◇短編 | ナノ



愛が生まれた日 榊編

今日は水曜日だ。
氷帝テニス部200人を統括し管理する私も、今日という日はテニスから頭を離す。
日々溜まった疲れを癒し、心に滋養を与えるのは、やはり音楽。
夕方から友人が指揮者を務める楽団の定期演奏会が、都内の某ホールで行われるのでそれに出掛けることにした。
が、その前に私自身もクラシックと触れあい堪能しようと思ったのだ。


第二音楽室の前に辿り着いたは良いが、すでに先客が居たようだ。


「………のために、弾きます」


……?
はっきりとは聞き取れなかったが、今から演奏が始まるようだ。
だが、ここで教師の私が闖入すれば、多少なりとも雰囲気を壊してしまう気がした。
音楽というのはその場の空気、観客の空気で、良くなることもあれば悪くなることもあるのだ。
まるで盗み聞きのようになってしまうがここにいた方が良いかもしれない。
私は大人しく教室の外で壁にもたれ、姿知らぬ演奏者のピアノに耳を傾けることにした。
その時、中からゆるやかにピアノの音が流れ始めた。


―――ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲『エリーゼのために』か。


……なかなか上手く弾く。
鍵盤の端から端へと飛び交う音符を、転ばず、もたつかず、丁寧に追っている。
しかし機械的にはならず、作曲者の想いを雄弁に語るかのように情緒溢れた旋律だ。
上手い。
だが、しかし。
全体的に嬉しげだ。
一辺倒というほどではないが、クラシックに精通している者ならその根底に細く流れる陽気な音色を感じ取ってしまう。
そこには恋愛に付き物の痛みがまったく感じられない。



演奏者は気付いていないのだろう。
曲はそのままに終了した。


だが、良い演奏を聴かせて貰った。
この学園に、跡部以外にも筋の良い者がいたとはな。
ぜひ顔を見せて頂こうかと、ノックを二回繰り返し、音楽室のドアを開けた。
すると教室の中から「おわっ」と「えっ」という耳慣れた声が聞こえた。

さ、榊監督!お疲れ様です!!

そんなことを言って直立不動になった二人―――宍戸と鳳だったのか。

そうか。久しぶりに聴いたので忘れかけていたが、あの弾き方は確かに鳳のものだ。
以前聴いたピアノソナタ『月光』もなかなか素晴らしかったな。
だが、しばらくの内に悪い癖も付いてしまったようだ。


―鳳、とても良い演奏だった。

―あ、ありがとうございますっ。

―しかし自分自身の感情を出し過ぎたな。何かそこまで喜ぶようなことでもあったのか。

―いいいえ!あ、その、確かに作曲者の心情と多少離れたところがあったと思います。監督が聴音なさっていたとは知らず、失礼な演奏を申し訳ありません。

―かしこまらなくてもいい。コンクールではないのだしな。……それにしても宍戸、お前もクラシックに興味があったとはな。

―あ、いや、そのー…、そう、です。はい。

―そうか。それは良いことだ。クラシックは心に癒しを与える………ん?しかしオペラ鑑賞会では寝ていたな……

―え!?それ、は、その、

―あーっと、さ、榊監督!自分と宍戸先輩はそろそろ失礼いたします!テニスコートを予約した時間が迫っているのでっ。ね、宍戸先輩?

―あ、そそそうでしたな、長太郎。

―ほう。自主練習も怠っていないようだな。

―はい。あ、では、もう時間なので、失礼いたします。

―ああ、鳳。

―はい!?

―「宍戸の為に」弾くのは良いが、あれは恋人に弾いてやるべき曲だ。場や聴衆に合った選曲もセンスの一つだぞ。

―!!?……そ、そうでした……。


宍戸と鳳は慌てたように音楽室を飛び出して行った。
そんなに予約時間ギリギリまでここに居てピアノ鑑賞をしていたとは、余程クラシックを愛しているのだろう。


さて、夕方まで時間はたっぷりとある。
一人ピアノを―――そう思っていたが、やめることにした。
たった一人でも観客がいてくれたのなら、それが心和やかにしてくれる。
そして、相手にもそう思ってもらえたなら。


聴く人に心を込めた演奏がしたい。
音楽は、心と心を繋ぐものだから。

誰もいなくなった音楽室に静かに鍵を閉めると、私は大切な聴衆に会いに行くため踵を返した。




End.





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