履きなれたハイヒールが鳴るのを聞きながら、今日は返り血を浴びていないことをチェックする。暴れていた客を叩き出して「もういいかな?」と振り返った。店主は「いつもすいません」とワインを一本くれた。
「こんなのいいのに」
「オレらの気持ちですよ、今度フツーに遊びに来て下さい」
「やだよ。一人でいると絡まれるから。ブチャラティとか、他のみんな連れてていいなら来るけど」
「絶対ですよ」
ひらひらと手を振って店を出た。転がしたゴロツキが恨めしげにこちらを見る。なにか吐き捨てられたように思うが、よく聞こえなかった。
聞いてやる義理もない。ワインを顔の位置まで持ち上げてラベルを見る。なかなか良いワインだ。なにかつまみをつくるか買って帰るか。にやにやしていると、肉屋の店主に声をかけられた。ふらふらと近付いて行くと、見知った男とすれ違った。長い髪と、影を背負っているみたいなほの暗さが特徴的だ。
「おはよう」軽く手を上げる。アバッキオはこちらに気付いたが、やはり鬱陶しそうにするばかりで返事はない。
私はなにに挨拶をしたんだろうか。頑なだ。遠ざかっていく背中を見ながら、息を吸い込む。
「アバッキオ!」
駄目もとで名前を呼んだ。彼はくるりと振り返った。
――振り返った。
私だけでなく、アバッキオも目を丸くして、振り返ってしまった自分に驚いている様子だった。
そう言えば。
今までも、反応が『全く無し』だったことはなかった。
「はは」
うっかり笑ってしまう。アバッキオは不愉快そうに眉間の皺を深くしてさっさと歩いて行ってしまった。私の挨拶は無視されていたわけではなく。アバッキオなりに返事をしてくれていた可能性がある。
折角だからと遠ざかる背中を追いかけた。肉屋は後回しだ。アバッキオは何事かと振り返ってぎょっとした。面白い顔をしている。そして彼もまた走り出した。『逃げる』つもりらしい。それは『追いかける』私に対しての反応にほかならない。
「ふ、ふふ」
面白い。笑い声が漏れる。走りながらなのでさぞ不気味だろう。ヒールで、片手にワインを持った女に追いかけられるアバッキオは「なんなんだてめーはッ!」と困り果てた挙句に叫んだ。私に向かって『心の底からの』困惑の感情。
ネアポリスの町でアバッキオを追いかける。元警察官を走って追いかける機会など、これが最後かもしれない。私に追いつかれたらさぞ屈辱だろうなとスピードをあげる。
追いかけてどうするかは考えていない。とりあえず思う存分大笑いするつもりだが、アバッキオはやっぱり怒ってみせるのだろうか。
「あ」
先に限界が来たのは私の方だった。私と言うより、私の靴だが。ハイヒールは大人の女が全力疾走することを想定して作られていない。受身を取ろうとするが、肩を支えられ転ばずに済んだ。
ヒールの部分が遠くに飛んだ。
支えてくれたアバッキオは私に頭突きをしてから言う。
「おまえ、頭おかしいんじゃあねえのかッ!」
「ふ、」
「何笑ってんだ!」
「ははははっ!」
私はひいひい言いながら反対側のヒールも同じように折ってしまう。支えてもらえているついでに、彼の腕を掴んで「ありがとう」と言った。
「助かった。この歳になって派手に転ぶのは恥ずかしい。ワインも無事だった」
「全力疾走も恥ずかしいけどなッ!」
「まあまあ。落ち着いて」
「てめーがッ! 追いかけてッ! 来たからだろーがッ!」
「あはははは!」
爆笑すると、ぎゅっと両手で頬を挟まれた。摘まれ伸ばされる。「痛い痛い」笑いすぎて息が切れてきた頃に、改めて言った。
「おはよう、アバッキオ」
「やっぱり、頭おかしいだろ、おまえ」
返事はある。これ以上笑ったらいけないなとグッとこらえてひとつ頷く。
「挨拶をするのは至極普通だ」
「普通、無視され続けたら挨拶だってしたくなくなるだろ」
「私があなたに挨拶することと、あなたが私を無視することは、実は関係がない 」
アバッキオは目を丸くして口を開けていた。冷たく重い印象だが、その瞳の色はじんわりとあたたかい。
アバッキオは「ハァーー……」と大きく溜息を吐いた。さっきまでハイヒールだったものがそうでなくなったので、バランスが取りづらい。ふらふらしていると。彼はすっと私を支える。笑ってはいけない。「ありがとう」返事はなかったが近くの靴屋まで送ってくれた。
これならば妹に「困ったことはない?」と聞かれた時に胸を張って「なんでもない」と言える。仲が良くなった、とは言えなかったが、仲間に心配をかけることはなくなった。ナランチャもフーゴもほっとしていて、ブチャラティは事情を聞いたのか「走って追いかけたそうだな」と笑いを堪えていた。
町で合えば私は一層にこやかに挨拶をする。「チャオ!」アバッキオは相変わらず複雑そうに眉間に皺を寄せるけれど、軽く手を挙げて応えてくれた。まさしく、挨拶の返しだ。
「おお〜!」
「走って追いかけてこられたら敵わんからだ、ボケ」
くつくつ笑うと、彼は私の頭をはたいた。あまり強い力ではない。


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20220514
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