自分の咳で目を覚ました。体もだるいし、呼吸もし辛い。朝熱を測ったら三十八度近くあった。今はもしかしたら、もう少しあがっているかもしれない。この年になって風邪をひいたから休みたい、などとは言い辛い。ブチャラティの部屋に仕事の話をしに行ったが、一目で風邪を引いていると見抜かれて家に戻された。一緒にいた彼女が「ごめん私が雨風に晒したせいか」と驚いていた。あなたはなんでピンピンしているんだ。さっぱり意味がわからない。
「どういうことだ?」
「傘貸してくれて。私のせいだ」
「説明を端折りすぎだ。だが、そうだな」
ブチャラティは「責任がおまえにあるなら、フーゴの看病をしてやってくれ」と言った。彼女は「よし」と頷く。フーゴの仕事はブチャラティがやることになったようだ。役割分担は終わったとばかりにさっさと散っていく。「ぼくは大丈夫ですから」と彼女に言ったが「風邪、って、結構しんどいって聞くよ」とおよそ人間とは思えない返事が返ってきた。まさか本当に風邪をひいたことがないのでは。この寒気はなんの寒気だろうか。
彼女はぼくをベッドに寝かせて、氷水で冷やしたタオルを頭に乗せた。暑いか寒いか。食欲はあるかないか。あってもなくても何なら食べられるか。必要なものは他にないか。飲み物を数種枕元に置くと、彼女にできることはなくなった。
ぼくの隣に椅子を置いて、じっとぼくを見下ろす。なにを考えているかわからない目だ。目を逸らして、もう帰ってもらっていい、と伝えようとしたが、ぼくが言う前に「ごめん」と謝られた。
「ごめんね。辛いだろうね」
ぼくが思った以上に、このひとは罪悪感を感じているようで、本当に申し訳なさそうに言った。自分を責めてもいるようで「はあ」と息を吐いて頭を抱えた。「風邪って結構長引くよね」一日二日で動けるようにはなるだろうが、完治までは時間がかかる。
「……フーゴを振り切って逃げるんだったかな」
「なんですって?」
「そうしたら、傘、自分に使えた?」
「どうでしょう。キレて、傘を壊してたかもしれないので、なんとも」
「難しいな」
彼女は自分の失敗を省みて、今後はどうするべきなのか考えているようだった。難しいな、とそう自分で言った通り、難しい顔をして考え込んでいる。ぼくを見下ろしながら考えないでほしい。普通に落ち着かない。しかし、この人はこういう顔もするのだと熱に浮かされた頭で思った。いつもへらへら笑っているし、感情の起伏があまりない、行動する理由が明確に決められているタイプだと思ったのだが。
「……なぜ、海に飛び込んだんですか?」
「うん? 拾えるなと思ったから」
「知ってる女の子だったんですか」
「いや? けどいつもあのあたりで遊んでるから、ネアポリスの子ではあると思う」
ネアポリスの子。たぶん、この人にとって重要なのはそこなのだ。この街の子供。であれば、ブチャラティが大事にしているものの一部ということになる。理由はきっとそれだけだ。
「普通は、そんなことはしない」
「そうかもしれない」
「ええ。だから、海から上がった後の行動の最適解なんてものを考えるのは無意味です」
「おお……」
彼女は感心したような声を出した。「じゃあ」どうしたらいいと思うか。そう聞こうとしてハッと言葉を止めた。ぼくが病人であることを忘れていたに違いない。
「……元気になったら、その話詳しく聞いても?」
口元を押さえてしばらく考え込んでいた彼女は、考えた末にそんなことを言ってきた。溜息が途中で咳にかわる。呼吸が乱れて、少し涙が出る。彼女はそんなぼくの様子を見ている。
「風邪、引いたことないんですか」
「記憶にはない」
「看病をしたことは?」
「ブチャラティを何度か」
「うつったりしなかったんですね」
「うつる」
そういうこともあるんだったな。とはじめて気付いたように目を丸くした。その顔が面白くて笑ってしまった。ふ、と短く笑った後、咳が出る。彼女はぼくが笑ったのか苦しんだのかわからず複雑な顔をしている。その顔がまた笑える。知らない少女への対応。雨への対応。そしてぼくへの対応がちぐはぐだ。――彼女の中では一貫しているものがあるのだろうけれど。
「なんで、そんな顔してるんです?」
「……そんな顔って?」
「もう罹ってしまったものはどうしようもないんだから。いつもみたいにへらへらしていればいいのに」
「いや、それは」
大丈夫、すぐに治ると笑えばいいのに。およそそんな意味合いの言葉だったのだが、なまえは深刻そうに目を細めた。
「そうしてて、ブローノに怒られたことがある」
彼女はブチャラティのことを、ブチャラティと呼ぶ時と、ブローノと呼ぶ時がある。仕事だからと切り分けようとしているのだろうが、よくこうして漏れ出ているので意味があるとは思えない。「そんなにおもしれえか、とかなんとか」ブチャラティはそんなことでは怒らない。なにか別のことでイライラしていたとか、よほど体が辛かったとか、あるいは彼女がなにかしたのだろう。
「たぶん。本気で怒ったわけでは」
「わかるよ。でも、怒られたから」
怒られたからには、配慮が足らなかったのだろう。彼女は言って「何年経っても難しい」ブチャラティが呼吸をするのと同じにできることが、自分には難しくて堪らない。真似をすることならできるけど、それだけだ。「ふっ」思わず吹き出してしまった。咳をするぼくを彼女はきょとんと見つめた後、嬉しそうに笑う。
「フーゴ、今日はよく笑うね」
「あなたがあんまり面白いから、つい」
「そう?」
面白いのはいいことだ。大袈裟に頷いて、安心したように息を吐いた。肩の位置が少し下がる。もしかして、緊張していたのだろうか。彼女とは対極にあるような感情だと思っていたが。今も、緊張した素振りを見せたのは一瞬で、ぼくを置き去りににこにこしている。
「フーゴには怖がられてると思ってた」
「あなたは、ブチャラティにだって怖がられてますよ」
「ああそれ、わかるけど、なんでだろう?」
「そういうところが、怖いんです」
ただ、こういうことを、真正面から言えるくらいには怖くないんです。自分でも、今日はよく笑うし、よく喋っているなと思う。ぼくは浮かれているのだろうか。本当は、彼女とこうして話をしてみたいと思っていたのだろうか。
「怖がられてるのは、どうなの」
「とは言っても、あなたとこうして話をしていると、怖がりきれないな、と思うことが多いし、気にしなくてもいいと思います」
「そうなの?」
「ていうか、気にしたって治りゃあしませんよ」
「そうなの!?」
ショックを受けたような顔で考え込んでいる。人に優しくするだとか、人を愛するだとか。悲しみや痛みに寄りそうだとか。本当はそういうことがしたいのだろうが、ブチャラティをお手本にするのは間違いだ。彼女はブチャラティのようにはなれない。なる必要がない。ぼくはそう確信しているのに彼女は不満そうだ。
「がんばって理解しようって思うんだけど」
「いいんですよ。あなたはもっと雑な感じで」
「いや。思考停止はよくない」
「細かいことは、ぼくらがやりますから」
「……実際その方がうまくいくとは思う」
「なら、いいんですよ。あなたはそのまま、ブチャラティが大事にしてるものを全力で大事にしてあげてください」
それで救われる人間だっている。彼女はブチャラティを最上のように言うが、実際のところ彼女だってかなりの人気者だ。特に女性人気が高い。学生に捕まって連れ回されているところを何度か見た。「うーん」
「なら、私はやっぱり、フーゴのことを大事にしたい」
から、もうちょっとなんとかならないといけない。風邪をひかせてはいけない。一人でブツブツ言っている彼女に手が伸びそうになったが、触れる前に引っ込めた。
「ブチャラティが連れて来たから?」
「それもあるけど、私はフーゴのことが結構好きだから」
ぼくは彼女を見上げた。彼女は得意そうな顔をするでなく、悪戯っぽい笑みを浮かべるでなく、真面目な顔でそう言い放った。思考を巡らせるのがバカらしくなってくる。取り繕うなど無駄なことだ。
「ぼくも、あなたのことは好きですよ」
「……怖いのに?」
「その感情は、同居できるんです。怖いけど好きなもの、ありませんか?」
ぼくは彼女の答えを予想してみる。「怖いけど好きなもの」悩んでくれたので考える時間が生まれた。ブチャラティはそうだとか言いそうだ。
「あ、海は怖いけど、好きだ」
言いそうだと思ったのだが。人間の話をしていて、どうして突然海を思い出せるのだろう。海を怖いと思うなら、指輪を追いかけて飛び込まないでほしいのだが。きっとそこではないのだろう。余程海が好きなのだ。ブチャラティもそう言っていた。
「そうそう。近いですよ」
たぶん、近いと思う。否定するのが面倒だった訳では無い。
「……なんの話しだっけ」
「あなたは、自分が思うより他人に優しい、という話です」
「ああ」
そうだったか、と一瞬納得したような顔をしたが「そうだっけ?」とわからなくなっていた。それでいい、とぼくは思う。傘を差し出した時、実際彼女は必要ないと言って、本当に必要などなくて、それでも意地を張ったのは、そもそもぼくであるのだから。いいから黙って歩けとキレた、このぼくに罰が下っただけのこと。
この人は我を失う僕を見ていた。
ぼくがこの人を怖がりきれない理由はそこにある。普通、怒っている人間を見たら遠巻きにするはずなのだけれど、彼女は違う。
「優しい? あんまり言われないな」
「優しいですよ。ぼくがキレて暴れた時、あんな顔をしていた人ははじめてでした」
「あんな顔?」
「なんていうか、その、わかろうとしてくれている、というか、ぼくを見ている、というか」
そこにあるものをそこにあると認識する。たったそれだけの、冷徹とも言える状況の処理だが、彼女は間違いなく『ぼく』を見ていた。
ぼくがキレていた時と同じにぼくを見る。恥ずかしがったりするだけの元気がなくなってきたので自由にしてもらっていると、彼女はしまったという顔をした。頭を抱えてため息をつく。
「ごめん、フーゴは風邪ひいてるんだった」
常識から外れている、ということを彼女は独自の思考回路を辿って思い知って「安静」今更、ぼくを指さして言う。反省、に聞こえた。
このままでは話し続けてしまうかもしれないと考えたのだろう。すっと立ち上がって隣の部屋を指さした。
「用事があったら呼んで」
「あの」
「うん?」
用事があったら呼んで、という言葉は既に適応されているらしく、彼女はぼくの傍へ戻ってきて「なにをしたらいいか」という顔をした。ちがう。そうではなくて。ただらしくないお願いを聞いてもらいたくて呼び止めただけだ。
ぼくにはもう、意地を張るだけの気力がない。
「ここにいてくれませんか」
「ああ、枕元で仕事してていいなら」
変な反応だ。今何を考えたのだろう。どう思考したらその速度でその返事が返ってくるのだろうか。彼女は続ける。
「あと、大人しく寝てるって約束するなら」
「はい」
「よし」
なら仕事を持ってくるかと改めて部屋から出ようとする。扉の手前で彼女は振り返る。なにか思い出した、という動きだ。
「もう一個あった」
「なんですか?」
「ブチャラティに、仕事の話はするなって言われてるんだけど、もし何か聞かれても仕事の話は一切しなかったと言っておいて」
「わかりました。誓います」
彼女は部屋の外に出していたらしいキャリーバッグを持ってきて開いた。年季の入った品で、かなり使い込まれていると思われた。
書類に目を走らせる彼女を見て、ぼくは結局声をかけてしまう。だいぶ頭がぼんやりしている。
「一ついいですか」
「なに?」
「あ、やっぱり二つ、いや、三つかも」
「いいよいくつでも聞くから」
「いくつでも?」
「叶えるとは言ってない」
彼女は、長くなりそうだと思ったのかぼくが辛そうにしたからか、書類を一度手放してタオルを氷水につけて絞った。額に留まる冷たさは、ぼくをいくらか冷静にした。
ここまで自分を失って、ようやく彼女と同じ場所だ。とても近い、そう感じると今まで言えなかったことが波のように押し寄せてくる。
「じゃあまず、相談なしで行動しないでください。フラフラされたら探せないし、仕事をしてるんだか遊んでるんだか判断できないんですよ。不用意にその辺の男と仲良くなるのもどうかと思います。ブチャラティが何も思わないと思うんですか。ブチャラティが何も思わなかったとしても、チームそのものを軽く見られる可能性がある。同じ理由であんまり適当な格好しないで。ちゃんとして。化粧くらいできなきゃあゲホッ、ゲホ」
「あーあーあー……」
「まだあります、これだけはぜったいにやってもらう」
今回のことで一番の問題点は、彼女の適当さにある。ブチャラティはそれを許しているし、ぼくもある程度はいいと思うが、今後、これだけは守ってもらわなければならない。
「携帯電話を、携帯してください」
彼女は一瞬、ジャケットのポケットを探るようにした。また持っていなかったのだろう。ぼくが倒れてるって時なのに。
「わかった」
「本当にわかったんでしょうね」
「一つずつなんとかしてみるよ」
「一つずつって、どれからです」
「とりあえず、携帯と、相談するのは忘れなければできそう」
どっちも無理だろうな。とぼくは思った。けれど、言いたいことを言ったからいくらかすっきりしている。人への注意なんて、所詮、全て自分のためだ。彼女は真面目に取り合ってくれているように見えるが、言い続けなければ無意味だろう。ブチャラティも彼女も甘いところがあるから。ぼくが、何度も言うしかない。
「まだ、言いたいことはたくさんあるので、治ったら」
こんなもんじゃないんだ。本当は、話したいことはたくさんあって。聞きたいこともある。出会った時から本当はそうだ。クソ。それなのに。この人が、この人だって本当はぼくともっと話してみたいと思ってるくせに。下手くそな気なんか使うから。そんなの、使う必要は無いのに。ーー本当にこの人は仕方がないから、ぼくから少し近付いた。
「甘いものが食べたいです」
彼女はきょとんと目を丸くして。きっと意味を正しく理解してくれた。嬉しそうにニコリと笑う。
「わかった。御馳走する」
書類を捲る音を聞きながら目を閉じる。時々手が止まるのは、きっとぼくを気にしているからだ。
ああ、なにを奢ってもらおうかな。


----
20220510:To Be Continued
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -