しばらくは一緒に寝ていたが、その内こっそり起き出して、テーブルの上を片付けた。勝手にあれこれいじるのもどうかと思うが、なまえはなにも言わないだろう。
なまえは昼を過ぎて、夕日が沈んだ頃に起きて来た。寝室からでもオレの気配は感じていたようで、そっとリビングを覗いていた。「よお」「……ごめん、片付けとか。運搬とか」運搬という言い方が笑えた。なまえはゆるく髪を縛って時計を見る。この男はいつ帰るんだろうか、という顔だ。
「アバッキオ」
「一つ、聞いてほしいことがあるんだが」
疲れが完全に取れたわけではないだろうが、出直すなんて悠長なことをしてやる気はない。こいつだって、勝負を決めようって時は強引だ。なまえはオレのそういう気配を感じたのか身構える。流石だ。そう。勝負はとっくにはじまっている。
「これならいけんじゃねーかってよ。オレは思うわけだ」
「なんの話?」
「やめろよ。オレとおまえが話さなきゃならねーことなんざ、一つしかない」
勝負を降りるならこのタイミングしかない。疲れているから帰れと叩き出せばいい。だが、なまえは挑んで来る人間を拒まない。オレの視線を受けて、寝ぐせの残った髪で真正面に立った。
「オレはおまえが好きだ」
もちろん特別に、という意味だぜ。付け足すと、なまえは「……知ってる」と答えた。そう。知られていることをオレは知っていた。決して同じ気持ちでないことは、もうわかっている。そして、このままなまえと一緒にいるだけでは一生平行線であることもわかっていた。いつかオレが諦めたらなまえの勝ちだ。長期戦に持ち込むしかない、と思わせておいて、長期戦になれば不利なのはオレの方である。状況に慣れて、これならこれでいいか、と思ったら終わり。
「おまえはきっとこれから誰とも恋人になることはねーだろう。オレのことも特別好きってわけじゃあねーと思う」
ならばどうするか。キッチンで、これは暗殺用だろう。よく磨かれたナイフを見つけた。ナイフスタンドに包丁と一緒に干してあったところを見ると、果物でも切ったのかもしれない。それを右手に持って、左手はテーブルの上にひらいて置く。
「――だが、オレはおまえの特別になる」
乾坤一擲の策だ。これで駄目なら駄目である。
手の甲にナイフを突きつける。「なっ」貫通してテーブルに至った感触があった。引き抜くと、どくどくと血が流れだす。
「なにしてんのッ!?」
なまえは驚いてこちらへ寄って来ようとした。
「来るんじゃあねえッ!」
「来たらもう一度刺す」睨むと、なまえはその場で足を止めた。見たことのない顔をしている。愉快だ。痛みはあまり感じない。ただ、少しずつ体の熱が外へ出て行く感覚はあった。「はは」この熱が尽きるのが先か、なまえが折れるのが先か。これはそういう勝負だ。
「アバッキオ、やめよう。そんなバカなことしたって何の意味もない」
「意味ならある。意味のねーことなんざ何一つない。そうだろ? ええ? 勝負師さんよぉ」
挑発するが、乗って来た、という感じはない。必死に遠ざけていた時と同じだ。なまえはオレの心配をしているだけだった。
「……私と恋人になって、どうするの」
「そりゃ、いろいろ、やりてーことはあるな」
「無理矢理でも?」
「無理矢理はしねーよ」
「――どの口が」
ざわり、と肌の上を何かが覆う。なまえはオレを見据えて、次の一手を考えている。適当に、口先だけでも恋人になると言えばいいものを。こいつはそういうこともできない。家族ならば。仲間ならば。恋人ならば。こうあるべき、こうありたい。そんな理想を持っていて、それを裏切ることができないのだ。ギャングらしからぬ性質である。だが、なまえがこの世界に足を踏み入れた経緯を考えれば納得できないこともない。
オレが本気であればあるほどに、適当に切り抜けようとは思えない。
「こんなやり方で、どうしてアバッキオを選ぶと思うの」
「それは逆だぜ。このやり方しかねーんだ」
ナイフを握り直して、もう一度自分の手の上空で刃を下を向ける。
「悪いようにはしねえよ」
「……」
返事はない。少しずれた位置に突き刺すと「ッ……!」オレではなくなまえから息を飲む声がした。零れそうなほど大きく見開かれた目が揺れる。強情なやつだ。もう一度引き抜く。広がる血はテーブルの端へ至り、ぽたぽたと床に落ちていく。
「別に、このあと無理に抱こうとか、そんなことを考えてるわけじゃあねえ。恋人になってから時間が必要だってんなら、いつまでも待ってやる」
「それは違う。時間が必要なのは、恋人になる前段階で」
「おまえが自分から誰かを選ぶことなんかない」
例え誰に好意をもったとしても、それを自ら伝える道をこの女は選ばない。自分がいろんなやつに恨まれていると知っている。組織内外で有名になっていることを知っている。――そしてなまえは、自分の周りの奴が幸せであれば、自分も幸せだと心の底から思えるやつだ。それが最高に厄介で、この事態を招いていた。
「私だって、ボーイフレンドの一人や二人居たことはある」
「どっちもおまえからアプローチしたわけじゃねえし、恋人らしいことはろくにしなかったろ」
裏取りは済んでいる。というか、仲間想いの仲間たちが勝手に教えてくれたのだ。フーゴは言った。「悪い人じゃなかったんですよ。ただ、彼女の隣に立つには、もっと、極端な人じゃないと」ナランチャは「めちゃくちゃいいやつか、めちゃくちゃ悪いやつか、どっちかかなって思うんだよ」と。オレがどちらかは明確だ。なにせ、こんな手段に出た。ブチャラティは笑っていた。「アバッキオがそばにいてくれたら、安心なんだが」
「そうだね。わかったことは恋人っていうのは随分荷物になるってことくらいだった」
「そいつは違う。おまえはそんなことは思っちゃいない。振ったのだっておまえからじゃあねえ。そのくらいは聞かなくてもわかるよ」
羨ましくて死にそうだ。その一人か二人は一度はなまえに選ばれている。なまえはきっと、何が起きてもそいつらを特別に思うと決めていたに違いない。それを重荷に思ったのは、なまえでなくて相手の方だ。
「そいつらを選んだ時と同じだ。それとも、二回も男の方に逃げられたから、オレに捨てられんのが怖いとか、そういうかわいい理由で断られてんのかな」
「意味が、わからない」
手のひらに三つ目の穴が開くと、なまえは泣きそうな顔で俺を見た。血を流し過ぎて死ぬ前に、なまえはオレをどうにかするしかない。
「なんで、こんな方法を取ったの」
「これが一番、本気度が伝わると思ったんだが」
「バカなの」
「確かに、賢いやり方ではねーな」
「脅しっていうんだ。こういうのは」
「つまり、脅しになる程度に、おまえはオレが好きってことだ」
なまえは一瞬黙ってオレを見た。「ははは」さっきから愉快で愉快でたまらない。
「おまえは、オレを見捨てない」
そのまま失血死しろなんて口が裂けても言って来ない。オレは確信している。
「なまえはいいやつだからな」
なまえは目を見開いて、どん、と壁を叩いた。
近くに飾ってあった古い写真が落ちる。その裏に、ナイフが収納されていた。それを拾い上げるともう一度オレと向き合う。
これも予想していた。何かしらの形で反撃があるだろうと。そしてそれは、生半可なものでは無いだろう、とも。
静かにギラついた目がオレを捉える。思わず道を開けたくなるような強い光だ。
「さっきから、黙って聞いていれば好き勝手言ってくれるね」
「家族写真の裏に隠すようなもんか」
「こんなものはどこからでも出て来る」
なまえは自らの肩をナイフで突き刺した。オレがしたのと同じように、なまえが傷つくのを見ていられないと思うなら、オレが引き下がるしかない状況を作る。簡単に同じ所へ上がってきて言い放つ。
「手打ちにしよう。この話はここで終わり」
「いいや駄目だね。続けるぜ」
なまえは立て続けに二度、三度と自分の肩にナイフを突き立てた。顔色ひとつ変わらないどころか、冷や汗の一滴すら見せやしない。
「同じ手段でくるなんて、恥ずかしくねえのかい」
そんなに嫌か。と、聞きたくなる。一体何がそんなに嫌なのか。問いただしてひとつずつ潰していきたいが、そんな行動に意味はない。必要なものは一つだけだ。
果たしてなまえは今、何を考えているのだろうか。勝つことしか考えていないと言われる方が納得出来るが、オレが恋人になることを恐れているようにも見えた。逃がすわけが無い。寄ってきたのはそっちの方だ。あんな風に全部を肯定されて、好きにならずにいられるわけがない。諦めろなんて言う方が無茶だ。――オレからの感情の重さを読み違えた。なまえの見通しが甘かったのだ。
なまえは静かに息を吸い込んで、ナイフの持ち方を変える。祈るように両手を合わせて、その真ん中にナイフを挟んだ。刃は、なまえの喉に向けられている。
「あなたが引かなければ私は死ぬ」
ハッタリだ。刺すわけが無い。そうは思いながらも、なまえであれば刺すような気もした。
なまえの目からは決意だけが感じられた。他の感情が読み取れない。ただ、まっすぐ前だけを見つめている。
「バカか、おまえは」
やめろ。と言いそうになる。わかった、と引き下がりたくなる。もし本当に刺したら。オレがこいつを追い詰めて殺すようなことになったとしたら。
「最後だアバッキオ」
「自棄になってんじゃねえよ。おまえ、頭がおかしいんじゃねえのかッ!?」
オレが近づいた分だけなまえは下がる。
「普通そこまでやるか? なあ」
怒りを通り越して、体の芯から冷えるような悲しみが去来する。だが、引いてはいけない。ここで引けば、二度となまえと向き合うことが出来なくなる。
「そんなに、オレが気に入らねえのか」
意味がないと断じたはずの情けない言葉が零れたが、全身に力を入れて踏ん張ってみせる。
「十秒数える。今すぐここから出て行かないなら、私は自害する」
やれるわけがない。やれるわけがないやれるわけがないッ!男を振るためだけに死のうとする女がどこにいる!?「十」なまえが言う。とんでもないことをされている。だがこれは。「九」オレがはじめたことでもある。オレがそもそも、オレ自身を賭けてしまったから。「八」なまえもなまえを賭けるしかなくなった。公平に勝負に臨もうと思えば。「七」オレの感情と同じだけのものを返そうと思えば、なまえは。「六」なまえもまたこうするしかなかったのである。
「待て、なまえ」
「五」
聞きたい言葉はそれではない。なまえはそう言っている。なまえが自分を刺すか、オレが引くか。「四」今からでも俺も『命』を賭けることはできるだろうか。そうだ。命に並び立つものは命しかない。「三」
「刺してみろッ! おまえが自分を刺したらオレもここで死んでやるからなッ!」
「二」
けれどそれは。それはつまり。なまえの勝ちということになるのでは。
「一」
なまえの表情は変わらない。冷たく静かな瞳のまま、自らの喉を貫いて、そのまま横に刃を滑らせた。夥しい血飛沫が舞い、なまえの目は、ゆっくりと濁っていく。ナイフなんて放り投げて、なまえの側へ駆け寄る。
頭から血をかぶりながら倒れたなまえを覗き込んだ。
「なまえッ!」
あんなもの。助かりようがない。即死である。「なまえ」何度も名前呼ぶが、返答はない。そんなバカな。まさか本当に。
「馬鹿野郎が……ッ!」
屍の頬に触れる。
なまえのそばに転がっているナイフを拾い上げる。なまえの血液で滑ってしょうがないから両手で掴んだ。「また、オレは」間違えたのか。また取り返しのつかない間違いを犯したのか。これを仲間たちにどう説明する? いっそ、オレもこいつを追いかけて、死んだほうがいいんじゃねえのか。そうすりゃあもう、勝負なんてなくなったも同然だ。もしくは、逃げ出すのも惨めでいいかもしれない。惚れた女一人口説き落とすことができないで、挙句死なせた。半分開いた唇に触れる。オレは一体なにがしたかったのだろう。
ナイフを持ち上げ、なまえと同じように喉元へ付きつける。喉の皮膚をナイフの先端が破る。「私は」いつだか、なまえが言った言葉が不意に再生された。
――私はその無理矢理をする私が結構好きだ。
無理矢理前に進んで、行きつく先が死であったとしても?
なまえの、最後まで前を向いていた、強い瞳を思い出す。あれは、こんな結末を見ていたのか?
なまえが、オレと同じ方法を選んだのは、本当に、これしか方法がなかったからか?
なまえは、たかだか自分が死ぬ程度のことで、勝ち筋を手放すような女か?
――一回くらい死んでみるのもいいかもしれない。
あれは、ただの冗談だったか?
この女にとって死ぬことは、本当に終わりか?
前しか見れない。初めて会った時だって、下を向いてはいなかったのだ。真正面を睨みつけていた。
「なまえ」
確固たる信念を持ってナイフを握り直す。これは自棄になって選んだ道ではない。これはただの自害ではない。
「言ったよな。なまえ。オレは、おまえの特別になる」
オレはなまえに倣うだけだ。なまえに倣って、前へ進む。やり方はこいつが示した。簡単なことだ。
「まだ勝負は終わってねえ。そうだろ?」
まだ、なまえが動かなくなっただけで、なんの答えも得てはいない。
「結局おまえは、こうされるのが一番嫌なはずだ」
もしもあの世へいったなら。追いかけなければ嘘だろう。そういうのも悪くは無い。しかし、オレの予想が正しければそうはならない。決死の覚悟でナイフを自分の方へ引き寄せた。
息を止めて腕に力を込めると、オレと、ナイフとの間になにかが滑り込んできた。床下にでも隠していたのか、三本目のナイフである。それが、オレのナイフをはね上げる。もちろん、ナイフはひとりでには動かない。誰かが下から投げたのだ。
足元から声がする。
「レオーネ・アバッキオへの評価を大幅に改めないといけない」
なまえは起き上がって大きく息を吐く。「ハァー……」肩口の傷も首の傷も綺麗に消えていた。
「実際の勝負で、ここまでやったのははじめてだ」
床に散った血をげんなりした様子で眺める。なまえはもういつものなまえに戻っている。いや、いつもよりも気の抜けた様子で淡々と言う。
「私のスタンドは、私自身の『死』を一日に一度だけなかったことにする」
オレは何を言うべきかわからない。なまえはこの勝負を経て、一体何を思ったのだろうか。時間を稼ぐようにスタンドの話が続く。
「気に入ってるんだ。何があっても、前に進む力になってくれるスタンドで」
多少の無茶なら乗り越えられる。死ぬような無茶も。一度は大丈夫。二度目は試したことがないが、多分死ぬと思う。スタンドから力が抜けるのを感じるから。
「……そのスタンドを、逃げる為に使おうとした。その時点で、負けは決まっていたんだろうね」
なまえの傍らには、なまえのスタンドが姿を現している。なまえはそれに触れて額をくっつける。「ごめんね」自らの力に詫びるように数度撫でて、オレの前に座る。
「私の負けだよ」
オレばかりにあれこれ言わせるのはフェアじゃないとか、そんなことを思ったのだろう。なまえはその場で深深と頭を下げた。
「私の恋人になって下さい」
吹っ切れたようになまえが笑う。
「あなたが好きだ」
しばらく黙っていると「けどまあここでフラれたら完全敗北って感じ」と困っていた。オレはなまえにのしかかるように抱きしめる。手をついて立とうとしたが痛みでバランスを崩した。なまえはオレを受け止めて。「オーケー?」と返事を催促した。
「オーケーだ。決まってんだろ」
「そう。良かった」
なまえは本当にほっとしたように体から力を抜く。腕で檻を作ってなまえを見下ろす。なまえは一筋涙を流す。
「なんで泣いてんだ」
「アバッキオが思ったよりバカだったからショックで」
「ああ?」
「嘘だよ。痛いから泣いてるの」
スタンドの副作用がなにかだろうか。そう思うが、なまえが触れているのはオレの手だ。
「ほんっと、痛い」
ああ、そうだった。
「確かに痛えな」
オレの言い方が面白かったのか、なまえは泣きながら声を上げて笑っていた。
「なにこれ」
きっと他の奴らは見たことのない顔だ。それが嬉しくて目を細める。
「……なあ、キスしてくれ」
「いや、 病院が先だよ」
「かてえこと言うなよ」
「病院が先」
「チッ」
舌打ちをしたが、オレも笑っていたかもしれない。


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20220514
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