGGER CREWの碧棺左馬刻様と話したと言ったら驚くだろうか。彼は話したことがあるだろうか。
「また今度ね」
 すべて、またそのうちに確認してみよう。帝統くんはこれ以上粘っても仕方が無いと思うとパッと切りかえて明るく笑う。
「おう! 話したくなったら今日でもいいぜ!」
 そんなに知りたいのか、と吹き出してしまった。

 職場へ行く途中で新しい本を買った。久しぶりに紙のカバーをかけてもらって、カバンに入れる。碧棺左馬刻様に本を貸して三日が経過したが、あの人は本当に本を返しに現れるんだろうか。現れるような気も、現れないような気もした。どちらでもいいが、新しいブックカバーは必要だ。無くてもいいが、あった方がいい。今度買うなら長く使えるものがいい。会社のパソコンで通販サイトを見ていると「あ、サボり」と同僚に声をかけられた。同期の女の子で、入社した時、いや、余程縁があったのか、入社試験の時から知っている。
「新しいブックカバー欲しくて」
「あーボロボロだったわよね。ようやく新しいの買う気になったの」
「うーん」
 肯定と否定の中間だ。戻ってくるなら必要ない気がする。彼女は私の机から処理済みの書類を取り上げた。ついでに持って行ってくれるらしい。「ありがと」「一緒の方がいいでしょ」細かいところに気が回って、器用な女の子だ。感心するくらい会社での立ち回りが上手で、誰とでも直ぐに仲良くなる。「そういえば」書類を確認しながら言う。
「碧棺左馬刻がいたんだって」
「碧棺左馬刻様が」
「そう。この間近くで見たって子がいて。あんたいつも外に出てるけど、見た?」
「み、」
 見たし話をしたし本を貸した。彼女に言うべきか迷っていると、私の様子がおかしいことに気がついて「なに? 見たの?」と聞かれてしまった。「あー……」どうしたものか、と思うが、見ていない、と嘘をついても仕方がない。直ぐにバレる嘘はつかない方がいい。「隣に座って世間話をした」正直に言うと彼女は手から書類を落とした。ばさばさと紙の音がする。拾い上げて差し出したけれど彼女はもう書類なんてどうでもいいらしい。私の胸ぐらを掴んで廊下へ出ていった。何事かとこちらを見る同部署の人へ「トイレです!」と大声で言った。だから気にするな、と。たどり着いたのは給湯室だった。
「なんで?」
「わかんない。たぶん、暇つぶし?」
「碧棺左馬刻なんて言ってた?」
「本を貸した」
「なんで!?」
「面白いのかって聞かれたから?」
「あんたそれ碧棺左馬刻にナンパされたんじゃないの」
「あはは」
「笑いごとじゃない!」
 彼女は私を前後に揺らす。なんであれがナンパになるんだ。引き続き笑い飛ばしていると頭をはたかれる。「いいから順を追って話してみなさい」「仕事が」「私たちは優秀だから大丈夫」面白がられている、と言うよりは、心配されているような感じだ。何も心配する必要は無い、と伝えたくて順を追って説明した。彼女は真っ青になってまた私を前後に揺らす。
「それは! 次も会いたいってことでしょうが!」
「本を貸したし」
「借りてったんでしょ! あの左馬刻が! わざわざ!」
 そうとも言えるのだろうか。頭を揺らされすぎて思考がふわふわしてきた。しかしあの人は、あそこに座っているのが誰であっても、同じように話をしたのではないだろうか。
「そんな馬鹿な。私である理由がないし」
「そんなの、あんたが丁度よく見えたんでしょ」
 碧棺左馬刻様にとって、私がちょうどよく? 暇つぶしにちょうど良いならわかるが、ナンパするのにちょうど良かったとはとても思えない。あまりに有り得ないすぎてより大きい声で笑ってしまう。
「あはははは!」
「笑い事じゃないっつってんの!」
 彼女もさっきより強い力で頭を叩いた。「どうやったらあんたみたいに能天気になれんのか教えて欲しいわホントに!」私は、どうやったらあなたみたいに上手いこと人と仲良くなれるのか教えて欲しいけどなあ。
「……気をつけなさいよ。ほんとに。悪い人ではないんだろうけど。あんた人がいいんだから、利用されて泣くことだけはないように」
「うん、ありがとう」
「なにかあったらすぐ連絡しなさい。返事は?」
「はい」
 心配症だ。色々気がついてしまうからだろう、思い悩んでいることも多い。私に容量を割く必要はないのに。帝統くんほどではないが前向きな方だ。
「大丈夫だよ」
 私が言うと余計に心配になったらしく、より険しい顔をしていた。彼女の言った通り、碧棺左馬刻様は怖い人かも知れないが、悪い人ではない。仮に、もし本当に次似合うことがあったとしても、大したことにはならないだろう。昼休みになって、ビルから外に出る時に、ガラスに薄ら写った自分を見てまた笑えた。心配してもらえるのは嬉しいが、やはり、考えすぎだ。
 休憩時間に公園へ行くと、いつものベンチに先に座っている人がいた。立ち止まって、声をかけていいものか迷う。銀の髪は柔らかく太陽光を反射して、赤く鋭い目は私が貸した本に落とされている。もう少し近くへ行ってみようと躊躇いながら前へ進むと、碧棺左馬刻様は私に気がついて軽く手を挙げる。
「よう」
「こんにちは」
 近くへ行ったら行ったで今度は、隣に座っていいかわからない。棒立ちだったのが気になったようで彼は自分の隣を顎で示した。
「こっち座れや」
 あれこれ許してくれるおかげで迷う時間が最低限で済んでいる。「返す」三日ぶりに手元に戻って来た本は、なんだか別の本みたいな雰囲気を纏っていた。不思議なものだな、と眺めていると「面白かったわ」と碧棺左馬刻様は言った。
「特に、あれだ、主人公がブチギレるとこが」
「ああ。言いたいことを全部言ってくれて、爽快ですよねえ」
「おう。もっと暗い話かと思ったんだが、なんつーんだ。お前の言ってた通り読みやすいしよ。なかなかいい時間だった」
「それならよかったです」
 本、というより、物語には好みがあるし、面白い面白くないは人によって様々だ。もし「どこがおもしれーんだ」なんて話になったら困ってしまうところだった。いや、いくらでも語れるけれども。碧棺左馬刻様は「で、だ」と改まって私を見た。彼は腕を伸ばして、私に紙袋を突きつける。
「これやるからよ。持ってけや」
「なんですか?」
「ブックカバー。かなりの年代物だろ、それ」
 紙袋の中を見ると、鮮やかな青色のブックカバーが入っていた。革に着色したのだろうか。しっかりとした作りのもので、今持っているものと同じように、折り曲げた位置で文庫本のカバーにも新書のカバーにもなる。綺麗な青色だ。MAD TRIGGER CREWのチームカラーも青だったような。「気に入ったか」私はハッとしてブックカバーと碧棺左馬刻様を交互に見る。
「いや、あの、こんないいもの」
「いいから持ってけ。おもしれー本の礼だ」
「けど」
「いらねえとか、趣味じゃねえとかなら引き取ってやる」
「いえ、素敵ですよ」
「ならいいじゃねえか大人しく持って帰りやがれ」
 ブックカバーを貰ってしまった。本を貸しただけのお礼にしては気前が良すぎるなとは思うが、彼にとってはこれだけの時間を過ごせたということなのかもしれない。もしそうなら、受け取っておいても罰はあたらないだろう。
「ありがとうございます」
「おう」
 険しい顔が微かに緩んだ。人気があるわけだ。普段だとか、ディビジョンラップバトルのポスターなどは怒っているような表情ばかりだが、元々の造形が整っているのでどんな顔をしていても様になる。細かい表情の差を見逃してしまうのはもったいない気がした。
「どうした」
「え、ああいや、綺麗な顔だなと」
「お前そんなバカ正直だと生きにくくねえか」
「うーん。不器用だなとは思います」
「自覚があるようでなによりだわ」
 私達の後ろでは噴水が常に音を立てていた。会話が他の人に聞こえることはないだろうが、碧棺左馬刻様は依然注目を集めている。全員、暇つぶしくらいには付き合ってくれそうなものだけれど。「ナンパされたんじゃないの」心配されているのはわかっているが、あまりにも深刻な顔で言うので面白かった。思い出すと、うっかり笑ってしまう。
「今度はどうした」
「すみません、一人で笑ってて」
「言いたいことあんならハッキリ言えや」
「いえ、確認するにはやや恥ずかしいことですし、ただの思い出し笑いですよ」
「確認? 俺にか」
「そうです。でも本当に、大したことじゃないので」
 なんなら、今、こうして話をしているのも面白くなってきた。喉の奥で笑う。こんなふうにしているから碧棺左馬刻様は何事かと気になるらしい。「いいからさっさと聞いてこい」きゅっと眉間に皺を寄せる。
「碧棺左馬刻様は有名人でしょう」
「まあ、そうかもな。つかなんでフルネームだよ。左馬刻でいいわ」
「同僚に何の話をしたのか聞かれたので、本を貸したって言ったんです」
「おう、そしたら」
「それはナンパされてるんじゃないかと言われて」
 ブックカバーを貰ったと言えば「確定!」と叫ぶのかもしれない。その姿を目の前で見たら、また笑ってしまうかもしれない。
「気分を害されたら申し訳ないんですが。私にはそんな風に言われること自体が面白く思えて」
「そうだっつったら」
 鋭い一言だった。私は顔を上げる。左馬刻様の顔を見ても冗談なのかそうでないのかわからない。「そうだっつったらどうする?」聞き間違いでなかったことはわかった。
「とりあえず、正気ですかって話をして」
「正気だったら?」
「正気だったら、どう、したらいいんでしょうね」
 怒られるかと思ったが、彼は真面目な顔で「そうだな」と考えてくれる。ますます笑えなくなってきた。彼女の心配事は八割でなく九割方起こらないのに。
「まあその気がねえなら引き続き口説くだけだな。俺様としてはよ」
 その気。大変さまざまな意味を含んでいそうな言葉を聞いて汗が出る。二回会って少し話しただけの相手に、どんな気になりうると言うのだろうか。私は何も掴めなくて黙り込むしかない。
「てめーはたぶん、誰に対してもそんなんなんだろうけどな。手応えはあると思ってんだわ」
 言葉の処理に時間がかかって、顔に表情が出るに至らない。私は左馬刻様の表情からなにか読み取れるものはないかとただ見つめる。
「そろそろやめとけ、勢い余って何するかわかんねえぞ」
 やめるとはなにを? 左馬刻様は立ち上がると、私の頭をぐりぐりと撫でた。犬猫にやるような感じだったのでほっとする。その、ほっとするのを見られていた。左馬刻様はタバコを挟んだ手で口元を隠している。「あー……」波音のような声で彼は言う。
「本当はもう知ってんだけどな。てめーの名前、教えろや」
「ーーなまえと、言います」
「ーーなまえ」
 左馬刻様に呼ばれると違う人の名前みたいだ。たぶん、じわじわ顔が赤くなっている。真正面から見ているのが恥ずかしくなってきた。が、左馬刻様が視線を外さないから、私も目を動かせない。
「またな。もし来ねえ日は連絡寄越せ」
 言葉を理解するのに時間をかけていると、左馬刻様は喉の奥でくっと笑う。面白かったのは私の顔だろうか。
「返事は」
「はい」
「よし」
 息を吸うのを忘れていたみたいで、手の先が痺れたみたいになっていた。慌てて数回深呼吸をする。残された紙袋の中身を見る。MAD TRIGGER CREWの青だ。見かねてプレゼントしてくれたのだと思えたら良かったのだが。完全に、藪をつついて蛇を出した。いや、蛇なのだろうか。私にとっては、もっといいものなのだろうか。
 勢い余って返事をしてしまったが、連絡先なんて知らない。どうやって連絡するんだろう。
「まあ、毎日来てるし連絡しなきゃいけないようなことも」
 仕事が始まるまでにもう少し落ち着いておきたい。返してもらった本をぺらぺら捲ると、彼の住んでるところやら電話番号メールアドレスにいたるまで、全て書かれたメモが落ちてきた。とんでもない個人情報だ。
「……これは、ナンパとも違うのでは」

 紙袋が同僚に見つかると「また会ったの!?」と直ぐにバレた。そして私が微妙な顔をしていたからだろう。「今度こそなんか言われたんでしょ!」言われたと言うより、言わせた。あまりにも有り得ないことだと私は勝手に思っていたのだが、話はもっと深いところにあって、もしかしたら、左馬刻様はこの場の誰が思うより本気なのかもしれなかった。私の名前を呼んだ声は、子供に向けたものより甘く優しく。自分の方へ引き寄せるような響きを持っていて。
 彼女に一通り話をすると「なんで直接聞くの!?」と怒られた。「あんたはそんなことしたら逃げらんなくなるでしょ!」私のことをよくわかっている。それが嬉しくてくすぐったがっていると両肩を掴まれて揺らされた。
 午後一で、再び「トイレです!」と私を伴い今度は本当にトイレに行く。彼女は深刻そうな顔で私に詰め寄る。あまりの剣幕に今出ていった他部署の女の子がぎょっとしていた。
「で、どうすんの」
「どうするとは」
「付き合うわけ」
 左馬刻様を前にした時はそれはもう緊張したものだが、一度離れてしまうと実感が湧かなくなる。いや、左馬刻様の前でだって、何かを実感していたかと言われたら謎である。彼女の言葉と左馬刻様の言葉がうまく結びつかない。
「そんな話にはなってない」
「なってんのよ」
「なってる?」
「どう控えめに見たって、あんたがどこまで許すか計られてんでしょーが!」
 なるほど、と手を打った。その言葉が近いような気がした。私がどこまで許すか試されている。名前を教えたり話をしたり、頭を撫でられたりした。次は? 連絡先を渡された、ということは、連絡を取り合うことを許すかどうか見られているのかもしれない。「なるほど」もう一度頷くと、彼女は大きなため息を吐く。
「最終的にペロッと食べられても文句言えないわよ」
「最終的にそんなことになる?」
「なるわよ。あんた、碧棺左馬刻に狙われてんのよ。ナンパじゃなかったわ」
「それって違う?」
「今の話聞くと、覚悟を決めて声掛けられてる可能性が高いでしょ」
「つまり?」
「相当好かれてんのよ。碧棺左馬刻に」
「なんで?」
「なんでそういうところを聞いてこないわけ?」
 そんなことまではっきりさせる勇気がなかったからだが。私は左馬刻様の視線や声を思い出す。迎え撃つというよりは、待ち構える、という感じだ。左馬刻様が行動して、私のリアクションを待っている。
「私は、何を求められているんだろうね」
 最終的に。人間関係においてそんなことを言語化するのは難しいけれど、友達とか恋人とか、そういう、区分けされた表現は可能に思えた。彼女は私の頬を抓る。「痛い痛い」両手で両頬を抓ることないのに。
「あんたがそんなだから変な男ばっかり寄ってくるのよ」
「変な男?」
「シブヤのギャンブラーとか!」
「彼は結構普通だよ」
「見ず知らずの女の子の家に泊まりに来る男は普通じゃない」
 そういえば。帝統くんと知り合った時も彼女は荒れに荒れていた。帝統くんをはじめて家にあげた時、無神経に「二十歳くらいの男の子ってなにが必要?」と電話をしたから全てを話すことになったのだ。
 あの時の彼は服以外のものを持っておらず、その着ている服にさえ泥がついていて酷い状態だった。川にでも落ちたのかというくらい汚れていた。冬の夜中、公園のそばの自販機に体を寄せて震えていて、びっくりしすぎて暫く動けなかった。立ち竦んでいると帝統くんは私を見てニッと笑った。そして、体を預けている自販機を叩く。
「なんか、あったかい飲みもん奢ってくんねえ? なんでもいいからさ」
 私は胸を押さえつけられるような衝撃を受けた。本当に大きく心臓が収縮したのかもしれない。足も手も口も動きはじめた。私は彼の目の前にしゃがんだ。どこかで見た事のある顔だ。どこだで見たんだったか。考える。
「私の家そこだから、お風呂入っていけばいい。食べるものも何かしらあるし、一晩くらいなら泊まってもいい」
「えっ、マジ?」
 同僚は後日「正気じゃない」と叫んだが、この時私はどうしても、彼を放っておくことは出来なかった。
 彼は嬉しそうにしたくせに、温かい飲み物を奢って欲しいと言ったくせに「いや、この格好なら公園とかで綺麗にするし、野宿には慣れてんだ」などと言った。
「そんなの」
「それによお」
 彼はぐっと体を近づけて私の手を掴む。
「あんたさっき、怖がってたじゃねえか」
 今だって手、震えてるぜ。帝統くんはそう言って笑った。手は直ぐに離される。そんなの当たり前だ。突然現れた知らない男は怖いに決まっている。けれど、私は、怖がって遠ざけることよりも。ーーその時、彼の顔の下あたりで揺れるサイコロのアクセサリーが目についた。
「ダイス……」
「あ?」
 有栖川帝統だ。FlingPosseの。「よし」無類のギャンブル好きで有名だったはず。私はぐっと拳を握って言う。
「なら、勝負をしよう」
「勝負?」
「私が勝ったら家まで来てもらう。帝統くんが勝ったら。私はもう何も言わない。あったかい飲み物は奢る」
 帝統くんは目を丸くして、その後大声で笑っていた。「いてて」笑うと体が痛むようだったので、怪我をしていたのかもしれない。「ふ、はは、あんた」私には、笑う余裕なんてなかったから、たぶんずっと真顔だった。
「乗った! 何で勝負する?」
「ジャンケン」
「何本?」
「三、二回勝った方が勝ち」
「いーぜ」
 それ以来、帝統くんは時々家にやってくる。あの時は、まさかそんなことになるとは思っていなかったが、同僚の彼女は「ハーー……」と大きくため息を吐く。「そりゃそうでしょ」と呆れ返っていた。「そんなことしたら、懐かれるに決まってる」そうだろうか。彼の話を聞く限りでは、彼が頼めば泊めてくれるところは複数あるようだから、私はそのうちの一つだ。同僚は言う。
「あんたを好きになるやつは、みんな苦労するわ」
 帝統くんと関わることをやめさせようとしていた時期もあったが、彼女は直ぐに諦めた。私も帝統くんも好きなように生きているだけ、だと思うのだが。これは、これらは、そんなに大変なことだろうか。
「ーーなあ、俺の話聞いてたか?」
 ハッとして、今、目の前にいる人の顔を見た。帝統くんが私の顔を覗き込みながら歩いている。「帝統くん」駅で合流して、家に帰る途中の道だ。もうすぐそこが家である。「あぶねーから前見て歩けよ」前は見ていたが、見えている情報は一つも処理されていなかった。
「あとなあ、いくら俺でも今存在に気がついたみたいな顔されっと傷付くんだぜ」
「ごめん。えーっと、今日の晩御飯はグラタン……」
「その話はもうしたっての」
 ならば、話を聞いてもいなかった。「ごめん」思ったよりもぼうっとしていたらしい。処理するべき情報が渋滞している。しばらく時間が経ったが、まったく流れて行かない。私は軽く頭を振った。ご飯を食べてお風呂に入れば、いくらかすっきりするはずだ。帝統くんまで私を心配して言う。
「悩みごとか」
「ううん、悩んではない」
「悩んでないやつの顔じゃねえよ」
 家に着くと鍵を開けて、コートをハンガーにかけてクローゼットへしまうと、荷物は隅のほうへ置いた。いつものカバンと、左馬刻様に貰ってしまった紙袋。「……それと関係あんのか」帝統くんは私が持っている紙袋を指差して言った。「悩み事だよ」悩んでいる、というほどはないのだけれど。私は紙袋の中から青色のブックカバーを取り出した。
「これ」
「なんだよそれ」
「ブックカバー」
「買ったのか?」
「貰った」
「ってことはタダか! 良かったじゃねえか! 同僚のねーちゃんにもらったのか?」
 仕事の話をすると、必ずと彼女が登場する。たがら帝統くんも彼女がいい人だと良く知っていた。ブックカバーを帝統くんに渡す「なんか高そうだな」とさらさらとブックカバーの手触りを確かめている。
「それ」
「おう」
「碧棺左馬刻様に貰った」
「は? サマトキサマ?」漢字変換して、顔を思い浮かべるまでにしばらくかかっていたと思われる。「ヨコハマの?」「ヨコハマの」MAD TRIGGER CREWの、と付け足す。「左馬刻様が」あの、碧棺左馬刻様が。
「くれた」
「なんで?」
「本を貸したお礼だって」
「知り合いだったのか?」
「知り合いになったが正しい、かな……?」
「ふーん」
 帝統くんは再びブックカバーに視線を落とす。私向けて放るように返す。「ちょっと」なんでそんな雑にーー。
「あんまり趣味が良くねーな」
 文句を言おうと思っていたのに、不貞腐れたような顔をしているのが気になって彼の顔を覗き込む。
「珍しいね」
「なにが」
「帝統くんからそういう言葉が出るのをはじめて聞いた」
 多少デザインがアレでも「タダで貰えるもんはみんないいもんだぜー!」と、言っているイメージだし、実際聞いたこともある。帝統くんは唇をとがらせてソファに寝転がった。
「言いたくもなんだろ」
 ソファの背に手をかけて帝統くんを見下ろす。目を閉じて、なにかに必死に耐えている風だ。
「今度会ったら文句言ってやる」
「なにをそんなに怒ってるの」
「怒ってねえよ」
「怒ってると思うけど」
「怒る資格なんかねえし」
「資格?」
 帝統くんはソファから体を起こしてじっと私と目を合わせる。「ハーー……」同僚の彼女の顔と重なる。「あんたを好きになるやつは」彼女がそう言った時と同じ顔だ。怒っているような呆れているような、諦めているような、その全てを許容しているような。
「わかんねーならいい」
 帝統くんはパッと切り替えて「腹減ったな!」と笑う。「その前に風呂借りてもいいか?」「う、ん。どうぞ」「サンキュー! 今日も助かるぜ!」私も笑い返したが、何かが決定的にズレ始めた。そんな気配がずっと消えない。


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20221116:こういう本を作らせて頂く予定です。

 




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