当時五歳のブローノ・ブチャラティが「よろしく」と差し出した手を、私はずっと覚えている。
彼の住んでいた村へは、両親の仕事の付き添いで数ヶ月に一度立ち寄っていた。母は、貝殻を加工してアクセサリーを作る職人から商品を仕入れる為。父は、ネアポリスの中心部に住む得意先へ顔を出す為。私はその間暇なので友人のできたこの村で待たされていた。元々、父にくっついて居ただけの母と私であったが、一年ほど前から母も商売を始めたのであった。色々な所へ行くのを良い事に、その土地でしか仕入れられないものを他所の土地で販売している。母はほとんど趣味でやっているので、利益はあったりなかったりだ。母は比較的新しいものが好きで、父は古いものが好きなのだ。
「君は?」
父と母の話をすると、ブローノがそう聞いた。曇りのない青色の目がこちらを見る。現在、年は七つで私よりも二つ年下だが、よく気が付くし落ち着いている。
「私は、どうかな」
父と母を待つ間、海岸を散歩していた時、ブローノ・ブチャラティと出会った。岩場で、岩と岩の隙間に手を伸ばしていて、何をしているのか聞くと「奥に子猫が」ということであった。「このままだと潮が満ちてきて溺れ死んでしまう」言った彼の腕はぼろぼろだった。どうにかこうにか猫を助け出したことをきっかけに、仲良くなった。
「私は、私の好きなものが好きだ、と思う」
「答えになってないよ」
無垢に笑う。私は彼に会う度感心してその笑顔を見つめていた。彼は私があげた土産を大事そうに持ったまま続ける。
「もうひとつ、聞いてもいい?」
そして、これは周囲に同年代の子供が少ないからだろうか。遠慮したような物言いをよくする。水臭いな、と私は一人で寂しくなった。「聞いてもいいか、だなんてわざわざ聞くな」と怒るのも大人気ないので、ブローノのペースに合わせて頷く。「どうぞ」彼はきゅっと唇を引き結んだ後、深刻そうに私に尋ねた。
「もし、父さんと母さん、どちらかを選ばないといけないとしたら、君はどちらを選ぶ?」
「うーん」彼が深刻そうにするので、私は努めてなんでもないような顔をした。ブローノの両親にも会ったことはある。夕飯をご馳走してもらったことも、仕事を手伝わせてもらったこともある。悪い人たちではない。ただ、それでも上手くいかないことはあるだろう。もしも、その選択を迫られたのが私であるならばどうするか。
「お父さん。お父さんの方が儲けているから」
そんなことを選ぶ日が来たとしたら、だけども。「そっか」ブローノは「君らしいね」とやはり笑っている。笑っているが、何も隠せていない。見えているものをわざわざ聞くこともないだろうか。あるいは、無神経なふりをして聞くべきか。海に石を放り投げて、石が沈むのを見ながら言う。
「ブローノは?」
「ぼくは」口にしようとしたが、頭を緩く左右に振った。
「……できれば、仲良くしてくれるといいと思う」
「それはそうだ」
大袈裟にウンウンと頷いて、もうひとつ近くにあった小石を投げた。それはそうだ。仲がいいのは良いことである。
ブローノは「うん、そうなんだ」と手元のお菓子を見つめている。外国の、少し変わった模様のパッケージ。中身はチョコレートだ。自分が食べてみて美味しいと思ったものをお土産にしている。
「それ、食べないの」
早く食べればいいのにずっと手の中で遊んでいるので、すっと、そのチョコレートに手を伸ばす。
ブローノは両手で私からチョコを引き離した。
「駄目だよ、これはぼくが貰ったんだから」
「君が私にね。別に取らないけど」
食べないのかなと思っただけだ。ブローノは私も食べたがってると思ったのか、首を傾げて「半分こする?」と必死に守ったチョコを差し出してきた。私はそれを押し返す。
「しなくていいってば。ただ、味の感想を聞きたいと思って」
「感想ならいつも言っているじゃない」
次に会った時に「そういえば前に貰ったお菓子は」という感じである。そうやって時間を置いて答えを用意されると、本当なのか嘘なのか判断がつかない。目の前で見ていれば大体わかるのだけれど。
口に合わないものを土産にするのは悪いな、と思っているのだが、目の前で食べるように強いるのも違う、という感じだ。大事にされているのはわかるし、まあいいか、と思うことにした。
「無理にとは言わない」
「食べたくないわけじゃあないよ。ただ、パッケージがとても綺麗だから、暫く置いておこうと思って」
なんだそれは。そうは思うが、開けがたくなるような綺麗な箱は確かにあるなと息を吐いた。これを選んだ時、かわいいなあと思った気もする。見た目は大切だ。
「パッケージだけ取っておけばいいじゃん」
「開けてしまったら違うものだよ」
開けたくらいじゃ違うものにはならない。第一そんなことを言っていたら大変じゃないのか。気にしすぎて腐らせていては世話はない。私が変な顔をしていたからだろう。彼はまた大切にチョコを握りしめていた。取らないっての。
彼が大切にしているものは一体何なのか。わかってみたくて封の切られた板チョコを想像してみた。開けた瞬間、同じではなくなる。中身がなければ重さも変わる。
「軽くはなるか」
言われてみれば違うものかもと納得しかけてきた。彼は随分色んなものを気にしている。なるほど、とひとりで頷いた。ブローノは笑う。
「それからね、こういう特別なものは、元気が欲しい時に食べるのが好きなんだ」
「ふうん」
そういう時があるのか、と他人事のように思うが。誰にだってあるかと思い直した。彼を目の前にしていると考えることが多い。
ただ美味しいからと持ってきていたが、彼にとってそのお菓子はそれだけのものではないらしい。二つも年下のくせに生意気な。
「仕方ない。ちょっと両手を出しなさい」
「え?」
「ほら、こう」
両手で器を作るように指示した。ブローノは言われた通りに私の真似をする。「よし」それでいい。私はコートのポケットをひっくり返して中身を全部出す。飴やらガムやら、焼き菓子なんかが出てくる。ばらばらと彼の手の上に降らせて、落ちたぶんは頭に乗せた。
「私のやつだけど、ブローノにあげる。お父さんとお母さんと、家族みんなで食べなよ。美味しいから」
家族みんなで、というところを強調した。そんなことくらいでどうにかなるものでもないだろう。それでも、チョコレート一つを大事そうにする彼にもっとなにかしたくなって、そうせずにはいられなかった。
ブローノは目を丸くしている。彼の表情の変化をよく観察する。唇が少し震えたように見えた。子供のくせに、大人のような顔で笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
泣きそうなのをからかうようにニヤリと口端をあげた。私に出来ることはこんなことくらいだ。


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20220506
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