大きな欠伸をすると、隣で歩いていたブローノは心配そうに私を見上げた。座っていると眠ってしまいそうだったので、散歩をしようと提案したのだ。
「眠いの?」
「ちょっとだけ」
最近どうにも襲撃が多い。夜中であったり、人混みであっても見境なしで襲われる。毎回始末するなり追い払うなりするのだが、一人でさばききれる量にも限界がある。体格差があるので、捕まればひとたまりもない。そしてなにより、彼らには情報があるようだった。私を侮ってくれることがなくなった。明らかに、徒党を組んで、狙って私たちを襲撃してくる。
本当であればこうして二人の傍から離れるのは危ないのだろうが、父も母も行くなとは一言も言わなかった。「あなたはこれしか楽しみがないんだから」と背を押されて会いに来たが、心配をかけるくらいならやはり、来ない方が良かったのかもしれない。
「そこに座って少し寝た方がいいよ」
「寝るんだったら宿に戻るって」
「けど」
「大丈夫」
言いながらも欠伸が出た。ブローノはこちらを気にしていて、私は気が抜けていた。軽く、前方から歩いて来た男にぶつかってしまった。「すいません」私が言うと、男はわざわざこちらを睨み付けて来た。微かにアルコールの臭いがする。片目が血走った、四角い顔の男であった。胸倉を掴まれて、ぐっと持ち上げられる。
「ああ? 今、なんつった?」
「すいません、と謝りました」
「謝りましたじゃあ済まねえだろうがよッ!」
ブローノが私の名前を呼ぶのが聞こえた。ああ、こんな時に。こんな場所で。こんなことならいつも通りに海岸で喋っていたらよかったな、と息を吐く。私の顔に男の唾がかかる。
「大人はな、こういう時は慰謝料っつーのを払うんだよ。お嬢ちゃん」
どうするか。考えているとブローノが男の体を掴んで言った。
「やめてください。少しぶつかっただけじゃないですか」
「じゃあお前が代わりに払うのかッ!? ええ?」
男が手を振り上げたのを見て、体を揺らして足を跳ね上げ、両足で顔を蹴飛ばした。「おグぁッ」こちらを見ているブローノに動かないように合図して、倒れている男の傍へ寄った。顔の真横にナイフを突き立てる。ブローノからは見えないはずだ。
「カツアゲする相手は選んだほうがいい」
男は小さく悲鳴を上げて逃げて行った。どこに行っても危ない時は危ないものなのだな、とナイフを仕舞う。ブローノを振り返ると、彼は悲しそうに私を見つめていた。
「よくあるんだ」
へらりと笑って見せるが、安心してくれた様子はない。私の傍に立って、ただ、じっと私の目を覗き込む。いつの間にか、同じくらいの背丈になったな。私が十三になったので、ブローノは十一になったのだろうか。ブローノがなにか言いたそうに唇を動かすので、私はしばらく彼からの言葉を待っていた。
「ごめん」
「なんで?」
今のは私の不注意だ。謝らなければならないのは私の方であるのに、ブローノは苦しそうに眉根を寄せる。
「なんて言ったらいいのかわからないんだ」
「じゃあ、何も言わなくてもいいんじゃないの。私はそれでいい」
「ありがとうと言われなくても?」
「ありがたいなと思わなかったなら、言わなくてもいいんじゃないの」
それより以前に、私があんなものにぶつかるからいけない。だから、自業自得であり、どこに彼が感謝しなければならない所があるのかわからないくらいだ。だからいい。私はブローノの頭を撫でると、彼はその手を両手で掴んでぎゅっと握る。
「……ううん、助けてくれてありがとう」
ブローノはようやく少し笑ったが、私はやはり、その言葉を受け取ることができなかった。首を振って、男が逃げて行った方向を見る。村の中心部の方向だ。リストランテや宿泊施設もある。
「いいや。たぶんブローノならもっと上手くやったんだろうし、あれは、いらん恨みを買っただけかもしれない」
こちらを殺しにきたわけではないので脅すだけにとどめてしまったが、ブローノのことを考えれば明らかに最適解ではなかった。子どものおこづかいを巻き上げてそれで満足なら、渡してしまえばよかったのかも。
「ごめんは私の台詞だ。ここは君の暮らす村なのに」
あれが村の人間なのか観光客なのかわからないが、小さな村である。万が一、報復がブローノに及んだ時、彼らには逃げ場などない。狡猾な人間であれば、二人が漁に出ているタイミングを選ぶかもしれない。船の上など閉鎖的だし、死体を捨てるのも楽である。考えれば考えるほど、自分の軽率さに腹が立ってきた。こんなことではいけない。いつも通り、というのは思考停止なのだ。「ふふ」考え込んでいると、正面から笑い声が聞こえた。
「……なんで笑ってる?」
「君でも、そんな顔をするんだと思って」
言われて、確かに珍しい考え込み方をしたかもしれないと気付く。いつもは三秒くらいで反省会は終わるのに。やはり、ブローノを巻き込んだ、という状況が大変なのだ。
「私も後悔することくらいある。あんまり気にしないだけで。全くないってことは無い」
「うん」
「実際どう? さっきの、ブローノならどうした?」
「ぼくひとりならお金は渡したかも。けど、君が傷付けられたら、君と同じことをしたと思う。そうじゃなかったら、すぐそこのベーカリーに逃げ込んだ。あそこのマスターはすごく顔が怖いけど、子供が好きだから」
「……」
「どうしたの? ぼく、なにかおかしなことを言った?」
「視野が広くてムカついてる。そうか。私が全てを解決する必要は無いのか」
結果的にどうにかなればそれでいい。使えるものは全て使えばいいのだ。私は私が突撃していくことばかり考えている。それが癖のようになっている、が、癖になっているというのは問題だ。他の選択肢を無意識に排除していることになる。「ふむ」勝利条件あたりから見直す必要があるのかもしれない。充分うまくやっているつもりだったが、そんなことは全然なかったわけだ。一番優先されるべきものはなにか。簡単な問いかけを自分へ向ける。
「ブローノ」
「うん」
「ちょっとおつかい頼まれて。ここのベーカリーでオススメ適当に買って、坂のところにある果物屋さんでオレンジ買って、私たちがいつも泊ってる宿に届けてくれる? お金はこれ。それぞれ半々くらい使って買えるだけでいいから」
「いいけど、君は?」
「私は用事。ごめん。よろしく」
ブローノは私へ手を伸ばしたが、既に走り出していたので空気を掴んだ。私は男の逃げた方向へ最速で向かう。目的のものはすぐに見つかった。と言うより、追い払った瞬間から注意深く観察していて、逃げるとしたらどのあたりか、目星はついていた。建物の角に人が集まってくるのを確認していた。子供相手に残念なことだが、一対一では敵わないと見て、仲間を呼んだようだ。
「子供相手に情けないと思わないのかな」
ブローノが私の言う通りにしてくれれば、巻き込まずに済む。建物の角から路地を覗くと、さきほどの男が唾をまき散らして憤慨しているところであった。全部で七人。悠々と近付くと、仲間の一人がこちらに気付いて「こんなとこでなにしてんだ、あっちいけ」と言ってきた。全員がこちらを見る。私に顔を蹴られた男の顔が改めて真っ赤になる。「そいつだッ! 捕まえろッ!」あまり方向性は変わらないが、今度はもっとちゃんとやる。もっとちゃんと。復讐を考えられないくらい徹底的に。思い出すだけで恐ろしくなるくらい圧倒的に。やるなら、そのくらいの覚悟をもってやらないと、大切なものにも危害が及ぶ。
一人目は腕を刺して、二人目が飛びついてきたのを避けて肩を刺した、三人目は殴り掛かって来たので懐に潜り込んで腿を刺す、体を回転させながら、後ろの人間も切りつける。深くなりすぎないように気を付けた。向かってくる人間には漏れなく切り傷を作っていった。攻撃されたら、即返す。それを繰り返していると、路地はどんどん静かになっていく。じりじりと地面を踏むばかりで、襲ってくる人間はいなくなった。
「次は殺す」
切り傷、刺し傷だらけになった男たちに向かって言う。なにも言い返してはこなかった。一人ずつ睨んでいくと全員が震えあがって腰を抜かす。ただ、ことの発端となった男だけは私から目を逸らさないで睨んでくる。まだ足らない。あとは何ができるだろう。「こンのクソアマァッ!」銃。ああ、丁度いいな。壁を蹴って高く飛んで狙いを逸らす。空中で一度、目が合った。二度回転して、男に飛び込むように体を捻る。銃を持つ手の平を刺し貫いた。「ああああああッ!!」ナイフはそのままに、反対の手でもナイフを抜いて、その柄の部分で心臓のあたりを押した。ぐり、と服と、肉とを押す。骨と骨のあいだに柄が食い込む。
「――次は、殺す」
全員が同じ顔をしていることを確認してその場を離れた。
血がついてしまったので鞄の中から薄いコートを取り出して全身を覆う。宿に戻って一度着替えよう。ブローノに会わないといいのだが。いや、会えたほうがいいのだろうか。
「……違うな」
正解は、会うべきではない、なのではないか。
さっきの奴らに関しては念押ししておいたし余程大丈夫だとは思うが、私の情報がどこからか漏れているとしたら、私の友人は危ないのではないだろうか。父や母を襲いに来る彼らにとって私は邪魔で堪らないだろう。そんな私が、唯一、定期的に会って話をする。そういう人間がいたとしたら。それは、私に対しての切り札になり得る。その人間の傍に私はいないから、いい的だ。
もし、私がいない間にブローノになにかあったら。私のせいで死ぬようなことになってしまったら。
私は方向転換をしていつもの海岸へ向かった。ガランとしていて、海はどこまでも広がっている。ふと、空と海との境界線が光るのを見て、あそこへいってみたいなと思った。
波打ち際で靴を脱いで、海を蹴り上げる。
「冷たい」
思ったよりも冷たくて笑ってしまった。「はは」数歩進むと、もっと冷たいし、寒い。波が体にぶつかる度に、体温が海にもっていかれる。その感覚がどうにも楽しく、また数歩、沖の方へ歩いて行った。
頭がぼんやりとしていて、体が重くなっていくのも面白い。ついに波が顔にぶつかる。潜ってみようか。そう思った瞬間。思い切り手を引かれてバランスを崩した。何事かと水の中で振り向くと、ブローノと目が合った。彼は強く自分の方へ私を引いて、必死に岸へ連れて行った。
岸に座り込んで、彼はこちらを見つめる。その両目からはぼろぼろと涙がこぼれている。
「どうして」
どうして。ブローノは繰り返す。「どうして、あんなことをしたの」どうしてだろうか。「楽しかった、から?」ブローノは私の体を抱きしめて「二度としないで」と言った。何故、彼はこんなに怒っているのだろうか。考えて無言になっていると「死んじゃうかと思った」と教えてくれた。そうか。確かに、人が一人で、服を着たまま沖へ歩いて行ったら、死にゆくように見えるだろう。そんなつもりはなかったのだが。帰るつもりもなかったな、とブローノの背を軽くたたいた。濡れている。海に入ったから。私を連れ戻す為に。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「二度としないで。あんなことしたら駄目なんだ。わかった?」
「わかった。もうしない」
「服を乾かさなきゃ」ブローノは私の手を強く握って彼の家へ連れ帰って、母が僅かに残して行ったという服を貸してくれた。ブローノのお父さんがあたたかいお茶をいれてくれて、服が乾くまでブローノの部屋で待つことになった。「一体どうしたんだ」と事情を聞いて来た父に、ブローノは「ぼくが岩場から落ちたんだ」と言った。
「別に、嘘を言わなくても」
「君が沖に歩いて行ったから、なんて言ったら余計に心配をかけるよ」
「それもそうか」
海に持っていかれた体温はなかなか戻らなかった。シーツに包まり、ブローノとくっついていることで、ようやく息が整って来た。膝を抱えて、お互いにお互いの体を預け合う。海と私とは一方的な感じだったが、ブローノと私の間ではなにかあたたかいものが行き来しているように思えた。海よりもいいなと眼を閉じる。「ねえ、」返事をすると、ブローノは更に強く手を握る。
「次はいつここに来る?」
「どうかなあ。半年後とかになるのかな。最近大分忙しいみたいで」
「そんなに先?」
「うん」
もしかしたら、もう来ないかもしれない。最後かもしれない。私も手の力を強くした。ブローノはまた泣きそうな顔で私を見る。
「行かないで、と、言ったら困る?」
「今までずっとそうしてきたのに?」
「それは嘘だよ。今までとは状況が変わってきているみたいだし、今君は、もうここには来ないと、そういう顔をしたよ」
だからこのタイミングで言った。
「君なら、ここででも生きていけるでしょう? どうして危険な生き方をするの?」
即答できる理由は持ち合わせがない。強いて言うならあの人たちが親だからだ。やや世間からはズレているが、私もあれを受け入れている。そして私はたぶん、こういう風にしか生きられない。
「ここにいなよ、たぶん父さんもわかってくれる」
父と母は、私の有り様について何も言わない。ただ、移動時間中に体を鍛えることの他に、船員の手伝いをさせたり、言葉を勉強させたり、できるだけ沢山本を読むように言ったり、どのようにでも存在できるようにしてくれていた。
ここに残ったら、漁師の手伝いをするだけの体力もあるだろうし、観光客の案内だってできる。「考えたこと無かったな」父と母が私を捨てるまでついていくのだと思っていたし、守るべきなのだろうと考えていた。しかし、確かに、私が守る必要性はない。彼らには私のいない時間があったし、私の前には、選択肢が存在したのだ。気が付かなかっただけで、ずっとそこに、道はあった。いくつかある分かれ道のひとつで、ブローノがこちらへ手を伸ばしている。
「なんだってそんなことを言ってくれてるの?」
ブローノは、この質問には答えなかった。
「君はどうしたいの? このまま、両親と一緒にいたいの?」
どうだろう。両親と一緒にいたいと自ら強く思ったことはないように思えた。ただ、言われたから一緒にいただけだ。方方へ行くのも苦ではなく。守る為に殺すことにも躊躇いはない。父と母、どちらかを選べと言われたら、悩む時間は五分もいらない。
「どうする?」
「父が母か、ではなく、両親がブローノか、かあ」
「……君が一人でどこかへ行く、という選択肢も有り得るよ」
「ああそうか。三つもあるんだ」
「どうしたい?」
「……一番楽なのは、きっと一人でいなくなる事だ」
それはさっき選ぼうとした。「死ぬのは駄目だよ」ブローノは私の腕を掴む。それはわかった。死ぬのは駄目だ。自分から死を選ぶのはいけない。
「次に楽なのは、両親と一緒に行くことか」
「ぼくといるのは、つらいことなの?」
「そういうものを天秤にかけてる訳じゃない」
「なら、なにを比べているの?」
自分、その次に両親、そしてブローノ。好きなように立ち回れるから、と言うのもあるだろうが、移動した先で大事なものができないとも限らない。もっと単純で明快なものを私は比べて順位をつけた。
「なくなっても困らないかどうか」
ブローノは複雑な顔で黙ってしまった。当然だ、と思う。普通はきっと、こんな風に順位をつけられるようなものでは無い。
「ここに残ることは、一番大変だけど、きっと、一番楽しい」
楽であることと、楽しいことは違うのだ。私は膝を抱えて目を閉じた。動き回ったせいか、疲れている。「大丈夫」ぼんやりとした頭の中にブローノの声が流れてくる。「大丈夫だよ」二つも年下のくせに、背丈は変わらなくなっていた。ブローノは私を抱きしめる。
頭を撫でる手は、私が彼にするより柔らかだ。
「君はちゃんと選べるよ」
そうだろうか。
「だってあの時、君はぼくに『よろしく』と言ったんだから」
ああ、あれは、私がはじめて自分で選んだものだったんだ。知っていた?


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