小雨が降っていた。音だけでは降っていると気付けない程静かに。買い物に行こうと思っていたがやめておこう。仕事の帰りだって必要なものは買える。読みかけの本でも読むかと身支度を放棄した。適当に髪をまとめてソファに座った。その瞬間に、かたり、と外で小さく音がした。誰かが部屋の前に立っている感じがする。宅配業者ならすぐにインターホンを押すだろう。不審がって玄関扉を睨み付けてみる。気配はどこへも行かない。三秒数えて思い切り扉を開ける。もちろんこれは攻撃も兼ねている。
「ン? ブチャラティか。なにしてるの、そんなところで蹲って」
「たったいま、君に攻撃を受けたんだ」
「さっさとインターホンを鳴らさない方が悪い」
一人暮らしの女の部屋の前にじっと立たれたら普通に怖い。ブチャラティは「それもそうか」と立ち上がり素直に謝ってきた。それはいいが。傘を持っていないようで、髪やら服やらが少し濡れていた。とりあえず部屋に上げてタオルを放り投げる。
「傘くらいさしてきなさい」
「ああ、悪いな」
着替えが必要なほど濡れているようには見えない。「ドライヤーいる?」「大丈夫だ」だろうと思うが、身体が冷えているかもしれない。飲み物はあたたかいものの方がいいだろうか。まったく予告なしで遊びにきやがって。おかげで何の用意もない。がさがさと食器棚から紅茶の缶を引っ張り出す。ひっくり返して消費期限を確認する。
「なまえ」
「なに?」
振り返ってブチャラティの顔を見ると、やや言い辛そうに、しかしはっきりと口にした。
「――なにか、食わせてくれないか」
朝食にしては遅いし、昼食にしては早い。私は一旦お茶の用意を中断した。
「なにかってなに?」
「なんでもいいんだ。昨日の残りとか。なんでも」
ブローノ・ブチャラティは時々こうしてふらりとやってきては、私にご飯をたかる。「家はリストランテじゃないぞ」「見ればわかるが」理由は聞いたことがない。はじめて会った時に分けたクッキーが気に入ったからかもしれないし、強く拒否しないからかもしれない。理由なんてない可能性もあった。友達と話したい、と思うことに理由など必要ない。必要ないならなくてもいい。私はそう思うのだが、ブチャラティは毎回「なにか食わせてくれ」と言う。
「大したものはないよ」
「大したものが食べたい時は、ここには来ない」
「叩き出すぞ」
「はは」
作り置きしていたので助かった。パンを切って皿に並べて、カポナータにした。肉、とか食べたいだろうか。そう思うが、ベーコンは昨日使い切ってしまっている。ないものはどうしようもない。甘いもののストックもない。質素すぎるかと思うが、彼は「ありがとう」と言うと、本当にありがたそうに食べ始めた。問題なさそうだ。
私も正面に座って一つ食べた。
「美味いだろ」
「私が作ったから知ってる」
「オレと食べてるからだぜ」
「なに面白いこと言ってんの」
くつくつと笑う。そういえばお茶がまだだった。茶葉とお湯とをポットにいれて数分放置する。
「買い物に行くところだったのか」
「行かないと決めたところだった」
「通りで半端な身支度だと思った」
「こんな天気で傘持って来ないんだから、ブチャラティだって完璧な身支度ではないでしょうが」
「完璧な身支度とは?」
「わっかんないけど!」
真面目な顔で首を傾げるな。相変わらずどこまでが本気でどこからが冗談なのかわからないヤツだ。お茶を入れるとカップを彼の近くに置いた。ブチャラティは雑談を挟みながら食べ進め、用意した分を食べきると少し冷めたお茶に口を付けた。
「ごちそうさま。美味かった」
「私が一緒に食べたからね」
「そうだな」
その通りだ。そう続いたので嘘っぽくなったが、この男の場合本気でそう思っていそうなので突っ込まずにおいた。静かに降りて来た静寂を横からつつくように雨がはげしくなってきた。雨粒が壁にぶつかる音がよく聞こえる。二人で同じように窓の方を見た。買い物を断行しなくてよかった。
「なにか、礼でもしようか」
「いいよ。さっきその整った顔に扉ぶつけたから満足だよ」
「あれは少し痛かったな」
「正直、宅配業者とか管理人さんとかじゃなくて良かった」
「確認せずにやったのか?」ブチャラティはくすくすと笑って、使った食器を片付けはじめた。てきぱきと全て洗ってしまうと「じゃあ、オレは仕事に戻るよ」と言った。仕事中だったのか。玄関へ向かうので「ちょとまって」と使っていない傘を押し付けた。少し大きめのサイズだから、ブチャラティが使っていても違和感はないはずだ。
「ありがとう」
ブチャラティはとても大切そうに傘を見つめて礼を言った。「また」
「また今度、傘を、返しに来てもいいか」
「面倒だったら返してくれなくてもいいけど」
「それなら――」
玄関でじっと私を見つめる。緩く首を振って、言おうとした言葉を飲み込んだ。
「――いや、やっぱり返しに来るよ」
「ン」
お土産でも持ってまたおいで。傘を開くブチャラティに声をかけると彼は静かに微笑んだ。「また」と言われた気がしたので、応えて手を振る。「またね」しばらく、遠ざかる後ろ姿を見送っていたが、隣の隣に住む人が部屋から出てきたので室内に戻った。なにせ私は半端な身支度のままである。


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20220423;ともだち
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