◇誕生日 | ナノ



カミツレの咲く丘で 6

ほんの一瞬だったのか、長い時間だったのか分からない。鳳は手紙を持ったまま動けなかった。
ふっと緊張の糸が切れると手紙は膝の上に落ち、そこからぽつぽつと何かを弾くような音がした。
気がつくと涙が行く筋も頬を伝い落ち、白い便せんを濡らしていた。だが鳳はそれを拭う力も湧かなくて、ただ霞む視界に追憶と後悔を広げるばかりだった。

初めて目が合った時。
ふとした拍子に突然、名前を呼ばれた日。
悩み苦しんだけれど、幸せを追い続けた長い年月。
そして、たがいに歩み寄ることを恐れてしまった最期。宍戸は二度目の人生に失望してしまった。

不意に、昨夜の夢が思い浮かんでくる。
宍戸はあの時、想いを受け入れてはくれずに別れの意味を込めて自分に手を振っていたのだと思っていた。しかし、この手紙にあるような気持ちなのだとしたら。もし鳳の幸せを願っての別れだったのなら。
どうしてこんなに時が経つまで気付けなかったのだろう。

「……宍戸さん…ごめんなさい……」

鳳は頭を抱え蹲った。後悔も悲しみも留まることを知らずに溢れ出してくる。
宍戸はたった一人で、どれほど悩み苦しんだのだろう。どうして本当のことを言ってくれなかったんだろう。
鳳はずっと待っていた――いや、いつも必死に宍戸を繋ぎとめておきながら、ただ待っているだけしかしなかったのは鳳だ。宍戸が独りきりで抱えてきた不安に最後まで気付けず、本心をぶつけることを恐れてしまった。
だから宍戸のアンドロイドを作らせた時、都合の悪い記憶を消してしまったのだ。一度目の人生のように、常に不安に付きまとわれて、届かない想いに苦しみながら生きるようなことをしたくないと思うばかりに…。

今も昔も、ただ宍戸のそばに居続けたいと願っただけだった。
でもそのための術を間違えてしまったのだ。
宍戸を責める気持ちは湧かなかった。ただ、もうどうにもできない問題なのだと思うと悲しくて仕方がなかった。
どんなに未来まで生き延びることができても、過去には決して戻れない――。
鳳は俯き、視界を手のひらで覆った。

鳳が今愛している宍戸も、こんな形で過去のことを知って深く傷ついてしまった。
しばらくのあいだそこから動けずにいたが、鳳はゆっくりと立ち上がる。宍戸の置いていった鍵がテーブルの上にあったが、鳳は手紙を木箱に戻すとそのまま錠は掛けずに蓋をした。

玄関から外へ出ると、泣きはらした目に太陽が眩しかった。庭に咲く花達は降り注ぐその光をうれしそうに浴びていたが、鳳はちらつく青い影を振り払うように何度も瞬きした。
姿は見えなかったが、おそらく宍戸はさきほどと同じくカミツレ畑にいるだろう。鳳は生い茂る草の隙間にできたあぜ道の先を目指して歩いた。
庭には砂利を敷いてきちんと整備した小道もあるが、この狭く細いあぜ道は宍戸が何度も行き来してできたものだ。これほどよく通るのに宍戸が何も手入れをしなかったのは不思議だ。
しかしそう考えると、宍戸と二人でここに暮らした日々はひとつ道ができるほど長い時間だったのだ。
鳳は歩きにくい道を少し早足に歩き出した。

カミツレ畑に行くと、やはりその白い小花の中に宍戸を発見した。
目を閉じ、腕枕をして横たわっていたが、鳳に気付くと口を開いた。

「読んだのか」
「…はい。すべて」

宍戸はちらと鳳の赤くなった目を見て、かすかに溜め息のような深呼吸をする。そしてすぐに笑みをこぼした。

「長太郎は、宍戸のことが本当に大事だったんだな。…いや、今もずっと忘れられないくらい好きなんだな」
「でも俺は…、宍戸さんのことを何一つ分かっていなかったんです」

鳳が震える声でそう言うのにも、宍戸は微笑んだ。

「それは宍戸も…俺も、同じだろ。好きなら乗り越えて行かなきゃならねえこと全部怖くなっちまって、長太郎を信じ切れなかったんだから。……俺はどうやら忘れさせられちまってたみたいだけどな」
「…記憶のこと、ごめんなさい」
「……俺は宍戸の姿と想い出をもらって、宍戸としてこの世に生まれてきたんだ。なのに、おまえのせいで俺は宍戸と別物になっちまった」
「……ごめん、なさい……」

鳳が繰り返すと、宍戸は顔を背けるように寝返りを打つ。わずかに見える横顔から、再び目を閉じたのが分かった。

「ここに来ると落ち着く。一人ぼっちで悩んでる長太郎の隣で、あの手紙が届くまでなんにも知らないで生きてきた自分が、少し慰められる気がしてさ。…長太郎に聞くまで知らなかったけど、カミツレにはそういう作用があるんだもんな。でも、俺はそれだけじゃねえんだ。これが長太郎の誕生花だから…なんとなく安心できるんだよな」
「宍戸さん…」
「あの手紙が届くの、いつも怖かったけど……今日が一番怖かった」

わずかに宍戸の眉が歪んだような気がして、鳳は思わず拳を強く握りしめた。
自分のせいだ。そう叫んで頭を下げて宍戸の気の済むまで謝りたい。
しかし、ゆるやかに通り抜ける風と穏やかな宍戸の声は、それを望んでいるようには思えなかった。

「長太郎はこれでもう宍戸との関係に決着がついたんだ。いくら後悔が残っても、おまえたちは本当に愛し合ってたって知ることができたんだから。それに俺が叶うわけないよ。ただ長太郎の隣にいるだけの俺に、やり方は間違ってたけど、悩み苦しみながら長太郎を愛し抜いたアイツの想いを越えられるはずないだろう?……それに、過去の宍戸は生まれ変わりしたおまえを自由にしてやりたいと願ってる。それなのに、俺が隣にいるなんておかしいよな。…長太郎は、宍戸の願いを叶えてやるべきなんだ」
「宍戸さん…!」

鳳は宍戸に駆け寄り、顔を突き合わせるように無理やり抱き起こした。





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